俺の部下の愛が重い4

 ――錆びた鉄の嫌な香り。外を漂う雨の香り。冷たい頬に薄暗い瞳。普段の覇気も威圧感もない男の姿に、ノーチェは歯軋りをした。胸元で寝息を立てながら穏やかに眠っているクレーベルトは胸中を明かさず、相も変わらず隠し事をしている。男を好きで、愛していると告げているノーチェにすら、男は何も明かすことはなかった。

 理由など明白だ。それは、クレーベルトがあくまで「ボス」であるからだ。

 男にとってその役割は何よりも大切で、自分を造り上げている要因のひとつ。完璧なボスを体現していることで部下からの信頼を得て、一切隙のない自分自身を装うことで自尊心を保っているのだろう。そうして自分が傷付くことで誰かが傷付くことを避けている――その現状が、彼は気に食わなかった。
 時折クレーベルトの「ボス」という一面が邪魔をしているような気がする。その顔を装うことで男は弱味を見せることもなく、確かに誰からも信頼されるような存在へと変わった。実力のある人間は自ずと男の後ろを歩き、従っていく。ハインツと呼ばれた彼がその一例だろう。彼はノーチェがいくら嫌悪感を見せたところで、男の傍を離れようとはしなかった。

 その反面、陰では男をよく思わない人間がぽつぽつと現れ始めたのも、ノーチェは知っていた。

 彼らは皆、殺し合いに乗じた結果、顔色を悪くしていた人物たちだ。ノーチェにとってそれは大した人間でもなく、隙を突けば簡単に命を奪えるような人間たちだった。初めは意気揚々としていたため、クレーベルトに認められたいがための気の持ちようかと思っていたのだが、現実との乖離に情緒が追いついていかなかったのだろう。バツが悪そうな表情をしているのを、彼はただ横目で流し見るだけだった。

 ノーチェにとっての彼らは取るに足らない存在。相手にする価値すらない――そう思っていたのだ。

 ――ある日を境にクレーベルトから微かに血の匂いが漂ってくることに、目敏い彼は気が付いた。以前から男が自傷行為に陥りがちであることを知っているノーチェは、平常心を保ちつつ男が怪我を負っていないかをそれとなく確かめる。もしも自傷に陥っているのなら、それは男が愛されたいと無意識に思っている証拠で、ノーチェの気持ちが伝わっていない証で――、四六時中傍にいてやるつもりだった。
 しかし、男の体には一切の傷跡もなく、男自身も何かを気にする様子もなかった。相変わらずのボスの顔をして、時折街を歩き、身内に平等に接する――何も変わらない顔を見せていた。
 代わりに訪れた変化と言えば、心なしか男が大切にしている「身内」の数が減っているような気がするのだ。
 ノーチェは男のように身内と呼ばれている仲間たちの顔を、逐一覚えているわけではない。顔を知る人間や、声だけ聞いたことのある人間がいる程度だ。ただ微かに覚えているのは人間の塊と、密集具合。人間というものは集団行動を好むからこそ、いくつかのグループやら何やらで構成されているのを彼は知っていた。
 何せノーチェはこの世界に来るまで誰かと協力をすることなどなかったのだ。自分より弱い人間がいれば、自分の足を引っ張りかねない。ならば初めから信頼もできない誰かと組むよりも、単独で行動する方が効率がよかった。そうすることで自分に関係のない人間の顔を覚えず、他のことに頭を働かせることができた。

 初めにいなくなったのは気立てのいい青年だった。彼は人がよく、ノーチェにすら挨拶程度ではあるが声をかけてきた。実力は経歴に対して伴ってはいないようではあったが、クレーベルト曰くこちら側の人間は「誰かを殺した」という実績があれば無差別に招待を受けてしまうのだという。何にせよ彼は人のよさで素顔を隠し、誰かを殺めたという事実をひた隠しにしていた。――故に彼がいなくなったのを、ノーチェは認識していたのだ。

 次に消えたのは生意気な女だった。彼女は縛られることを嫌っていて、ボスであるクレーベルトには従っていないような雰囲気だった。そのことも相まってノーチェは彼女のことを良く思っていなかったのだが、肝心のクレーベルトは「従順もいいが反抗的な者もいると賑やかになる」と言って不敬を見逃していたのだ。彼女は気立てのいい青年に比べれば実力があったようで、女であることを利用して相手に色仕掛けをしてから息の根を止めてきたのだという。――そう自慢げに話していたのを、彼は薄ら聞いていた。
 興味がないと言うよりは、万が一にでもクレーベルトに色仕掛けでもされたら許せない――――そんな気持ちばかり湧いていたから、記憶に留めていたのだ。

 その次に消えたのは、言葉遣いの正しい青年だった。彼は自分の実力が劣っているのを自覚しつつ、ボスに従うように礼儀は欠かさない男だった。存外男はこういった従順な部下をいたく気に入る傾向があり、万が一にでもクレーベルトが彼を認識しようものなら、逆らってでも殺すつもりだったからよく覚えている。彼は交友関係は広く、そして殺し合いについて手のひらを返したように否定的だった。
 ――ここ数日はよく人が消えていた。他人に気を配れるほど身内に優しいわけでもないノーチェですら、その事実には気が付いている。このことでクレーベルトから直々に何かしらの話が来るのかと、彼は常に身構えていた。

 男が不定期に開く会合にはノーチェの他にも実力者が数人いて、彼らは皆この世界に初めに招かれた人間たちだ。自分の知らない実力者が世界にはまだまだいるものだと、ノーチェは確かに新しい発見を見つけた記憶がある。そんな彼らを集め、異常があるとクレーベルトから直々に言われるものだと――確かに思っていたのだ。

 ――しかし、待てど暮らせど男は彼らを集めることはなく、何も変わらない日常を送っていた。

 仕事に追われる日々。ボスとして周りの状況を見定め、森の中に魔物を放つ。時折部下たちに仕事を振り、休む間もなく次の仕事に取りかかっては、時間を見つけて息抜きをする。――男は大の甘いもの好きで、机の引き出しに菓子のストックをいくつも溜め込んでいるのをノーチェは知っていた。
 男は身内に対してとても寛大だった。それはあまりにも「ボス」に似つかわしくない事実であることは明白だった。ノーチェですら幼少期に物語というものを読み、ボスという存在は冷酷無慈悲で、自分の部下には情けをかけるような存在ではないことくらい知っているのだ。役に立たない部下であれば首を切り、情など抱くことはない。――それが、ノーチェの知る王者たる生き物の姿だった。一言で表すのなら、クレーベルトという存在は一部において、ボスに相応しくはないのだ。
 それでも彼はクレーベルトに従った。いくら男がボスに相応しくない顔を持っているにしても、従わない理由にはならない。彼は自分の目で、実力で誰に従うのかを判断した結果――、この男になら主導権を握らせても構わないと判断したのだ。
 いくらノーチェが男を特別視しようとも、男がノーチェだけを見つめることはまだない。それに対して不満を持つものの、クレーベルトが身内を大切にすることに異論はなかった。

 ――そんな男が、身内の減少に気が付かないはずがないのだ。

 ノーチェは日頃から頭を使うような戦闘はしなかった。大して賢くはないと自覚している分、少しばかり人間の観察に目を向けることはしていた。そうすることで相手の隙を突き、優勢に立てる。男の為にできることなら何でもするつもりだった。

 自分の体の上で寝息を立て、大人しく眠るクレーベルトの頭に手を置いて、そうっと頭部を撫でる。男を起こさないように極力物音を立てず、静かに男の体温を確かめた。頬に触れる指先に伝わるのはほんのり温かな、ぬるま湯程度の温度。雨の中で触れたそれよりは遥かに温かい男の頬に、ノーチェは小さく安堵の息を吐く。
 まるで死人のような顔をしていた。今にでも命を絶って消えてしまいそうな儚さすらもあった。それを彼は無理やりにでも引き留め、自分を頼らせることに誘導できた。クレーベルトは誰よりも自分の弱い姿を見せることを拒み、なかなか頼らせてはもらえない。――そうして男は気が付かないうちに静かに追い詰められ、いつかの夜と同じ状況に陥ってしまう。
 だから同じ轍を踏まないよう、ノーチェは男の動向を逐一観察しているつもりだった。

 ――だが、やはりボスが忙しければノーチェは邪魔などできやしない。遠くから見守り、時折息抜きの手伝いをすることしかできないのだ。その結果として男はノーチェが気付かないほどに摩耗してしまった。唯一の救いと言えば、男自らノーチェに弱音を吐いてくれたことだろう。
 弱音を吐いてくれたことは素直に嬉しく思う。以前の男なら弱音など吐かず、自分一人で全てを背負ってしまうから。どれだけ自分を頼ってほしいと言ったとしても、頼られず壊れていくのをただ見ていることしかできないから。頼ってもらえたということは、知らず知らずのうちに信頼を勝ち取っていたのだ。

 ――しかし、それだけではまだ足りないのだ。男が傷付いたのを確認してからでは、ノーチェの気持ちはいつまでも晴れないままだ。彼はただ、クレーベルトを傷付けるものから守りたいだけなのだ。
 そのためには何をしたらいいのかと、自分自身に問う。身内が減っていることに言及すらしない男の為に、自分には何ができるのかと問う。――男をここまで追い詰めているのは何かと問う。
 答えは見つからない。――だが、その状況で自分ができることは何かと思えば、答えは簡単に見つかるのだ。

「……もういいだろ……」

 小さな不満が口を割って出た。しかし、男は深い眠りに就いているのか身動ぎもせずに眠っているものだから、安心を越えて不安にすら思う。時折この男は睡眠に紛れて息が止まっているのではないかと、不意に不安が脳裏をよぎってしまうのだ。
 彼は一度だけ、恥やら何やらを忍んで男に身の内を告白したことがある。自分は初めて好きになった存在に秘密にしておくにはあまりにも居心地が悪いと、一族の話をした。
 彼の一族は奴隷に向いていて、一族の為に奴隷商人を殺す使命を背負っている。これは、彼の両親がそうであり、その息子であるノーチェも同じ道を歩んだ結果だ。一族の事情は信頼を置ける人物以外に話すことはなく、万が一にでも情報が漏れてしまえば暗殺対象になると、ノーチェはクレーベルトに打ち明けたことがある。
 それは、ノーチェが男のことを誰よりも信頼しているからで、胸の内を明かしたあとは晴れ晴れとした気持ちになった。
 そのあとに告げられたクレーベルトの内緒話に、その気持ちも憂鬱なものに変わってしまったのだが――。

「…………もう、いいよな」

 ノーチェは軽く寝返りを打ち、クレーベルトの体を抱えたまま横向きへと体勢を変える。その際に男は小さく呻き、彼は少しばかり背筋が冷える思いをしたが――男が目を覚ますことはなかった。
 ノーチェの腕の中で眠るクレーベルトの顔は穏やかで、酷く安心しきった顔をしているのがよく分かる。それは、雨の中で死んだような顔をしていたとは思えないほどだ。目を閉じ、緩やかな呼吸をしている姿は少年のようで、ノーチェの荒んだ心が少しだけ癒えるのが分かる。胸の奥は温かく、思わず頬が緩んでしまう現象が起こるのだが、これが「愛しい」という感情なのだろう。
 腕の中に愛している存在がいると、途端に幸福感に満ちてやまなかった。

「お前が愛してやれる人間は、俺だけでいいもんな」

 なあ、ベル――そう言ってノーチェは男の体を抱き寄せ、大きく息を吸って目を閉じた。
 雨は未だ強く降り頻っていて、月はもう拝めそうにはない。