木の葉が揺れる、草木がざわめきたつ。微かに聞こえる人間たちの会話に耳を傾けていると、男はふっと閉じていた瞼を開けた。その瞬間、繋がりを感じていた五感は消え、自身の視覚と聴覚が戻ってくるのを感じる。本棚に囲まれた執務室。机の傍らに備わっている羽ペン。座り心地のいい椅子に、微かに感じる風の存在。それらが確かに自分のものであると認識してから、クレーベルトは目の前の扉をじっと見つめる。
一部の感覚を手放していたが、それでも男は人間の気配には敏感だった。
遠くから聞こえてくる廊下を歩く足音。執務室の近くには他に部屋があるわけでもなく、近辺を歩いてくる人間は大抵執務室にいるクレーベルトに用がある者たちばかりだ。それは真っ直ぐに男のいる部屋に向かって歩いていて、数十歩歩いたところでピタリと足音が止まる。――そして数秒の間を置いてから、トントンと扉を叩く音が鳴った。
監視によって聞こえた断片的な情報は、必要なものだけは聞き取れた。次の満月の夜に彼らは企てた計画を実行するのだろう。そして、それは彼ら数人によるものではなく、未だ見ぬ他の身内にも話をするに違いない。それらの情報は、今もなお森を彷徨いている獣たちが逐一教えてくれるはずだ。
「…………入れ」
――ならば、男がするべきことは目の前の物事を片付けること。クレーベルトはノックの後に一言だけ促しを入れて、扉の向こうにいる人物に言葉をかける。気配を探ってみるものの、それは慣れ親しんだノーチェのものではなく、また別の何かのものだった。
人であって、人ではないような何か。身のうちに潜む本能が少しばかり警告を鳴らしていると、――キィ、と扉が音を立てて開かれた。
「や、お取り込み中だったかな」
「…………ハインツか」
扉の向こうから覗いたのは、ブロンドの髪を持つ一人の青年だった。青と金の瞳を持ち、猫をかぶったかのような人当たりの好い笑みを浮かべながら、クレーベルトの執務室に足を踏み入れる。男には知識はないが、彼の着ている服は上質なもので、いつ見てもシワひとつない仕上がりが特徴的だった。
ハインツヴァルト――ハインツがボスであるクレーベルトの仕事部屋に足を踏み入れるのは珍しいことではない。彼はノーチェ同様に男に初めて会ったときから妙に懐き、クレーベルトを「兄」として慕っていた。その声色は、クレーベルトによく似ていることが多く、時折自分が話をしているのではないかと錯覚することがある。
それを避けるために彼は男の前で猫をかぶっているのかと、訳もなく男は推測を繰り返していた。
ハインツは片腕に小箱を携えながら男の机に向かって歩いてくる。その所作ひとつひとつはとても丁寧で、彼の育ちの良さが窺えるほど。――そんな男がどうしてこちら側へ招かれてきたのか、クレーベルトは多少の興味が湧いていた。
執務室にはクレーベルトの仕事机の他に、ソファーと広い机が並んでいる。彼はそのソファーに腰を下ろしたあと、「見せたいものがあってね」と言って、小箱の蓋を静かに開けた。
「ついこの間、カップを台無しにしたって言ってたでしょう? もう一セット用意したんだ」
兄さんが気に入ってくれるといいんだけど。――彼はそう言って小箱からシンプルなデザインのティーセットを取り出した。白い陶器だったものの対になるかのように、濃紺の色合いに金の装飾が施された一式だ。大して人間の暮らしに詳しいわけでもないクレーベルトですら、その食器が高価なものであると確信してしまうほど、精巧な造りである。
彼はその食器を難なく用意してはクレーベルトの元へ持ってきて、「あげるよ」と一言だけ残すのだ。
「…………お前、また高そうなものを用意したな」
クレーベルトが愛用しているティーセットは、本来ハインツが所持していたものだ。彼は決まった時間にブレイクタイムと称して、一人で紅茶を嗜むことがあった。その現場に居合わせたクレーベルトは、一度だけ好奇心から彼のそれに付き合ったことがある。温かい紅茶を振る舞われ、紅茶に合う茶菓子を用意されてからは男は息抜きの虜となった。
人間はこのような時間を設けているのかと、感心すらしたことがある。
そのときにハインツから紅茶の淹れ方を教わり――、以来男は自らの手で紅茶を嗜むようになった。
「別に高価な物じゃないよ。どう? 気に入りそう?」
彼は取り出したティーセットを机に並べて、クレーベルトの反応を窺う。男は席を立ち、彼の座るソファーの向かいに腰を下ろして食器をじっと見つめてみた。濃紺の色合いは夜空のようで、目を凝らせば星々が瞬くようにキラキラと輝く何かが見える。まるで星空を切り取ったかのようなデザインに、クレーベルトは言葉を失った。
「これが高くないと証明できるか?」
「ちょっと分からないなあ」
デザインを眺めてから改めて問いかけると、ハインツは笑みを浮かべながら男から視線を逸らす。それは、彼なりに価格に触れてほしくないという意思の表れで。クレーベルトは極力音を立てないよう静かにカップを持ち上げた。角度を変えて見ればなおのこと分かる。この食器は光の辺り具合で星が瞬いているようにすら見えてしまう。濃紺の中に光り輝くその存在は、紅茶を淹れてしまえば眩んで見えなくなってしまうのだろう。
それが、趣があるのだと人間はいうのだ。
――故に、彼はこのティーセットに目も眩むような金額を擲ったに違いない。
男はカップを落とすことがないよう、慎重にソーサーの上に戻す。カチ、と接触時になる音すらも恐ろしく思え、少しばかり体が強張った。男一人では到底巡り会うことのない食器に、仄かな緊張感を覚える。自分は何かを壊すことしかできないと思っているクレーベルトは、高価な物や、脆いものに触れる度に胸が高鳴る錯覚を覚えていた。
気に入るか気に入らないかで言えば、男はこの食器を気に入るの一言に尽きる。男は白く眩しい色合いよりも、夜のように落ち着いた暗い色を好んだ。それ故に身近にいるノーチェの瞳を特に好んでいる。彼の瞳は月の満ち欠けと連動していて、満月になれば一面が金に、新月になれば一面が紫色に染まっていた。世の中には特殊な人種もいるのだと感心すら抱いたことがある。
その所為か、クレーベルトは与えられた新しいティーセットに、それとなく好感を寄せていた。以前使用していた食器も良かったが、この新しいものも壊したくはない。そう、口を滑らせてしまうほどだ。
「ん、気に入ってもらえて良かった」
「悪いな、もらってばかりだ」
クレーベルトの反応に機嫌を良くしたハインツは、ホッと胸を撫で下ろすような仕草を取った。まるで自分の趣味が理解してもらえてよかったと言わんばかりの行動ではあるが、その表情は気に入られて当然と言いたげなものだ。彼は懸命に猫をかぶって自分を偽っているものの、その裏には確かな自信が溢れている。言動ひとつひとつに滲み出るその自信は、たとえ男が鈍くても気が付くほどだ。――何せ彼は、クレーベルトを前にしてもなお、悠然と足を組んでいるからだ。
――とはいえ、このままでは流石に罪悪感が募る。
クレーベルトはハインツをソファーに座らせたまま「待ってろ」と言い、席を立った。そのまま仕事机の脇にある引き出しを開けて、中に忍ばせていた洋菓子を手に取る。それを携えながら再びソファーへと戻り、「日頃の礼だ」と言って小さな包みを彼の前に差し出した。
小綺麗な包装紙と可愛らしいリボンが巻かれた小包に、ハインツが小さく笑いを零す。全身を黒で統一した威圧感のある男が到底持ってくるようなものではないものに意表をつかれ、笑いが堪えられないと言いたげに顔を逸らした。その行動に本人も失礼であると自覚をしているからか、「本当にごめん」と呟くものの、顔は暫く向けられなかった。
男も男で確かに違和感を覚えていた。そのままでいいと告げたにも拘らず、丁寧な包装が施され、可愛らしいリボンまで巻かれてしまって困惑したのだ。それがその店のやり方なのは重々理解しているのだが、手渡した店員ですら戸惑いを隠せないのを、男は冷めた目で見ていた覚えがある。そう戸惑うくらいなら初めからやらなければいいのでは、と疑問に思ったが、口にはしなかった。
ありのままに笑われるくらいが丁度よかったのかもしれない。――ハインツを眺めながら下手に飾らない様子を見かねて、クレーベルトは吐息を洩らす。ここ数日はノーチェ以外の誰かと会話をして、笑うなどしてこなかった。彼との会話に不快感はないが、無意識のうちに少しだけ気を遣うような仕草を取ってしまうことをクレーベルトは自覚している。
たとえば、ノーチェがいつ自分から離れてもいいように、自分から「好き」とは言わないことだとか――。
「…………お前は、故郷に戻りたいと思うか……?」
きゅ、と音を立てて胸の奥が詰まるような感覚を覚え、ふと男は口を開く。目の前には笑い終えたハインツが小包を開けて、形のいいクッキーを頬張っていた。「兄さんは最近クッキーが好きなのかな」という問いに、男は「手が汚れにくいからな」と答える。そのまま咀嚼を数回繰り返して、嚥下をしたあとにハインツは考える仕草を取った。
「何、藪から棒に」
純粋な疑問がクレーベルトに投げかけられる。何の脈絡もない唐突な質問は確かに不信感を掻き立てるものだっただろう。その証拠に彼はクレーベルトの真意を探ろうとする様子を見せてくるが――、ボスの名に恥じないよう、男は無表情を飾ったまま「好奇心だ」と告げる。
「お前たちはあくまで招かれた人間だ。――もし、故郷へ戻れるとしたら、お前は戻りたいと思うか?」
好奇心――それはあながち嘘ではない。彼らはこの世界に招かれたある種の客人だというのに、故郷に帰ることが許されていないのだ。常人ならばこの状況下に精神を病み、崩れ落ちることも少なくはないだろう。いくら人を殺めてきた人間だとしても、彼らは元は何の罪も背負っていない純粋無垢な少年少女たちだったのだ。
それを考慮してクレーベルトは何の気なしに問いを投げかけた。本来ならば身近にいたであろう、ノーチェに訊こうかと思っていた問いだ。――だが、いざ話を振ろうかと頭を悩ませたとき、突然男は彼の返答に耐えられる自信がなくなってしまったのだ。彼が「戻りたい」と言ったとき、自分は本当に普段通り振る舞っていられるのか、不安で仕方がなかった。
その心構えをすべく、男は目の前に現れたハインツへ疑問をぶつける。彼もまた、ノーチェ同様にクレーベルトを慕ってくれている男だ。万が一戻りたいと答えたら――そう考えるだけで、寂しさが胸に募る。この賑やかさを手放すことになるのかもしれない。男は人知れず服をキュッと握り締めていた。
「…………兄さんは、僕の育ちがどんなものだったか知ってるんだっけ?」
――クレーベルトが覚悟を胸にしているとき、ふとハインツが言葉を洩らす。それは、目の前にいる彼が何故人を殺めるに至ったのか、それを知っているのかという素朴な疑問だった。男はその問いに一度だけ考えるように口元に手を当てて、「分からないこともない」と答える。
ボスとしての権限を持ってすれば、招かれた人間たちの記憶を覗き見ることは可能だった。実体験として本人の記憶の中に飛び込めれば、書面として流し見ることもできる。男は主に書面で必要な情報だけを抜き取り、それ以外のものは見ようともしなかった。見たくない、と言うよりは、本人たちの意思を尊重してのことだ。「聞いてほしい」と言われて語られるのなら話を聞くが、「聞かれたくない」と言われるのなら知るつもりもない。
――そう告げると、ハインツは納得したように頷いて笑った。やっぱり兄さんはボスに向いてないんじゃないかな、なんて言うものだから、クレーベルトは小首を傾げる。そう言われる理由を男は待ったが、彼は理由を話そうとはしなかった。
代わりに彼は足を組み直し、真っ直ぐに男を見つめて言う。
「結論から言うなら、僕は戻りたくない。家族ってやつが大嫌いなんだ」
話を聞いてくれる?
彼はそう言って、自分の身の上話をし始めた。