俺の部下の愛が重い3

 ――彼は裕福な家の長男として生まれた。誰もが彼の誕生を喜んだが、彼が生まれたての目を開いたとき、誰もが言葉を失った。彼の両親は二人とも金髪で緑碧の目を持っていたが、ハインツだけは海のような青と小麦畑を彷彿とさせる黄色の瞳を持っていたのだ。
 以来、両親は不仲になり、ハインツに近付くものは誰一人としていなかった。
 それでも裕福な家庭に生まれてしまった以上、それ相応の知識と実力は持っていなければならなかった。
 あてがわれた教師たちは誰もがハインツに厳しく当たった。少年に対し無理難題とも言える問題を叩き出したり、大人でさえも音を上げるほどの教育を施した。そうすることで両親たちはいつか駄目になる我が子を遠巻きから見て、彼をいなかったものにしようと試みていた。
 ――しかし、彼は酷く優秀だった。無理難題と言われた問題は数時間後には解かれ、教師たちの知識の遥か上を行く知識を見せた。教えたつもりのない言語を話し、見せたこともない数式をいとも簡単に解いていく。そうして決まって、彼は最後に誰も彼もを見下して「ドブネズミが」と呟くのだ。
 そうともなれば流石の他人ですらも、嫌悪よりも恐怖が勝るもの。いつしか彼の周りには人がおらず、数人のメイドが必要最低限の世話をするだけの生活が訪れた。食事は運ばれるが、風呂は手伝われることなどなかった。そのことに問題はなかったものの、声をかけられることもなく運ばれてくる食事が冷めることだけは許せなかった。

 ハインツは生まれながらにして勝ち組と言える人生を送っていた。――家族関係が上手くいっていないことと、自身の異常性を除けば。

 彼は孤独でいることも厭わなかった。
 数年が経ち、齢が十になった頃、彼に一人の弟ができた。ハインツとは違い、いくらか体の弱い弟は生まれてから数年は自室にこもり、療養する毎日だった。そこでハインツは悪戯心も兼ねて何度か弟の顔を見に行ったことがある。メイドや執事、両親からは会うことを禁じられていたが、その程度で怯むことのない彼は、誰もが自分に構わないことをいいことに、暇を潰すためだけにそれに会っていた。
 ――結論から言えば全てが退屈に過ぎなかった。病弱の弟は特に笑いもせず、小さく細々と話すだけ。ハインツのことを「兄さん」と呼ぶ程度で、それ以上の交流は認められなかった。
 ただ、弟は時折窓の外を見ながら夢を語っていた。彼の屋敷は庭がとても美しく、手入れの行き届いていたものだった。それを見て、「大きくなったら庭師になりたい」などと宣った。――境遇、出生から見ればその弟の夢は到底叶うものではないと思ったが、当時のハインツは人を見下しながらも、ある程度の良心は持ち合わせているつもりだった。だから、「じゃあその軟弱な体をどうにかすることだな」なんて言って、適当にあしらった記憶が残っている。それをどう解釈したのか定かではないが、弟は照れ臭そうに笑ったのだ。

 ――そんなやり取りをしている最中でも、ハインツは自分の体が異常を訴えていることだけは忘れられなかった。
 生まれながらにして持ち合わせていたのは容姿や、頭の良さだけではない。身を焼き尽くすほどの強い食欲が、少しずつ体を蝕んでいくのが分かっていた。それは物心ついたときから彼の傍を付きまとい、双子のように育ってきた。幼い頃は気にならなかったそれも、歳を重ねる毎に強くなっていく。与えられる食事だけでは収まらず、彼は時々口にできるものは何でも喰らってみせた。
 土や紙、花から始まる多種多様の植物――。それでも、彼の空腹だけは鎮まることはなかった。
 気が狂うほどの夜を越え、また朝日が昇るのを彼は虚ろな瞳で見つめていた。両親に愛されないことなどどうでもよかったが、満足に食欲を満たせないことだけが酷く不満で仕方がなかった。その欲は夜が一番大きくなり、ハインツは眠ることも許されなくなった。やがてその欲に苛立ちを覚え、遂に机に歯を突き立ててしまったとき――、彼は自室の扉が開く音を聞いた。
 見れば侍女が朝食を運んでくれているところだった。香ばしく焼かれたパンに、程よく焼き目のついた目玉焼きやサラダ、ウインナーが皿に載っている。その香りと共にやって来た侍女は彼の凶行を見るや否や、小言を洩らしながらハインツを軽蔑するような視線を投げかけた。
 みっともない、――確かにそんな言葉が零れ落ちたような気がする。
 しかし、そのときの彼は空腹のあまり正気ではなかった。香ばしい香りが辺りに広がり、ゴクリと生唾を飲み込んだのを、自覚している。そのまま侍女が運んできた朝食に手を伸ばし、カラトリーを手に取った。丁寧に磨かれた、銀色のナイフだ。
 彼はそのナイフを握った。強く、手のひらに食い込むのではないかと錯覚するほどに。手のひらの熱がナイフに移り、生暖かくなった柄を軽く捻れば、ナイフに反射して写る自身の顔が見えた。――血走った目が、確かに笑っていた。

 ――その日、ハインツは初めて人を殺めた。

 生暖かい液体が手のひらを伝い、床に大きなシミを作る。好奇心からそれを舌で掬い、彼は血を、肉を、何日か振りに漸く食事にありつけた乞食のように喰らった。
 ハインツヴァルトの輝かしい人生は幕を閉じ、新しい暮らしに身を投じた瞬間だった。

「あのときは計画性もなかったし、すぐに見つかってそのまま家を追い出されたんだよね」

 彼は懐かしむように語り、クレーベルトが与えた菓子を口に放り込む。家を追い出された彼はその足で別邸に追いやられ、自力での生活を余儀なくされた。血肉を貪ったあと、異常な食欲は眠りに就き、常人と何ら変わりのない生活を送っていたのだという。
 そんなある日、家に押し寄せてきたのは身売りの商人たちで――、彼は一時期奴隷とも言える立場にいたのだ。
 彼の過去を聞いていた男は、その話をまるで物語を読むように理解していた。普段は書面で確認している分、語られる内容は記憶に訴えかけるように、時折ハインツの意識が流れ込んでくるようだった。本来、彼は何かに縛られる生活を送るような性格ではない。そのことも相まって、自分の故郷には帰りたくないと言い張るのだろう。
 この世界では誰かの命を刈り取ることは罪に問われない。相手が身内でない限り、クレーベルト自身が咎めることもなければ、止めることはない。そうして彼は食にありつけ、飢えを満たし続けているのだという。普通の食事では決して満たされない部分を、彼はそうやって補っているのだ。
 そして、その感情を誰よりも男自身が理解してやれた。

「僕はね、兄さん。――君とよく似ていると思った。声とか、背丈の話じゃない。もっと深いところ……根本的なものがね」

 そう言いながら彼は空になった小包をそっと机の上に置いて、手を組んでクレーベルトに向かって微笑んだ。弧を描く互い違いの色を湛えた瞳が、じっと男を見つめている。その瞳にクレーベルトが気圧されることはなかったが、よく目を凝らしてみれば、彼は獣にも似た瞳を持っていた。鋭く光る瞳孔が何よりもそれを物語っている。

「…………お前」

 何故今まで気が付かなかったのか、そう疑問に思うほど鮮明に見えるそれに、男は言葉を失いかけた。人間のようで、人間ではない何かの気配が彼から漂う。その正体をクレーベルト自身は見抜くことはできずにいたが、男の体は何かを知っているような気がした。
 例えるのなら、そう――言うなれば「同族」のような――。

「ベル…………あ? またお前か」

 ――何かが脳裏をよぎりかけたとき、突然ノックもなしに扉が簡単に開かれる。静寂を切り裂くのは聞き慣れた男の声。ノーチェが執務室に入ってきたと理解すると同時に、男はその足音のなさに少しばかり不満を持つ。話に没頭していた所為か、彼の気配に気が付くこともなかったクレーベルトは、ノーチェの来訪に小さく肩を震わせていたのだ。
 ノーチェが意気揚々と部屋に足を踏み入れ、ハインツの存在に気が付くと途端に場の空気が悪くなる。ハインツとノーチェは特に接点があるわけではないのだが、どちらもクレーベルトに懐き、傍にいることが多いという共通点があった。その共通点が彼らを引き合わせることが多く、二人が顔を合わせてしまうことが度々ある。その上、ハインツは誰がどう見ても自分を偽ってクレーベルトに関わっているのが見て取れるものだから、裏表のないノーチェはそれが気に食わなかった。
 媚を売って近付いてくる奴には裏がある。そう言いたげにノーチェはハインツに睨みを利かせ、「何か用かよ」と口を洩らす。先程部屋に入るときに見せていた人懐っこい笑顔はどこへ行ったのか、彼は酷く不愉快極まりないと言わんばかりの表情を浮かべていた。
 対するハインツはその挑発に乗ることもなく、横目でノーチェの姿を視界の端に入れる。組んだ足はそのままに、手をほどき背凭れに体を預けてから「それをそっちが言うか?」と呟いた。少し前にクレーベルトと話をしていた声色とは打って変わって低くなったそれは、男の声色とよく似ている。聞き耳を立てれば微かな違いこそは分かるものの、似て非なるそれにクレーベルトすらも感嘆の息を零す。

 本来ならクレーベルトのような存在と似ているものなど、あるはずがなかった。初めは覚えてもいなかったが、時間が経つにつれて男は自分がどのように生まれたのかを把握した。
 とある世界にいたとされる暴食の獣の亡骸を媒体に、一面に蔓延る闇を注ぎ、魔力を流し込んで命の芽吹きを待つ。――そうして生まれたクレーベルトという存在は、闇の中を孤独に彷徨ううちにこの世界を創り出した『主』に声をかけられたのだ。
 見た目こそは異なるものの、そんなクレーベルトと似ているところのあるハインツの生まれは確かに人間からだ。男のように何かを媒体に創造された命ではない。母親の胎内で育ち、生まれ落ちた一人の健康男児だったはずだ。
 ――だが、何らかの理由により彼の中に何かいるとするのなら、話は変わるだろう。
 ――そんな考え事をクレーベルトが一人でしている間に、ノーチェは慣れた足取りで男の傍らに寄り添った。

「ボスの直属の部下が、理由もなくボスの元に訪ねたらいけないってルールでもあったか? ねぇよな」

 そう言って彼はソファーに座っているクレーベルトの隣に堂々と座り、腕を組んだ。指先が空いたグローブをつけている手が頻りに腕を小突いているのが見える。マントの下から顔を覗かせた腕に指をトントンと当てて、ノーチェが苛立ちをこれでもかと表している。
 とっとと出て行けと言わんばかりの言動に、クレーベルトが少しだけ首を傾げた。
 出て行けと言う権利があるのは自分ではないだろうか――?

「お前は何の用だよ」
「ははっ、俺はただ、どこかの誰かが壊してくれたティーセットの代わりを新しく用意してきただけだけど?」

 あれも質のいいものだったのによくも壊してくれたな。――そう言いながらハインツは短い金髪を掻き上げて、逆に挑発をしてやると言わんばかりの口調でノーチェに答えた。その口振りはやはり男と話していたものとは異なり、猫をかぶっているとは言い難いほどには粗暴な色を含んでいる。もうひと息足を踏み込めば、ハインツの元の口調を聞けるのではないかと思えるほどだ。
 だが、あくまで傍観を貫いていたクレーベルトも、彼の言葉につい「ん?」と声を上げてしまう。聞き間違いでなければハインツは以前のティーセットのことを「あれも質のいいもの」と言い放った。それは、暗に高価なものであると示している言葉だ。前回こそはのらりくらりと躱されてしまったが、今回こそは聞き逃しはしなかった。

「やはり高価な」
「おおっと、いけない! こんなところで油を売ってる暇はないんだった!」

 クレーベルトがすかさずハインツに苦言を呈してやろうと口を開けば、ハインツはわざとらしく立ち上がりそそくさと席を離れる。彼は自分が贈ったものの値段を気にされるのを酷く嫌っていて、この手の話題を避けようと普段から話を逸らし続ける。それは今この瞬間にも行われていて、男は遂にそれについての話題を避けることにした。
 彼は惜しげもなく扉に手をかけ、クレーベルトの隣でノーチェは「とっとと失せろ」と言わんばかりに手を払う。その瞬間、ハインツはふと振り返り、男を見ながら言った。

「君がどんな選択を選ぼうとも、ついてくる人はついてくるよ。――そこのニンゲンとかね」

 男の悩みを見透かすように、ハインツは何らかの意味を含んだ言葉を置いてするりと部屋を出ていく。その言葉を聞いたノーチェは一度瞬きをすると、クレーベルトに向かって不機嫌そうに顔を歪め始めた。どうやら自分以外の人間が内緒話をすることを酷く嫌がっているようで、「何の話」と彼は言う。返答次第では何をしでかすかも分からない――そんな顔付きだ。
 しかし男はその問いを避け、「お前は何をしに来たんだ」と問う。贈られた食器を丁寧に小箱へ戻し、割れないようにと細心の注意を払った。それが気に食わないようで、ノーチェはクレーベルトの問いに答えることもなくじっとそれを見つめている。

 自分という人間がいるのに、他人からの贈り物を受け取るなんて。――そのふつふつと湧いてくる怒りが肌を伝って伝わってくるようで、男はいたたまれない気持ちになった。

「……割るなよ」
「何で」

 咄嗟に食器を庇いつつ警戒を表せば、ノーチェは言葉をかぶせるように問う。それに男は「夜みたいだろう」と言った。

「俺は夜が好きだ。だから駄目だ」
「……………………そ……」

 他人からの贈り物は大切にするべきだ。そう言いながらも自分がそれをいたく気に入っている理由を話せば、ノーチェは言葉を失ったあと、渋々といった様子で諦めの姿勢を見せる。何やら嬉しいような、けれどむしゃくしゃしているような感情が入り乱れた雰囲気に、男はホッと安堵の息を吐いた。これで息抜きをする時間が楽しみだと、仄かに期待が募る。
 そのままそれを仕事机の横にある一番大きな引き出しに入れていると、彼はふと「好きな奴の顔を見に来ただけ」と呟いた。それは、先程クレーベルトが問いかけた「何をしに来た」に対する答えだった。ふとノーチェの顔を見やれば、彼は悔しいと言い出しそうなほど唇を尖らせて感情を露呈させていた。自分よりも先に誰かがクレーベルトと顔を合わせているのが気に食わなかったようだ。
 パタン、と引き出しを閉めてノーチェの傍へと男は歩み寄り、徐に頭を撫でる。すると、彼は少しばかり驚いたように目を見開いてから、静かに目を逸らして黙ってその手を受け入れていた。男は誰かを甘やかすとき、無意識に頭を撫でる癖がある。出会ってから数年ほど傍にい続けたノーチェは、クレーベルトが不貞腐れている自分を甘やかしてくれているのだと悟った。
 彼は撫でられるのも嫌いではない。――少なくとも、男はそう認識している。そのままポツリと「ハインツが嫌いか?」と何気なく問えば、ノーチェは少しだけ間を置いてから気まずそうに口を開いた。

「嫌いっつーか……分かんだよ、心から他人を見下してる目が……上手く隠してるつもりかも知んねぇけど……でも、ベルの前だけ人が変わったようになりやがって……」

 ああいう人懐っこい感じを、お前が好きになったら嫌だと思う。
 そう言ってノーチェは頭を撫でるクレーベルトの手を取り、そのまま頬へと寄せる。布越しでも分かるであろう男の体温を、彼は気に留めることもなくただ甘えるように手を握っていた。下心はないが、やけに不安そうな様子に、クレーベルトはただ見つめる。白い髪が不安そうに揺れるその隙間に、ノーチェの特徴的な瞳が覗き込んだ。
 一面紫に染まった鮮やかな色を湛えていたのを、男は見逃さなかった。
 それでもまだ穏やかで大人しいのは、本当に鞍替えしてしまうのではないかと不安だからなのか。生憎、クレーベルトにはノーチェの気持ちなど汲み取れはしなかった。
 ――ただ、見慣れない様子の大人しいノーチェに、ほんのり愛しさが込み上げてきたような気がしたのだ。

「…………お前の犬は、俺だけでいい……」

 そう洩れた言葉も、クレーベルトにとっては不安から来る呟きにしか聞こえなかった。