俺の部下の愛が重い5

 満月までの間は平常通りに過ごしていた。相変わらずハインツは突然現れ、クレーベルトに贈り物と称してやたらと日用品を渡してきた。その用途が一体何なのか理解し得ないまま男は受け取り、何らかの礼を返してやろうと顔を上げれば一目散に逃げられる日々。よくよく見れば、それは二人分のものであり、片方が誰のものかも男には分からなかった。
 その度にノーチェがやってきては贈り物を見て嫌そうに顔を歪め、クレーベルトが何度も宥めることもあった。時折街に出て甘いものを買い漁っては食い尽くし、森に出掛けて自然の空気を思い切り吸った。夜には何故かノーチェが毎回部屋に押し入ってきて眠るのには困ることはなかった。
 日中彼が何をしているのかと問えば――、ノーチェは一度だけどこかを見て何かを考えたあと、「いつも通り馬鹿やってんの」と笑って言った。その顔には何かを隠されているような気がしたが、人間に秘密のひとつやふたつは付きものだと思い、気にすることはなかった。

 こうして男は余計なことに頭を使うことはなく、変わらない日々を過ごせていた。その間にも獣たちは男に情報を共有し続け、反逆者たちの居場所を教え続けている。満月の夜に行動を起こす人間はおよそ十数人。そのうちの四人ほどがクレーベルトの傘下にあった者たちで、それなりの実力を積んでいた人間だ。集合に使っている森の木には目印が施されており、彼らはその木の下に集まるのだという。
 ――滑稽なものだと男は小さく呟いた。自分が大切に扱えば扱うほど、それは手のひらから零れてどこか遠くへ行くか、反抗してくる。あたかも自分が「正しい」と言わんばかりに男に刃を向けて、己の正義を振りかざすのだ。
 そのことに少しずつ――確かに疑問が募り始める。果たして自分を裏切り、殺そうとしてくる人間を平等に愛してやる必要があるのだろうかと。彼らは故郷で罪を犯し、やがては捕まり罰を受けるはずの存在だった。中には確かに何かしらの理由を持って罪を犯した人間もいるのだが、ノーチェのように一族を守るというような理由を持った人間は殆どいなかった。

 強姦、心中、嫉妬、見せしめ、衝動、秩序の縺れ――男は彼らの素性を知るべく、与えられた権限を全て駆使して情報を得る。その記録にある彼らの素性は醜いもので、殺された人間の大半は力の差がある女だった。万が一にでもクレーベルトが彼らに殺されてしまった場合、故郷に戻る手があったとしたら、彼らは故郷に戻り己の罪をひた隠しにしながらのうのうと生きていくのだろう。
 そして、再び同じ罪を犯し、手を汚していくのだ。

「――……疲れるな」

 ポツリと呟いた言葉にクレーベルトは驚いたように目を丸くしながら、そっと自分の口元に手を当てた。以前ほどの疲労感は覚えていないと言うのにも拘わらず、男の口から出てくるのは現状に対する不満だ。その事実に男は小さく首を傾げ、疑問を胸に抱く。彼らに対する情は不思議なほど残されてはいないように思えた。
 ――何度だって考えてしまう。果たして自分を裏切る可能性のある人間たちを庇い、体の一部を失っても良かったのかと。彼らに体の一部ほどの価値があるのかと。彼らは男の弱体化に漬け込んで手のひらを返し、クレーベルトに反逆の意志を見せる存在だ。男が対処もせず放っておけばやがては身内に手を出し、内部からの崩壊を助長させるかもしれない存在なのだ。
 ――そんな生き物を愛してやるくらいなら、たった一人、自分を想ってくれる存在に目を向けてやるべきなのではないだろうか。

「……これが『愛』というものなのだろうか」

 月明かりが差し込める森の中を歩きながら、男は小さく呟きを洩らす。雲はなく、夜空には満天の星と惚れ惚れするほどの満月が輝いていた。クレーベルトはそれを見上げ、人知れず笑みを溢す。男にとって夜はこの上なく心地が好く、月明かりは日光よりも穏やかで気持ちが良かった。――その上、月は男の気分を上げてくれる。クレーベルトが上機嫌で森の中を闊歩していられるのは、間違いなく満月のお陰だ。
 ――不思議なことに、あの雨の日から男の気持ちは酷く傾いている傾向にあった。男は自分の身内をこの上なく大切に、大事に扱ってきたつもりではあるが、彼らにとってその優しさは無意味なのだと気付かされたのだ。それに気付けるのは、やはりクレーベルトの傍に寄り添ってきた人間だけで、不器用な優しさを彼らだけが掬ってくれるのだ。
 そうとなれば自ずと自分が大切にするべきなのは何なのか、次第に明確になってくる。――寧ろ何故今まで気が付かなかったのかと言われるほどだ。灯台もと暗し、という言葉が存在するように、男はそれに気が付かず過ごしていた。彼は何度も好意を伝えてきたと言うのに、クレーベルトは「好き」の一言すら返したことがない。
 全てが終わったら話をしようと男は決意を固める。話をして、好意を返してやって、――彼の幸せを願おうと、心に決めた。
 その瞬間、後方からの小さな物音を男は聞き逃さなかった。

「………………」

 男の後方から刃が飛んでくる。それは月明かりを反射させて男に向かって一直線に飛んできた。半径一メートルほどの距離さえあればクレーベルトは難なく対処できるが――、このときだけは半身を避ける程度で済ませてしまった。
 ぱらりと男の黒髪が夜を舞う。ただ褒められたい――その一心で伸ばし続けていた髪が、飛んできた短刀の切っ先に触れてしまい、髪の一部が短くなった。かろうじて怪我を負わない程度に避けたつもりではあったが、男の右目を隠す黒い眼帯の紐が解ける。
 重力に従うように支えを失った眼帯は滑り落ちて、地面の上に音もなく落ちていった。

 夜道だからといってフードをかぶらなかったのがいけなかったのか――クレーベルトは呆れたように吐息を吐き、足下に落ちた眼帯を拾う。今まで隠されていた彼の右目は、月のように目映い金の色を湛えていた。
 クレーベルトは徐に短刀が飛んできた後方に視線を向ける。――すると突然、暗闇の向こうで「ひっ!」と短い叫び声が上がった。夜が深まり、月明かりが辺りを照らしているが、鬱蒼と茂る森の中は殆どが闇に包まれている。影は闇に溶け込み、辺り一面は男の監視下にあるも同然だった。
 ガサガサと草を掻き分け、逃げ惑う足音が聞こえ、男は小さく溜め息を吐く。獲物を追いかける時間が気に食わないわけではないが、ノーチェに話をするには事を早く済まさなければならないのだ。――そう考えていると、暗闇の中での鬼ごっこは酷く厄介なもののように思えて仕方がなかった。

「……やむを得ん」

 溜め息を吐くように男は呟きを洩らし、そっと自分の手袋を取り始める。黒い布の下から顔を出したそれは、月明かりの所為かいっそう青白く見えて陶器のようだった。黒一色で彩られている爪は闇夜に溶け込みそうではあるが、相反する肌の色で存在を保っているように見える。
 その手で男はパチン、と軽快に指を鳴らした。
 すると、その音と同時に青年の悲鳴が上がって、遠くから何かが倒れるような音が鳴る。草を踏み、土埃を上げて人が倒れてしまったような音だ。
 その音を頼りにクレーベルトは足を運んだ。道中外した手袋を再びはめ、草木を進む。木の枝は男の存在を恐れているかのように避け、獣たちは爛々と目を光らせてから男の到来にそっと鳴りを潜めた。
 足を進めて辿り着いた先は、森の中でも月明かりが差し込む場所だった。森が開かれ、多少広まったその空間の中心で、男が一人、座り込んだまま小さく唸っている。どうやら倒れた拍子に足を痛めてしまったようで、彼の手は自身の右足首に添えられていた。
 満月の夜、男はわざと人間を見送ったあとに最後に残った彼に目を付けた。彼はどうやらクレーベルトが現れるとは思ってもいなかったようで、男が暗闇から姿を現した途端、声を上げて走り出したのだ。当然のようなやり取りになることは明白ではあったが、やはり身内として見ていた以上、最低でも一人に話を聞いておきたかった。

 後を追って、追い詰めて。月明かりの下に現れた男の存在に、彼は息を呑む。吹いた風が優しく頬を撫で、男の黒い髪が揺れる。普段なら隠れている男の金の瞳は――赤い瞳よりも獣染みて見えた。彼は男に見下ろされ、体を震わせていたが――突然口を開き、震える声で言った。

「ど、どうなってる……どうしてここは、崩れかけているんだ!?」

 彼は続けた。逃げ惑う道中、森の奥深く――誰も足を踏み入れたことのないような場所へと辿り着いたのだ。そこは獣の気配もなく、生き物の息づかいも聞こえない不自然に静かな場所だった。先程まで吹いていた風も、木の葉が揺れる音すらも聞こえず、まるで辺り一面が死んでしまったかのように静かだった。
 そこを不自然に思いながらも奥へ進んでいくと、森の中に紛れて崖が見えたのだ。あと数歩も歩けば奈落の底へ落ちてしまう――そのすんでで押し留まったとき、彼はこの世界の異常性に目を疑った。
 崖の向こう――景色が綻び、辺りがほろほろと崩れていたのだ。

「――見たのか」

 男は感心するようにほう、と息を吐きながら、さも当たり前のように言った。ひとつの動揺も見られず、まるで初めから知っていたと言わんばかりの言動だ。腕を組み、少しだけ都合が悪そうな表情を浮かべてから、どうでもいいと言うようにすぐに無表情を貫く。クレーベルトはこの世界がどうこうよりも、ノーチェに話を持ちかけることが重要に思えているのだ。
 しかし、この場所の秘密を知った以上、彼を見逃すこともできやしなかった。

「それで、どうした」

 クレーベルトがそう言い放つと、彼は会話を続けられると思ってもいなかったのか、一度だけ間抜けな声を洩らす。――そのまま易々と殺されるわけではないと知って、足首に添えている手を小さく握る。一度でもクレーベルトに背いた人間だ、反抗的な態度を取るのかと思えば、彼は怯えたような表情で「帰れるんですか」と男に問いかけた。

「俺たちは、故郷に帰れるんですか……あれは、まるで空間そのものが滅んでいるように、見えました…………あれは、何なんですか……」

 彼はクレーベルトに説明を求めるよう、顔を上げて言った。逃げていた先が突然綻び、ぼろぼろと崩れていく様を見れば人間はこのような様子になるのか。――そう思いつつ、男は「捨てられた証だ」と告げる。

「あれは――『主』がこの世界を捨てた結果、少しずつ消えているのだ」