俺の部下の愛が重い5

 ――あれはまだ、男の片腕が失われて間もない頃だった。『主』の呼びかけを受け、クレーベルトが会いに行ったところ、突然にこやかな顔でそれは言った。
 
 ――もう飽きちゃったから、クレーベルトは要らないや
 
 それは少女のような声色で、コロコロと気分が変わる猫のような様子で言い放った。
 男は『主』に声をかけられたその日から、『主』の忠実な犬として振る舞ってきた。彼女の為に身を尽くし、彼女の我が儘にいくらでも付き合ってきた。自分を慕ってくれている部下よりも『主』を常に優先し、自分の時間がいくらすり減ろうが何だろうが、その無茶振りに応え続けてきていた。
 そうすることが存在意義であるように、忠誠を誓った相手に尽くすことは男にとってこの上ない喜びだった。――だからどんな無茶振りにも応え、時間を割いてきたというのに。
 彼女は、飽きたという理由でこの場を去ってしまったのだ。

 残されたのは招いた人間たちがいる閉鎖的な世界と、ボスという役割が与えられたクレーベルトだけ。突如告げられた別れの言葉に、男は言葉を失い、呆然と立ち尽くしていた。
 一体どうすればいい――そう、答えのない問いを何度も繰り返し続ける。残された彼らは事情も知らず、『主』の遊び道具として呼ばれただけ。繰り返し行われる殺し合いを続けることが彼らの義務ではあるが、それを続けることも無意味となってしまった。何せこの世界は『主』の退屈だという気持ちを癒やすために用意された舞台だからだ。それに飽きたということは、続ける意味すらもない。
 自分は役立たずだったのだろうか――そんな疑問が後をついて回る。片腕を失ってから身内からは裏切る人間が増えてきた。弱体化したボスについていって何かを得られるのかと疑っているようだった。そうして敵対する相手と情報を交換し、彼らが帰るための条件を得ていたのだ。
 この世界に残された『主』の力はもう殆ど残されていない。男は何度も彼らを帰すことを考えてきた。彼らを故郷に帰す手段は、「ボスが殺されること」――正義は必ず悪に勝つという条件を達成することだ。そうすることで敵対している相手は解放され、故郷に戻れる。

 ――なら身内は。ボスの部下である彼らは一体どういう条件下で故郷に戻れるのか。彼らはあくまでボスの部下という立場にあり、仲間であるのだ。たとえ裏切ったとしても、仲間であったという事実は決して消えることがない。
 故に彼らは、裏切ったとしても帰れる保証などどこにもありはしないのだ。

 何せ、彼らが故郷へ戻れるのは――敵対関係にある相手に殺されることが条件だからだ。

 この条件を彼らが打ち明けられるはなかった。彼らはただ人を殺め、殺すことに長けた人間たちだ。そんな身内が、敵対関係にある人間を屠ることに抵抗など、覚えることなどないはずだったからだ。
 ――それでもこの世界の崩壊に耐えられなかった男は、気が狂うほどの罪悪感を胸に抱えながら強く縋り付いていた。男にとってこの世界は、生まれた場所は違えど故郷そのものだったからだ。初めて人間関係を築き、学びを得た唯一の場所だったからだ。
 ただ「飽きた」という理由だけで手放すには惜しい、大切な場所だった。この場所には、自分を慕ってくれている部下がいるのだ。
 一人で抱えるにはあまりにも大きすぎる悩みを、クレーベルトは誰にも打ち明けられなかった。それは、男を好いてくれているノーチェにすらも、だ。彼は何も知らないまま男を好いて、男が欲しいと思っているものを無条件で与えてくれる。――それを手放さなければならないと思えば思うほど、深い悲しみが襲ってくるのだ。
 彼には帰る場所がある。――しかし、クレーベルトには帰る場所などどこにもなかった。

 ――それでも。

「いつかは帰さなければと、思っているところだ」

 そう言ってクレーベルトは呆然としてる彼に歩み寄り、その顔をじっと見下ろした。彼は驚きと絶望が入り交じっているような表情を浮かべていて、唇をはくはくと動かしている。言葉を失いつつも何かを言いたげな様子に、男は瞳を閉じた。
 ――当然の反応だ。敵対する人間に戦力があるかどうかと言われれば回答に困り、身内に死ぬ覚悟があるのかどうかと訊けば言葉を失う。彼らは殺す手段と気持ちは抱いていつつも、自分が死に至る覚悟などできてはいないからだ。中には死ぬ覚悟も持って過ごしている人間もいるだろうが、大半は「自分は選ばれた人間だ」と言って、まるで死ぬとは思ってもいないのだ。
 彼もまさにその一人だったのだろう。だから男の元から逃げ出して、死なないようにと立ち回っていたのだ。
 死ぬ覚悟もない、殺せる気合いもない――そんな人間たちに、まだ手段はある。
 そう男が呟いてみせると、彼は弾かれたように肩を震わせ、「え」と言った。その瞳は絶望に満ちていた色から一変、微かに希望を宿し、裏切ったはずの男を縋るような目で見つめている。月明かりがなおのこと彼の瞳を輝かせていて、まるで少年のようだと男は思った。

「簡単だ。――お前たちが俺に殺されればいい」

 ――そう思いながら、男は言葉を続けた。
 彼らが故郷へ戻るために必要な手段は、相手に殺されるかボスを殺すかの二択だ。だが、それはあくまで彼らに与えられた手段であり、誰にも告げたことのない手段を持っている者が一人だけいた。
 それが、この世界のボスを担っているクレーベルトだ。
 男は別れを告げられてから自分がどう行動するべきかをひと通り悩んだ。ボスらしく振る舞い続け、いつの日か殺されるのを待つことが正しい「悪」のあり方なのだろう。初めから彼らが自分を殺せると思っていない男は、少しずつ彼らへ教育を施してやって、十分な力をつけた頃にその機会を与えてやるべきだと思っていた。
 ――しかし、そうするためには遥かに実力のある身内に「わざと負けろ」と命令を下すしかない。好戦的な性格が殆どの彼らにとって、負けるという考えはないに等しいのだ。隙を窺い、どのタイミングで命を刈り取れるのか、学んできた彼らが実力も出し切れずわざと殺されるのは――男としても心苦しかった。
 何より見たくはないのだ。自分が目をかけてきた人間たちが、揃いも揃って死んでいくのを。

 ――だからこそ男は決意を固めた。かろうじて残されている彼らを故郷ヘ戻す方法――そのうちのひとつを、男は握り締める。彼女にも微かに良心はあった。「お家に帰れないのは可哀想だから、帰せる方法はクレーベルトに任せておくね」そう言ってボスの役割を担っているクレーベルトに、帰還させる方法をいくつか預けられる。
 思えばこのときから彼女はこの世界を手放してしまうことを視野に入れていたのだろう。以前の彼女は、今よりもいくらかまともな思考をしていたように思う。日が経つにつれて少しずつそれは音を立てて崩れていったのを、クレーベルトは何もできなかったと嘆くしかできずにいた。

 彼らを帰還させる方法は、敵対相手がボスを殺すこと、敵対相手に殺されること――そして、ボス自身が直接この手で人間を殺すこと。

 中には自らを犠牲にして外へ赴く方法なども記されていたが、男が選んだのは、クレーベルト自身がこの手で人間を直接殺す方法だった。
 クレーベルトの淡々とした説明を聞いていた青年は、顔を青くさせながらも少しだけ希望を持ち合わせたかのような表情を浮かべ始めた。月明かりの影響もあってか、青白く見える顔に、冷や汗をかきながらもその口元は薄ら笑みを浮かべている。たとえ自分が協力したとしても帰れないかもしれない、という不安を抱かされたあとに、もしかしたら帰れるかもしれないという期待が滲み出ているようだった。
 その表情を、クレーベルトは見つめながら滑稽だと確かに思っていたのだ。

「で、では、今までボスを裏切っていたやつらは……!」

 彼は期待に胸を寄せつつ、思い切った様子で男に問いかけた。彼の口振りからして、同じようにクレーベルトを裏切ろうとしていた人間たちは、定期的に顔を合わせて話をしていたらしい。曰く、一週間ほど前に消息を絶った者がいる他に、数ヶ月前から連絡が取れない者がいるとのこと。どれもこれもクレーベルトには確かに覚えがあって、小さく頷いた。
 首を縦に振っただけで彼はパッと顔を明るくさせる。肯定をしていながらも何も答えていない状況に、純粋な彼はそのままの意味を捉えたのだろう。自分が協力関係にある者たちに殺されるという考えはどうやらないようで、クレーベルトの手によって命を落とそうとしているのが丸見えだった。そうして互いに不快な思いをせずにいられると思っているようにも見えた。
 彼は覚束ない足取りで懸命に立ち上がると、「な、仲間がいるんです」とクレーベルトに告げる。クレーベルトを殺す為だけに集まった仲間がいるから、共にその手で殺してほしい、と彼は言う。両手を組み、震えながらも月光を背に受けてじっと見下ろしている男に、深々と頭を下げるのだ。

 彼は――、一度たりとも身内を「仲間」とは言い表さなかった。

 ツキリと鋭く小さな痛みが胸の奥を突く。息苦しさはないものの、仄かな悲しみがふつふつと湧いているような感覚に陥った。男は何の返答もせず、静かに目を閉じる。彼が何の返事もないことを不思議に思って顔を上げたのが分かった。
 ――今までも誰一人として身内を仲間と言い表した人間はいなかった。気立てのいい青年も、気の強い女も、物腰が柔らかい男も、目の前の男も。初めだけは好意的でいながら、後になって嫌になり全てを蔑ろにする。――『主』も、彼ら人間も、どちらも同じ思考に至るのだと、漸く理解した。

 自分が今まで守ってきたものは一体何だったのかと、疑問が湧いて出てくる。彼らは招かれただけの、弱く脆い人間だからと、男は知っている。だからこそ『主』がやるように仕向けた殺し合い以外では極力傷をつけないようにと根回しをした。 意図的に森に入り、不意打ちを狙う奴らを追い払うために獣たちに命令を下し、誰もが過ごしやすい環境にあるように努力をした。敵対関係にある以上、相手の方には意識を向けることが叶わず終いではあったが、不毛な争いはないと、獣たちからは報告を受けていた。

 全ては『主』のため。
 全ては『主』の御心のため。
 全てはこの世界に住まう、彼らのため――。

 ――本当にこんなもののために自分を蔑ろにする価値があるのだろうか。
 一度根付いた疑問は消えることがなく、日を追うごとに深い根を張り巡らせる。彼らが一度でも身内のために身を粉にしてくれたことがあっただろうか。誰かが一度でも労ったことがあっただろうか。誰かが一度でも認めてくれたことがあっただろうか。
 そう考えていくうちに、男はふと脳裏をよぎった彼のことを思い出す。

 彼は身内のために働いたかと思えば、全ては男のためだと宣った。クレーベルトが寝る間も惜しんで働き続ければ、半ば無理やりにでも布団に押し付け、体を抱えて目を閉じるようにさえ言ってきたこともある。魔力が絶え絶えで弱音を吐いたときでさえ、彼は見限ることはなく――、静かに受け入れてありのままの姿を受け入れたのだ。
 男の弱い姿を知っているのはノーチェ・ヴランシュただ一人のみ。そして、夢の中で最後に男を裏切るのも彼だった。
 男は知らず知らずのうちに彼を特別視していたのだろう。でなければ自分の最も弱い姿を見せることなどなかったはずだ。普段のようにボスの顔をして、あの部屋から追い払ってしまえばよかったものを、クレーベルトは気の迷いから己の最も弱い姿を露呈させたのだ。

 ――そうしてもいいと思ったのだ。

 その理由をクレーベルトはぼんやりと探った。目の前にいる青年は男が何も言わないことを気にして小さく震えているが、クレーベルトの思考を妨げることはしなかった。男の思考を妨げ、不快感を買い、男の手以外で意図せず死ぬことを恐れているのだろう。ただひたすらに頭を下げたままの姿勢で男が動くのを待っていた。
 時間はいくらでもある。その間にクレーベルトは自問自答を繰り返す。何故ノーチェに全てを許したのか。
 彼がクレーベルトに懐いているからだろうか。――しかし、男に懐いているのは何もノーチェだけではない。その代表格としてハインツの存在もあれば、他にも男を慕っている人間の一人や二人はいる。その彼らには一切弱味を見せようとは思えず、ノーチェにしかない何かがあると直感している。
 あるいは彼が唯一初対面でクレーベルトに手合わせを挑んだからだろうか。――だが、男はたとえノーチェ以外の人間に手合わせを挑まれたとしても、それに応えることはしなかっただろう。本来なら実力を確かめる気などなく、ノーチェ相手にすら男は初めは拒否をしていたのだ。手合わせ自体に特別な理由は存在しなかった。

 理由はもっと根本的なところにあるような気がして、クレーベルトは小首を傾げる。他の人間にはなくて、ノーチェにしかない何か――それは、彼個人の「匂い」だった。クレーベルトはそれがとても好きで、あまりにもあるのが当然すぎて、意図的に意識をすることを忘れていたのだ。
 彼はとてもいい匂いがした。食欲でもあり、食欲以外でもある本能がくすぐられるような匂いだ。香水と呼ばれる人工的な香りとは程遠く、切り離せないもの――所謂フェロモンというものがクレーベルトの鼻腔をくすぐっているのだ。
 意図的に垂れ流せるようなものではないそれを、逐一「いい匂い」だと受け取っている男は、彼の傍にいると安心することが多かった。生意気な口振りを咎めることもなく、ありのままのノーチェを好んでいる節があった。初めて会ったときから、いい匂いのする人間だと、確かに認識していたのだ。

 好きとは何なのか、愛とは何なのか。考えたところでクレーベルトには理解できるはずがなかった。
 何せ男は、本能的に彼を愛しているのだから。