俺の部下の愛が重い5

「…………これが……愛か……」

 ポツリと呟いた言葉。それは、青年に届くことはなく静かに月夜に溶けて消える。穏やかな風が頬を撫でるのを男は好んでいた。月夜の下で、遠くから鳥の鳴く声が聞こえてくる。ホウホウと夜にしか聞こえない鳥の声。夜でしか動かないその生態に、ほんの少しの親近感を保ち寄せながら、クレーベルトはそれを見下ろす。
 小さく震えているそれは反乱を目論んでいた人間だ。決してクレーベルトの心情など知ることはなく、どれほどの苦悩と苦労が付きまとっているのかも知り得ない人間だ。ただボスだからという理由で男に従うしかない彼は、この世界の寿命を知ってしまった人間だ。

 ――見逃してやる価値などあっただろうか?

 脳裏に浮かんだ答えはすぐにでも行動に移したかったが、それでも男は理性を湛え、食指を戒める。建前上、クレーベルトはボスとして少しでも彼に慈悲を見せてやろうと思っていた。万が一にでも協力した人間たちの居場所を吐けば、皆殺しくらいは避けてやろうという気持ちがあった。
 どれもこれも全ては過去のものではあるが、その慈悲を見せるくらいはしてもよく思えたのだ。

「……故郷に戻ればここでの記憶はなくなるが、問題はないか?」

 数十分の間を置いて、クレーベルトか漸く口を開くと彼はぐっと身構える。「記憶がなくなるとは、」と不安そうな顔をして見るものだから、男は「例えば」と話を続けた。

「この景色のこと、この世界のこと。何を話し、何をしていたのか……俺の顔も、仲間たちの顔も、全て忘れることになるが……問題ないな?」

 指折り数え、男は故郷に戻ることの欠点を青年に告げる。この世界は所詮気紛れで造られたただの玩具に過ぎない。その記憶を持ち帰ったとて、彼らに何の利点もなければ故郷で過ごす上での弊害になりかねないのだ。その欠点を払拭するため、この世界から離れる際には学んだことの全てを失う必要があった。たとえ戦いにおける技術を学んだところで、彼らには何も残らないのだ。
 そのことを彼に告げると、彼は小さく頷きながら了承をした。その目には薄ら涙が浮かんでいて、故郷へ戻れることに大して喜びを抱いているようだった。いざクレーベルトが一足先に彼を送り届けようとする仕草を見せると、彼は「あっ」と声を上げて思い出したように言う。

「仲間たちが森の奥にいて……待ち合わせているんです」

 別れの言葉を伝えてもらえませんか。――そう言って彼は図々しくも男に最期の言葉を伝えるようにと願った。自分は先に行っている、と。協力してくれてありがとうと伝えてほしいと言っていて――、クレーベルトはそれに首を横に振った。

「伝えたところで意味などない。故郷へ帰れば、ここにいる人間は帰った者のことなど忘れてしまうからな」

 これも先程伝えたものと同じ原理で忘れるようになっている。
 そう告げれば彼は一度残念そうに肩を落とした。今まで協力してきた仲間たちに多少なりとも情が湧いているようで、忘れられてしまうことに対して寂しさを覚えているようだった。
 ――そうしてふと、疑問を抱いたかのように瞬きをするのを、男は見逃しはしなかったのだ。

「……故郷へ帰った者は、忘れ去られてしまうんですよね……?」
「そうだ」

 持ち合わせた疑問を彼はおずおずとクレーベルトにぶつけてみせた。先程の会話で得た話を掘り返し、状況を整理すべくクレーベルトに問いかけ、肯定を得る。その一連の流れに付き添った男はふと森の奥に視線を追いやった。赤い瞳が暗闇の中からこちらを見つめているのが見える。彼らは腹を空かせたクレーベルトの可愛い獣たちだ。クレーベルトがいつ男を始末するのか、事の行く末を見守っているように見えて愛おしさが湧いた。

 やはり動物はいい。そう、穏やかな気持ちが湧いてくる。人間のように疑うことはなく、本能的に誰が主人になり得るかを判断して従順になる。男は従順な生き物をこの上なく好んでいるため、目の前の人間を彼らに分け与えてやろうと決めた。
 彼は何かをぶつぶつと呟いたあと、希望に縋っていた顔色を一変させる。不安に塗れ、月明かりの下で見る顔はまさに蒼白の一言に尽きる。彼は震える唇を開き、先程の会話で生じた疑問を男に突きつけた。

「なら、何故……自分はいなくなった彼らのことを、覚えているんですか……?」

 気立ての良い青年、強気の女性、物腰が柔らかな男――そのどれもはここ最近で消息を絶った人間たちだ。彼らは目の前の青年とその仲間たちと定期的に集まり、互いに情報を交換し合っていたのだ。そのことを彼はまだ覚えていて、数日前に集まった際の会話で彼らはどこに消えたのか、などの話を繰り広げていたのだという。
 真っ先に思い浮かんだのは、ボスに全てが気付かれてしまい、始末されてしまったという考えだった。その考えに誰もが理解を示し、追悼の意を込めて小さな食事会を開いたのだ。
 だが、先程の会話で明かされた事実では、彼らが男の手によって始末されていたのであれば、仲間たちを含む彼らは消えた仲間を忘れていなければおかしいということになる。
 もしかして、彼らが消えたのはボスの所為ではないということ――と、彼が呟いたのを見かねて、クレーベルトは徐に口を開いて「俺が殺した」と言葉を遮った。彼らが言う「仲間」を殺した罪を、自分の身内になすりつけられるのはクレーベルト自身が許せなかったのだ。その言葉の遮りに彼は困惑したように顔を顰めて、頭を悩ませ続ける。もう少し頭を捻れば簡単に辿り着きそうな答えに、男は惜しげもなく救いの手を差し伸べてやるのだ。

「俺がただ単に手を下すだけで済ませると思うのか?」

 ――ボスはボスらしくもない優しさを兼ね備えている。それは、身内の間柄であれば誰もが承知の上の話だ。その優しさを当たり前だと思っていた彼は、男が発した言葉に背筋が凍る。月明かりの下で見る男の瞳は、本来身内に向けられるべきではない敵意を露わにしていた。
 鋭い眼光、瞳孔が少しずつ開いていくのがよく見える。月明かりによく似た金の瞳と、血のように赤い瞳が彼の体に刃を突きつけてくるようで、彼は思わず後退りをした。一歩、森の方へと歩みを進めてしまう。

「――折角だ、冥土の土産に持っていくがいい」

 後退りをして空けられた距離を縮めるように、男は一歩彼に詰め寄った。そうしてお互いに一定の距離を保とうと後退と前進を進める中で、クレーベルトが自分の胸元に手を当てる。

「俺はボスである前に、生み出された命だ。この体は暴食の獣を媒体にして造られている。そして足下に広がる影――もとい、闇は、俺の胃袋に直結しているものだ」

 自分の魔力を足下に広げて、影を使う魔法を見せかけ、同時に本体を織り交ぜて食事をこなす。男が失った魔力を回復させる手段である他者から奪う方法――主に食事は、何も直接口で行うものではなかった。影を使い、影で仕留め、影で喰らう。そうして反発し合う可能性のある魔力を我が物にして、男は力を途切れさせることもなく悠々と生き延びてきた。本来なら魔力を垂れ流しにしている分、回復させるために眠り続ける状況を避けるためにも男は食事を繰り返した。
 実際は満たされることもない空腹を満たすため、という事実もあるのだが、到底腹の足しにもなりはしない。
 彼の言う仲間たちも、もれなく男が行った食事によって故郷へ帰ることもなかった人間だ。魔力は微々たるものだったが、食事を行えないよりは遥かにマシだったとクレーベルトは告げる。その告白を受けて、彼は血の気が引いた顔で「どうして」と呟きを洩らした。

「どうして、そのような無慈悲なことを……!」

 ――そう言い張る彼に、クレーベルトは首を傾げる。

「無慈悲? 俺が本当に無慈悲なことをしたと思っているのか? よく考えろ、俺が始末をするために選び、誘導する場所はこの森の中だ。そして、この森には俺が放った可愛い獣たちが腹を空かせている。たとえ俺が手を下したあとに放置したとして、血を垂れ流している死体が、無事に済むと思っているのか」

 故郷へ戻るのは何も俺が手を下した瞬間ではない。クレーベルトが普段なら閉じている唇を開き、長々と説明を施してやれば、彼はハッとしたように肩を震わせた。そして徐に己の背後を振り返り、眼前に広がる光景を目にする。
 爛々と光る赤い瞳たち。それは、男の片目によく似ている色をしている。男が直接手を下してその場を去ったあと、獣たちが肉を喰らおうと集まらない保証などどこにもない。そうすれば体は無事に済むはずがなく、帰る前に肉はなくなるという寸法だ。

 その事実を目の前にしたとき、彼は遂に言葉を失ってしまった。背後には無数の獣たち、目の前には裏切りを許さないボスが一人。万が一男が手を下したとしても、明かされた事実――食事によって彼は体を失うことを約束されていて、喰われなくとも獣たちの食事が始まってしまう。この森に入り込んだ時点で彼に生存の可能性も、帰還の手段も潰えてしまったのだ。
 徐に彼は視線をクレーベルトに向けて、何かを言おうと唇の開閉を繰り返した。何かを言わなければならないような気がするのに、言葉が少しも思い浮かばずにはくはくと開閉を繰り返しているのが見える。呼吸は荒く涼しい夜の中だというのに、彼は一筋の汗を流した。
 その様子を見かねてから、クレーベルトは一度だけ確かに微笑む。口元は弧を描き、瞳は微かに細められた。まさに慈悲深いと思わせてくる優しい笑みに、彼がほんの一瞬、放心するのを見逃しはしない。

「……いや、俺は無慈悲かもな。別に森の中でなくとも構わないんだ。殺せるなら」

 森の中で行うのは単純にお前たちを見逃さないためだ。
 慈悲深い笑みを浮かべながら、男は確かにそう言ったのだ。裏切り者を見逃さないために森へ誘導し、故郷へ帰す術を失わせて殺すのだと、確かに言ったのだ。
 その事実に触れて、彼は漸く探していた言葉を見つけたかのように、震える唇を開く。

「ひ、人殺」
「ベル! こんなところにいたのか~!」