俺の部下の愛が重い5

 ――瞬間、彼は突然口元を押さえつけられ、容赦なく短刀を喉に深く刺される。 そのまま手を引かれ、肉を裂いたことで彼は喉元から大量の血を流した。傷口から溢れるそれは勢いよく飛び散り、偶然にもクレーベルトの頬に生暖かい温度を刻む。一筋の赤い滴が滴るのを、クレーベルトは気に留めることもできなかった。
 突如暗闇から現れた一人の人影。闇夜に溶けるような黒いマントに身を包み、白髪を隠すようにフードを目深にかぶっている。その陰から除く瞳は、夜空ではなく、目映い満月のように金を湛えていた。口元を黒い布で隠し、極力露出を減らしたその姿はまさに暗殺者そのもののように思える。

 突然の来訪に、彼はおろかクレーベルトでさえも反応ができなかった。話に夢中になっていて詮索が疎かになったという点も大いに考えられるが、何より彼の気配が、足音が少しも聞こえなかったのだ。慣れた手付きで急所を狙い、命を刈り取る姿を、男はあまり見たことがなかった。
 飛び散っていた血液は暫くすると収まり、青年は力なく項垂れてしまう。それを彼は――ノーチェは惜しげもなく手を離し、崩れ落ちる死体に視線を投げることもなく短刀も手放す。ストンと真下に落ちていったそれは、ノーチェのものではなかった。

「探してたんだぜ? ずっと」

 そう言ってノーチェはクレーベルトが何も言わないことをいいことに、一歩足を進める。その体にはいくつもの返り血がこびりついていて、一面に鉄の香りが漂っていた。彼が口元を覆い隠すのもその香りが得意ではないからだろう。

「ずっと、ずぅっとだ」

 ノーチェはクレーベルトと距離を詰めると、徐に男の頬に手を伸ばした。飛び散った血液を拭うため、手をあてがう。指先が空いている手袋が汚れることも厭わず、彼はそれを丁寧に拭い取った。男の頬についていた汚れは、跡形もなく消える。

「お前を苦しめるもんが何なのか、ずっと探してた」

 少しずつ落ちていく声色に、クレーベルトは遂に少しだけ表情を歪めた。今まで隠してきた裏切り者の始末を、他でもない最愛の男にさせてしまったという罪悪感が男の胸を突いてくる。痛みが胸から、全身に伝わっていくようで、少しずつ呼吸が苦しくなるのを感じていた。

「やっと見つけたんだ。こいつらだろ、お前がいつも傷付いた顔をする原因は」

 親指で後方を差し、ノーチェは足下に押している死体を示した。そうして彼は言う。森の奥で似たような人間を何人か見つけたと。

 木陰に隠れて様子を窺っていると、彼らはボスの懐に入り倒そうとする計画を立てていることを知った。
 本来ならノーチェは森の中を散策することはなく、夜は自分の魔力の使い方を学んでいるはずだった。森の中はクレーベルトが放っている獣たちが縦横無尽に駆け回っている。余計な手を煩わせなければ入らない方が賢明だという助言を、彼は真っ直ぐに受け取っていた。
 ――しかし、今宵は満月。ノーチェの性格は月の満ち欠けによって左右されることがある。新月ならば独占欲が増し、満月ならば特に行動が活発になる傾向があった。加えて、ここ数日の最愛の男であるクレーベルトの異常に、ノーチェが行動を起こさないことがないのだ。

 満月の夜、気配を洩らさない程度に息を殺して夜に潜んでいると、男が森に足を踏み入れていく姿を見た。何かが駆け回る音、それを追い詰める静かな足音。人知れず狩りが行われていたのだと、ノーチェは漸く理解した。何らかの理由で獲物を追うのは、身内に優しいで有名なクレーベルト本人。近くにあるのは身内が住まう、鬱蒼と茂る森。そこに敵対する相手がいるとなれば話は違っていたが、音の発生源はすぐそこから鳴っていた。
 つまり、何らかの理由があってクレーベルトは自分が愛している身内を、追い詰めなければならなかったのだ。

 自分の片腕を犠牲にするほど根が優しいボスを追い詰めているのは誰だ。――ふと湧いた好奇心と苛立ちに背を押され、ノーチェも森の中へと足を踏み入れる。真相を知りたい、その一心だけでノーチェは足音を追った。その結果として男に叱りを受けようとも、男が傷付く顔をするよりは断然良いというのがノーチェの考えだった。
 しかし、やはり森の中は一癖も二癖もあった。足音を追っていたというのにも拘わらず、ノーチェは道に迷ってしまった。辺りには獣たちの気配が漂っていて、クレーベルトの気配など辿れそうにもない。時折無鉄砲に襲ってくる野性的な獣を蹴散らし、彼は赴くままに森の中を彷徨っていたのだ。

 ――思えば森は、彼を少しずつ誘導していたのだ。

 辿り着いた先にいた身内と、敵対している間柄の人間の集まり。決して手を取り合う関係にはならないその団体に、ノーチェは鳴りを潜めて行く末を見守る。相手に気が付かれないように気配を消していることには苦労はしなかった。使命を全うするために得た技術に多少なりとも感謝を抱きながら、聞き耳を立てていると――彼らがクレーベルトの命を狙っていることを知ったのだ。
 元の世界に戻る術はあの男にある――その言葉を聞いた瞬間、ノーチェは自分が腕を傷付け、手中に収まる程度の短刀を握り締めていることに気が付いた。決して少ないとは言い切れない出血量。それを短刀の形に固めて、柄を握り締め、小さく首を横に振る。
 ――これじゃベルにバレたら怒られちまう

「まあバレてもいいか!」

 ――悲鳴。耳を劈くほど湧き上がるそれに、ノーチェは嫌気が差した。不意を突いただけで混乱に陥り、数多の悲鳴が上がる。自分たちでさえボスであるクレーベルトの寝首を掻こうとしていたはずなのに、いざ立場が逆転すると彼らは被害者の皮をかぶった。ボスは誰よりも身内の身を案じていた。その男を殺そうなど、最も男を慕う部下としてノーチェ自身が許せなかった。
 元より奇襲をしかけることに慣れていたノーチェにとって、この出来事は大したものではない。いくら返り血塗れになろうが、彼は相手を逃がすつもりもなければ易々と殺してやるつもりもなかった。ギリギリ死なない程度に急所を狙い、足元に落ちているそれをただ傍観する。虫の息で呻き嘆く彼らを、クレーベルトが愛しているのだと思えば酷く腹が立った。

 ――ずっと考えていた。こんな風に裏切りを働く奴らを平等に愛してやる必要があるのかと。誰もクレーベルトが弱音を吐くことを知りもしないのに、唯一自分だけが男の全てを受け入れられる自信があるのに、何故平等な扱いを受けなければならないのかと。
 自分だけを見てほしい。自分だけを優先させてほしい。自分だけを愛してほしい。――誰かを好きになってから明確に表れた感情に、ノーチェは常に悩んでいた。何かに困り果てている男の姿を見かけては、自分に何かできることはないかと考えた。だが、肝心の原因が分からなければ手の出しようもない。ただ弱っていく姿を懸命に支えることしかできない自分に、歯痒さを感じていたのだ。

 ――それももう終わりだ。

 初めは名前も知らない人間だった。覚える価値すらもないような人間だ。そこから次第に身内と呼ばれている人間たちが消えているのを、ノーチェは何となく知っていた。それに触れないクレーベルトの様子を見かねて、裏があると思ったのは随分と前の話だ。
 男は身内を好んでいる。――しかし、やむを得ない事情により手を下しているとすれば、男は悲しむのだろう。あるいは、自分がやってきたものの全てが無駄になったような気がして、虚しさに襲われているのかもしれない。
 その役割を一身に請け負っているのだとすれば、ノーチェがするべきことはその役割を横から奪ってやることだった。
 人を殺めることに慣れているノーチェは、親しい間柄でなければ何の情も抱くことはない。クレーベルトのように身内に情があるわけでもなければ、寧ろ男の平等な愛を受けている彼らに対して多少なりとも苛立ちを覚えている始末。
 それをこの手で終わらせることができれば。男の苦しみを払拭できれば。クレーベルトが、自分だけを愛してくれれば、どれほど喜ばしいことか――。

 にっ、と愛想のいい笑みを浮かべて語るノーチェに、クレーベルトは言葉を失っていた。重荷を背負わせるわけにはいかないとひた隠しにしていた分、ノーチェに気付かれるとは思っていなかったのだ。わざと人目の届かない森の中に追い詰め、狩りを行う。こうして誰の目にも触れることのないように事を終えているはずではあったが、――やはり自分の弱さが露呈したと、男は溜め息を吐いた。
 彼は相変わらず人懐っこい笑みを浮かべながら、クレーベルトに褒められるのを待っている犬のようにじっと見上げている。そこに、かつて仲間であったはずの人間に対する情は少しも見られない。「どこから聞いていた」と何の気なしに訊ねてみれば、彼は「お前が自分の正体を明かしたくらいかな」と呟いた。
 森の中を彷徨った挙げ句に漸く男を見つけた喜びと、クレーベルトが自分以外に正体を明かしているという苛立ち。加えて――、男を侮辱する発言に足を止められなかったノーチェは、先程のように不意打ちで急所を狙ったのだという。苦しませるつもりが楽に死なせてしまった、と少しばかり後悔するように肩を落としていた。

「お前の秘密は俺だけが知ってればいいんだよ」

 彼は軽く眉間にシワを寄せつつ、小さく唇を尖らせる。クレーベルトが冥土の土産に、と正体を明かしたことがノーチェをどれだけ不快にさせるかも考えていなかった。仮に男が彼を見逃したとしても、男の秘密を握った彼をノーチェが許しはしなかったのだろう。手を下さずとも彼はどのみち死ぬ運命にあったのだ。
 はあ、とクレーベルトは小さく溜め息を吐いた。疲労と気怠さがふつふつと湧いてくるのが分かる。ノーチェは終始にこにこと人当たりのいい笑みを浮かべているが、それも満月の影響があってこそなのだろう。それでも不快感は拭えないようで、早く風呂に入りたいとノーチェは呟いていた。

「…………お前は……」

 ――そんなノーチェに対し、クレーベルトは徐に口を開く。先程とは打って変わってその声は消え入りそうなもので、ノーチェは聞き逃さまいと聞き耳を立てていた。「ん?」と彼が会話をするために相槌を返したのを見計らって、男は懸念を呟く。
 今まで誰にも役割を譲ってこなかった唯一の原因。微かな緊張を胸に、クレーベルトはノーチェに問う。

「お前は……身内を殺したことに、何も思わないのか……?」

 問いかけた声色は微かに震えていたように思う。万が一、ノーチェが自分と同じように心を傷付けているのであれば、そうさせた自分に責任があると男は思っていた。身内は――この世界に来て初めてできた仲間だ。それを殺めたとなれば、少しでも心が痛むのでは。――そう、考えていた。
 ――しかし、彼はクレーベルトの問いを聞いてから少しだけ笑って、「どうしてだ?」と言う。

「お前以外の奴なんてどうでもいいだろ? まあ、せいぜい親しい奴らとかは気になるかもしれねぇけど……こんなの、覚える価値があったか?」

 いちいち顔なんて覚えてらんねぇよ。――彼はそう言って落ちている亡骸を軽く足蹴にして、ほんの少しだけ忌々しそうに見下ろした。顔を覚えるつもりはないと言いつつ、クレーベルトに放った言葉を彼は覚えているようだ。
 苛立ちが込められた瞳を一度だけ向けてから、ノーチェはクレーベルトへと視線を戻す。その色に――先程の苛立ちが含まれていない様子を見ると、男の肩の力が抜けた。
 杞憂だったのだ。男が今まで不安に思っていたことは、全て考えすぎによるものだった。彼らは思うほど身内に気を配っているわけではなく、顔を覚えているわけでもない。街中ですれ違う他人程度の認識であって、クレーベルトほど身内のことを気にして生きているわけではないのだ。

 そのことに気が付いたとき――、クレーベルトは足から力が抜け落ちるような錯覚を覚えた。部下の前にいるという建前上、その場に崩れ落ちることはなかったが、明らかに全身の力が抜け落ちたのが分かったのだ。驚きと安堵――、誰も他人を気にすることがないという驚愕と、ノーチェが胸を痛めていないという安心感が、クレーベルトの表情を緩めた。

「――だから、な、ベル」
「…………?」
「お前が愛してやる相手は、俺だけでいいよな?」

 穏やかで、静かな夜を割くようにノーチェが言う。クレーベルトに必要なのは自分だけでいいと。無差別に愛を振りまくのをやめ、自分一人を愛してくれと、ノーチェは言っている。彼は足元のそれに目を向けることもなく男へと更に距離を詰め、その顔色を窺った。

 彼は言う。愛してやれるのは自分だけだと。クレーベルトという存在を受け止め、好きでいられるのは自分だけだと。覆しようのない自信が体を突き動かし、ノーチェは男の頬を両手で包む。そのまま額を合わせて視線を合わせる。まるで「俺を見ろ」と言わんばかりの行動に、男はほう、と吐息を吐いた。
 眠気が押し寄せてくるのが分かる。けれど、以前のような気怠さも、強い疲労感も感じられはしない。ただ彼に身を預け、体を休ませたいという衝動が湧いて出た。
 それを感じ取ったのか――、彼はクレーベルトの顔を見ながら数回瞬きをして、ふと笑う。眠そうだなと言って、両手を離して拘束を解いた。晴れ晴れとした空に星の瞬きがよく見える。満月に負けず劣らずの輝きがはっきりと。少しだけ温度の低い風が肌を撫でて、心地よい眠気を誘ってくる。それらを確かに感じられるほど穏やかな心持ちでいられた。

「そういやこれはどうすんだ?」

 こつん、とノーチェは亡骸の頭部を足で小突き、男に処遇を問う。本来ならば食事と称して処分するはずの肉体ではあるが、彼が現れたことによりクレーベルトは意思を削がれてしまっていた。少し前まで話をしていたそれを男は見下ろして、小さく顔を左右に振る。食事を摂ると言えば彼は見るからに不機嫌な顔をすることも安易に予想がついた。
 後ろのやつらにやれと男が言えば、ノーチェは森の奥へと顔を向ける。そこには餌を投げられるのは今か今かと待ち侘びている獣たちが複数。赤い瞳をギラギラと輝かせてじっとそれを見つめていた。そこでノーチェが「そういえば殺した奴らもそのままにしてきたな」と何気なく呟くのを、クレーベルトは聞き逃さなかった。
 彼は死体の襟首を掴むと、そのまま森の方へと体を投げる。すると、体が地面に落ちる前に獣たちの鳴き声が上がり、草木を掻き分け獲物を我が物にしようとする言動が見られる。耳を劈くほどのそれにノーチェが「元気だな〜」なんて呟いて、徐にクレーベルトの手を取った。

「帰ろうぜ」

 そう言ってノーチェはクレーベルトの手を引く。その際に男が眼帯をしていないことに漸く気が付き、彼は「あ」と声を上げた。

「今日、目の色片方お揃いだな」

 自分自身の目元を軽く指差してノーチェは笑う。あまりにも日常と変わらない屈託のない笑みに、男は毒気を抜かれて「ああ」と小さく笑みを浮かべたのだった。