光明の裏、交差する敵意

「――よお、ドブネズミ」
「ひっ――!?」

 不意に聞こえてきたのは、終焉の声――などではなく、低くこもるような男の声。終焉の声色は低くもどこか透き通るようで、淡々とした低い声だ。こんなにも人を馬鹿にした声色ではなかっただろう。
 その声はノーチェの頭上からしているようで、彼はそっと俯かせていた顔を上げる。寄り掛かっているのはレンガ造りの風貌のある壁だ。立ち上がったとしても、その上面に立つにはまだ身長が足りないであろう、なかなかの高さのもの。そこから声がするということは、理由はどうあれ声の主は壁の上に立っているようだ。
 そうして見上げた先に居たのは、燃えるように赤い髪を持った一人の男だった。
 燃えるように赤い髪、顔に大きな傷のあるところが誰よりも特徴的だと言えるだろう。軍服を模したような動きやすそうな服は男によく似合っていて、金の瞳は終焉に似ても似つかない印象を受ける。
 そして、その男は自分の真下に居るノーチェを獣のような目付きで――いや、蛇のようにじっとりと絡みつくような鋭い目で眺めて、よりいっそう深く怪しく笑った。

「……?」

 ――ぞくり。
 背筋を走る悪寒にノーチェは思わず肩を擦る。――とはいえ、特別寒くはない。どこか日が傾いてきた印象を受けるその世界でも、これといって寒いという感覚を得たことは未だにない。
 それでも、今回ばかりは寒気にも似た妙な感覚を得ていた。
 ――しかし、目の前のそれを目にすれば自分の感覚など気のせいだと思ってしまう。
 「ひぃ」と声を上げたのは、先程までノーチェで憂さ晴らしをするよう殴り続けていた〝商人〟の男だ。それは、突如現れた赤髪の男を見るや否や、反射的に肩を竦め、咄嗟に距離を空ける。
 まるで、怪鳥に狙われてしまった小動物のようにみっともなく震えていて――、先程までノーチェを殴っていた威勢などどこにも見当たらなかった。
 赤髪の男は塀から降りるとゆっくりとノーチェではなく、〝商人〟の男へと近付いていく。一歩一歩、丁寧に、ゆっくりと、獲物を追い詰めるように――。端から見ていればそれは酷く滑稽に思えたが、暴力を振るわれた後だからだろうか――ノーチェはそれにすらも興味が示せないと言いたげに茫然としていた。

「いーいこと教えてやるよぉ、おっさん」
「っ!」

 赤髪の男が背負っていた妙な十字架が音を立てて引き抜かれる。真っ白な白銀の刀身を露わにしたそれは、鞘に収めると持ち主ほどの大きさを持った一つの十字架になる仕組みのようだ。
 その刃先を冷や汗が滴る首元に手早く添えてやると、〝商人〟がカチカチと歯を震わせて鳴らす。もう一歩強い恐怖心を与えれば失禁してしまうのではないかと思うほど、滑稽だった。「そう怖がんなよ」赤髪の男が宥めるように言葉を紡ぐが、それは、相手にとって「愉快だ」と言わんばかりの声色だった。

「行事の際に力を主張するような行為は禁ずる。――そんな決まりがあるんだ。事の発端は〝教会〟の創設者のありがたーい意向。〝教会〟は今もそれを守りながら、街の支配者となっている――」

 この街に来たばかりである〝商人〟に事情を説明するような口調は、どこか嘲笑っているようで、不愉快であることこの上ない。赤髪の男は一度言葉を切ると、にこりと好青年のような微笑みを浮かべる――。

「理不尽な暴力を振るっていた人間はなぁ……〝教会〟が罰していいっていう決まりなんだよぉ!!」

 ――そう強く言葉を放つと同時に彼はその大剣を大きく振り上げると、〝商人〟目掛けて一直線に剣を振り下ろす。
 言うなればそれは、理不尽、というよりは行きすぎた処罰だろうか。目の前で妙な光景を見せられているノーチェは、現状に置いていかれながらも、何故今日という日が大丈夫であるのかを理解する。
 全てはこの行事のお陰なのだろう。この街は〝教会〟に支配されていて、その〝教会〟はある決まりを守って生きているのだ。
 「行事の際に力を主張するような行為は禁ずる」――それは、恐らくノーチェのような生活を強いられている者にとっては嬉しい規則のようなもの。明るい活発な表では祭りを楽しんでいるというのに、裏では暴力が振るわれていることに嘆いた〝教会〟の創設者がその決まりを広め、争いが起こらないように仕向けたという――。
 それは、たとえ他所から来たノーチェでも対象であるようで、今、目の前で処罰が行われようとしているのだ。――首を撥ね飛ばさんばかりの、理不尽で一方的すぎる行きすぎた処罰が。
 この賑やかな街でも平然と人が殺されるのだろう。綺麗な街では、見えないところでの残虐な行いも容赦のないものなのかもしれない。それもまた、勿体ないと思う反面――ノーチェはただそれが羨ましく思えた。
 ――しかし、その大きく振るわれた大剣は、〝商人〟の目の前でピタリと止まる。

「う……うわああああ!!」

 それは逃げることを許していたのだろう。〝商人〟はみっともなく、そして呆気なくノーチェを置き去りにして背を向けると、声を上げながら一目散に逃げていった。
 また逃がすわけないと言ったのはどこの誰だったのかと、ノーチェはその背を無言で見送る。視界の端で赤髪の男がくつくつと笑い、「だっせぇ」と逃げていった男を嘲笑う。

「斬ったら俺も対象になるだろっつーの」

 そう言いながら赤髪の男は大剣を慣れた手つきで鞘に収める。やけに手入れの行き届いたそれが、鞘に収まると、やはり男の身長ほどはあるであろう大きな十字架へと変貌した。
 それは随分と物珍しい形状に思えた。様々な地を転々としていたノーチェには、鞘に収めてその形状に変化する大剣などろくに見たことがない。せいぜい装飾として壁やそこかしこに飾られた、然り気無い大きさのものだけだ。背負うほどの十字架など、教会以外のどこで見掛けることがあるだろう。
 ――なんて茫然と考えていたノーチェに向き直り、赤髪の男が目を向ける。彼はやはり誰も彼もを嘲笑っているかのような瞳をしていて、ノーチェは表情の一つも変えることはなかったが、不思議とそれが嫌に思えた。
 どこか蛇を彷彿とさせるねっとりと絡み付くような目線。それは、ノーチェの何かを探っているように思え、ノーチェは微かに顔を俯かせる。――何故だか目を合わせてはいけないような気がした。
 そして、男が不意に溢す言葉に夜色の瞳を揺らす。

「――お前、何で生きてんの?」

 じわりと胸に募るのは、息が詰まるような蟠りだけ。何故生きているのか、の言葉を投げ掛けられたこれが初めてではない。恐らく、奴隷になってから似たような言葉を幾度となく投げられた筈だ。その度に「そんなことは知らない」と、「自分だって早く死にたい」という思考を巡らせていた筈だった。
 それなのに何故、目の前にいる男の言葉はこんなにも胸に突き刺さるのだろうか。

「お前だけは絶対に来ることがないと思ってたし、その筈だったんだよ。そうしたら元も子もねえからなぁ」

 咄嗟に俯かせていた顔を覗き込むように男の声が近くなった気がした。ノーチェは思わず顔を背ける――が、背けた先に男が居て、悪戯っぽい笑みを浮かべたままノーチェを笑う。その顔は、ノーチェが今まで見てきた中で何よりも悪意が込められている気がした。
 「何か言えよ」と男が言う。軽く唇を尖らせ、まるで「つまらない」と言いたげだ。咄嗟に、終焉に言い張ったときと同じように「気持ち悪い」と口から溢れそうだった言葉を呑み込み、ノーチェが唇を動かす。「分からない」と。

「あ……アンタが、何言ってんのか、よく分からない……」

 喋れば切れた端がやけに痛んだ。恐らく、動かした拍子に傷口が開いたか、歯に当たったのだろう。――だが、目の前の謎めいた男よりも気にするべきものが、他にあるだろうか。
 ノーチェにとって何度目になるかも分からない長い時間が流れているような気がした。しかし、実際は十分や二十分――またはそれ以下の時間しか経っていない。その筈なのに、ノーチェは今の時間がゆっくりと、からかうように進んでいる気がしてならなかった。
 目が怖い、というよりは、嘲笑い探り、馬鹿にしてやろうという瞳が酷く薄気味悪かったと言えるだろう。――気が付けばノーチェは時間が経つことや、目の前の男が立ち去ることよりも、終焉が自分を見付けてくれることを願った。そうすればこの目がどこかへ消えてくれる気がしたのだ。

「……お前……記憶がないのか……?」
「…………え?」

 ――それはきっと、突然のことだっただろう。
 不意に飛んできた何かに赤髪の男が素早く反応して、ノーチェから体を遠ざける。空を裂く音の後に聞こえたのは壁に当たり、聞こえるのは重い何かが当たる鈍い音と、カエルが潰れたときのような酷い呻き声。ノーチェは驚きながらも目の前を飛んできたそれを見やると、先程逃げた筈の〝商人〟が気を失っていた。

「職務怠慢か? 成る程、貴様という愚かな人間は、随分と偉くなったものだな。……なあ、ヴェルダリア」

 そんな声と共に聞こえるのは石畳を踏み締める、ヒールの音だ。靴を新しく買い、ノーチェは履き替えたというのに、未だに履き続けているエンジニアブーツの音。目の前の男と距離が離れた他に、ノーチェは数日聞いてきたその声にほう、と安堵を覚えたが――それも一瞬。一歩一歩近付いてくる音と共に迫る寒気に、再び腕を擦る。
 ノーチェから距離を空けた男――ヴェルダリアは嫌味たらしくそれを睨むよう目を向ける。
 そこに居たのは、ノーチェとはぐれてしまった筈の終焉だ。相変わらずの無表情で、且つ威圧的な態度は最早癖の一種なのだろう。――しかし、先程ノーチェと居た頃と決定的に違う箇所を上げるとするならば、輝かしい瞳だろうか。
 路地裏に入る一本道をゆっくりと歩き進める終焉の瞳は、これまでに見たことがないような鋭さを持っていた。ヴェルダリアの目付きが蛇だと例えるならば、終焉の目付きは狼そのものだろうか。怒りに燃えていて、相手を跪かせようとするような、妙な力を感じる。
 ノーチェは徐に終焉の顔をちらりと見やるが、終焉は構っている暇はないと言いたげにヴェルダリアへと視線を向けたままだった。

「そうかっかすんじゃねえよ。俺はほら、ちゃんと助けに入ったんだぜ? なあ、坊っちゃん」

 ひやりと冷たい空気を裂いたのはヴェルダリアの言葉で、その矛先を向けられたノーチェは思わず肩を震わせた。何せ、今まで嘲笑を含む視線を送ってきた男がこちらへ話しかけるなど、思いもよらなかったのだ。
 何故か親しげに「坊っちゃん」と呼んでくるヴェルダリアの目は先程までとはうってかわって、好青年を彷彿とさせる親しげなものへと変わっていた。それにノーチェは、怪訝そうに眉を顰めるが、助けに入られたことに間違いはないのだろう――「……まあ」と小さく頷くと、終焉の目の色が変わる。

「ほらなぁ? 俺は職務を全うしてる。適当なことをほざいてんじゃねえぞ」

 ノーチェから再び終焉へと視線を戻したヴェルダリアは、敵意を剥き出しにした。端から見るノーチェとしては、この空間は耐え難く、何よりも居心地の悪いものだ。この二人は仲が悪いのだろうか――終焉の目付きを見る限り、彼はそれを肯定せざるを得なかった。
 「なら何故それを逃がすような真似をする」と終焉が低い声で呟く。それに、ヴェルダリアは「その方が面白いから」と笑いを浮かべる。――その様子を見ていて、ノーチェは今から戦争でも起こるのではないか、という錯覚に陥った。

「匂いを辿ればこんな下賎な人間が怯えた様子で出てきてしまったよ。――陰でこんなことを行わせるなど、落ちぶれたものじゃないか。やはり貴様はその程度でしかなかったということだな」
「おいおい、それじゃ俺が低俗底辺野郎だって言いたいみたいじゃねえかぁ……?――〝商人〟独自の勝手な行動だ。〝教会〟の人間はしっかりと守るべきものは守ってる。そこら辺の雑魚と一緒にすんじゃねえよ、化け物風情が」

 コツン――終焉の足音が止まった。ノーチェは座り込みながら二人の顔を見上げるが、それは「最悪」の文字が似合ってしまうほど、空気を悪くさせるものに見える。一方はただ無表情で、もう一方は相手を挑発させるような笑みばかりを浮かべているのだから、奇妙であることこの上ない。
 思わずノーチェは自分に被害が及ばないよう、体を縮める。――すると突然、雰囲気を一変させるような歓声が響き渡る。何かと思えば表通りではショーが始まっているようで、向こうでは着ぐるみが何とも言えないほどアクロバティックに忙しなく動いている。
 その迫る雰囲気に気持ちが削がれたのだろう――ヴェルダリアが「はあ」と溜め息を吐くと、気を失っている男の首の根を掴み、足を踏み出して終焉の横を通り過ぎる。

「せいぜい足掻くんだな」

 ――なんて言葉と男への小言を洩らしながら表通りへと歩いていった。その背中をまじまじと見ると、赤い髪には橙色のメッシュが混じっている。それは、太陽の下に晒されなければ気が付かなかったであろう。
 ノーチェは漸く重い空気から解き放たれたようにほう、と息を吐いた。すると、終焉が小さく舌打ちを鳴らす。チッ、と怒りが含まれたものだ。その原因が自分にあるのではないかとノーチェが終焉を見上げると、ノーチェへと顔を向けた終焉と目が合った。暗く、されど怒りによって熱を帯びたような恐ろしい瞳だ。

「……あの、俺……甘いもん、落としちゃって」

 このまま黙るのも気が引けたノーチェが咄嗟に口を開く。切れた唇が痛みを訴えたが、いやに恐ろしく思える雰囲気を壊すためならば、痛みさえも感じられないほど。会話の内容がクレープについてであることが更に終焉を怒らせるかと思えたが、今のノーチェにはそれ以外の言葉が出なかった。
 ――しかし、終焉は閉じた唇を開くことなく、ゆっくりとノーチェへ手を伸ばす。上から向かってくる手のひらが先程の男のそれと酷似しているようにも見えた。そんな筈はない――朧気な気持ちを胸に、ノーチェはそれに向かおうとするものの、殴られた体が平常心を取り戻してはくれない。
 半ば反射的に目を閉じた彼に手を伸ばした終焉は――、そのままほんのりと青く染まる頬へと手を当てた。

「……吐いたのか」

 口許は拭ったが、地面に落ちて乾きかけているそれを見て終焉はそう呟いたのだろう。「……ごめんなさい」と無意識に言葉を紡いでいたノーチェだが、終焉に訂正を求められるかと思い、咄嗟にハッとする。――だが、返ってくるのは訂正を求める言葉ではなかった。

「……悪かった。私の、気配りができていなかった。こうなるくらいなら、さっさと帰るべきだったな」

 終焉の表情は普段よりも悲しそうに見えて、ノーチェは茫然とする。それを何と捉えたのか定かではないが、終焉は徐にノーチェを引き寄せたかと思うと、胸元と両腕に納め、手袋をはめた手でぽんと頭を撫でる。
 「痛かっただろう」――そう、終焉が呟いた。その声色は、まるでノーチェと同じように暴力を振るわれた後の、泣きそうな人の声色だった。確かに痛みはあるが、こんなものは日常的だったのだ。今更泣きわめくなどという、子供じみたことをするノーチェではない。
 だからこそ、彼は「別に」と言おうと口を開いた。刃物で刺されるかのような鋭い痛みが口許に走るが、どうということはない。「別に、気にしない」そう言おうとして――。

「……来ないかと思った」

 全く別の言葉を紡いでいたと気が付いたときには、全てが遅かった。
 ノーチェは終焉に抱き寄せられたままぼうっと耳を澄ます。落ち着いているように見えて、ほんの少し呼吸が速い。ノーチェの言葉に応えるように呟かれた「これでも焦っていたんだ」という言葉は、恐らく本当なのだろう。
 焦ることで周りが見えなくなるタイプだというように、終焉はハッとした後ノーチェを離し、「悪かった」と頬に手を添える。青痣のできたその顔は見ていて痛々しかった。終焉は自分を責めるように「もっと早く来ていればよかった」と呟きを溢す。

「もっと早く来ていればあんな……――あんな蛆虫と会わせなかったのに」

 それに、ノーチェはぽかんと口を開ける。それを言うならば、「傷など負わせなかったのに」の間違いではないだろうか、と。
 その様子を見て言葉の間違いに気が付いたのか、終焉は「ああ違う」と首を横に振る。

「傷を負わせなかったのに、と言いたかった。つい本音が――ああ、違う、ノーチェの身を案じたのも本心だ。ただ、同時にアレにも会わせたくなかったという気持ちがな……」
「……何となく分かったから平気」

 終焉は必死に言葉を探していたが、次々と言葉が溢れてしまって収拾がつかなくなりそうだった。ノーチェはそれを見て察したのだろう――、終焉に声をかけて自分は大丈夫だと言う。
 よく見れば終焉の手元には靴を買ったときにもらった袋があった。その中身は恐らく、終焉の愛用している靴が入っているのだろう。それに履き替えれば移動も楽だった筈なのに、それをしないほど慌てていたのかもしれない。――そもそも、こんな無表情を飾った顔が焦りに染まるなど、想像もつかないのだけれど。
 そう、終焉の慌てているらしい様子を見て、ノーチェはふと思い出す。買い与えられた黒い服を汚してしまった旨を話し、口癖のように染み付いた謝罪の言葉を伝える。――すると、終焉は軽く首を傾げ「謝る必要があるのか?」と言った。

「えっと……」
「それは貴方に買い与えた服だ。どれだけ汚そうとも謝る必要などないだろう? 汚れたら洗えばいいのだから」

 終焉が放った言葉は紛れもない正論だった。思わずノーチェは何も言い返すこともできず、ぐっと言葉を呑み込む。しかし、ふと思い出したことを言葉にして指摘をしてみせた。

「……あの、多分まだ血、出てると思うんだけど」

 「汚れるから」そう言って終焉の手を退かそうとすると、「私は気にしていないから」と言って制止を食らう。
 ああ言えばこう言う、厄介な人だと彼は思った。結局は自分の意見などまるで聞いてくれやしない。――ただ、今までのものに比べると、随分と柔らかな厄介さを兼ね備えているようだった。
 ノーチェは終焉の返しに納得がいかないと言うように、ぷぅ、と頬を膨らましてみせる。普段なら行動に出せば殴られてしまうような、やけに子供じみた行動だ。――しかし、終焉はそれを見て「随分と可愛らしいことをしてくれるな」と、漸く笑った。
 ――笑ったと言うよりは柔らかく微笑んだ、と言うのが適切だろう。柔らかく微笑んだその様は、いやに綺麗で拍子抜けしてしまうほど。思わず「こんな表情もできるのか」と瞬きを繰り返していたノーチェだが、針を刺し続けるような鋭い痛みが唐突に走り、咄嗟に頬を膨らませる行為を止める。
 再び傷口が開いてしまったようで、口の中には苦い錆びた鉄の味がした。

「帰って手当てをしようか」

 そう言って終焉がノーチェを抱き抱えようとして――咄嗟に断るノーチェの意志を尊重し、手を引いて立ち上がらせる。

「……?」

 不意に感じた奇妙な違和感にノーチェは茫然としたが、終焉の「どうした」という問いには答えられる自信がなかった。
 「なんでもない」そう呟いて何気なく終焉が手を引いて歩くのを受け入れてやると、終焉は「そうか」と言ってノーチェの頭を撫でる。

「……撫でんの好きだな」

 思わず口をついて出た言葉にノーチェはハッとしたが、「丁度いいからな」と目の前の男は何食わぬ顔で手を離した。

「……できるだけ人目を避けようか」

 そう言って裏の通りを歩き始める終焉に倣い、ノーチェはその背を追う形で同じように歩き始める。――ふと振り返って違和感と対面しようとした。自分は確かに嘔吐してしまった筈なのだが――、そこにはただ、何もない石畳が広がっているだけだった。
 気が付けば空の向こうは薄く橙に染まりつつある。春といえど、まだ日は長く昇らないらしい。この街は行事になると一日中賑やからしく、どこで耳を澄ましてもただ歓声が聞こえるだけ。終焉の後を追うノーチェは再びその長い黒髪をじっと見つめる。
 歩く度に機嫌良く揺れるその様子は、まるで尻尾のようだ、と思ってしまった。