初めての言動

 ――少しずつではあるが、興味が湧いているのは確かだ。ノーチェが何気なく終焉の行動を真似たのは、相手を知ろうという意識が働いているからである。自分にとってあの人は無害――と断言するわけではないが、下手に傷付けてくるような行動は取らないという、自信はあった。
 だからこそ彼は知るべきなのだ。男の「死」を。ひとつの家に暮らしている以上、どういった条件で、どの程度のことで死んでしまうのか――知っておかなければならない気がした。

「……死ぬところが見たいと?」

 終焉が意外そうに呟いたあと、多少の語弊があることに彼は気が付く。

 ドーナツを平らげたあと、一息吐いた頃にノーチェは男へ呟いた。「アンタのことがもう少し知りたいんだけど、」と。それに終焉は瞬きをして、ほんの少しだけ照れ臭そうに視線を逸らす。知りたいこと、とそれとなく言葉を繰り返し、ノーチェの反応を窺った。
 彼にとって終焉は他とは全く毛色の違う可笑しな人間だ。奴隷である自分の世話を焼いて、周りの手からは奪われないように身を挺して守る。
 自分のどこにそんな価値があるのかは、彼自身は理解していないのだが、いくつかの月を跨いできたのだ。そろそろ少しくらい踏み込んで、信用するくらいはしても問題はないだろう。
 そういった思考から、彼は手始めに終焉が自ら呈示した「死ぬ条件」について踏み込むことにした。
 一体どの程度の感情で、どのような方法で死に至るのか。それを知っていれば不意に起こる事態にも、距離感もそれなりの対応ができるだろう。
 だからこそノーチェは、「アンタは、どんなときに、どう死ぬの」と訊いた。例えば嬉しいときなのか、悲しいときなのか。怒り――は違うだろうが、どのような感情が働いたときに、男は一度、命を落としてしまうのかが気になった。
 そのためにはまず、それを目撃しなければならない。
 「どういうことになるのか、見せてほしい……」そう呟いて、終焉から紡がれた言葉にノーチェは頬を掻いた。

「死ぬところが見たいって言うか……その……」

 見たくはないけれど、知っておきたい。
 そんな単純な言葉が喉の奥から出てこなくて、彼は開きかけていた唇をぐっと噛み締めた。

 時刻は昼をとうに過ぎている。日は高く昇り、風は庭の垣根を撫で続けている。時折風に舞う木の葉が地面へ落ちていくのを見て、秋を感じざるを得ない光景を見かけた。
 一年も気が付けばあっという間に終わるのだろう。春から秋までの時間の流れが今までよりも早く感じられた。焦燥感を煽られたわけではないが、ここまで世話を焼かれておいて恩返しのひとつもしないなんて、彼の中の「大人」が礼儀を振りかざして怒るのだ。
 贈り物をしようにも、万が一男が死んでしまえばノーチェ自身は罪悪感に駆られるだろう。たとえ生き返るなんてことがあっても、目の前でそれを見れば記憶の奥深くに刻まれるに違いないのだ。

 ――だからと言って、目の前の男相手に死んでくれと言うのは違うだろう。

 どうすればいいのか。素直に知りたいと言えば、終焉は応えてくれるだろうが、彼は男に死んでほしいわけではないのだ。
 裾を握り締め、ノーチェはソファーに座ったままじっと終焉の足元を見つめる。本人は無意識だろうが、僅かに眉間にシワが寄った表情は確かに奴隷ではなく、たった一人の人間の表情で。漸く可愛げのある顔が十分に見られるようになった、などと男は考える。
 愛しい存在の頼みを、終焉が無下にすることなど有り得ないのだ。

「――いいよ」
「……!」

 ふ、と呟かれた言葉にノーチェは勢いよく顔を上げる。顔を上げて見上げた先にあるのは、男とは思えないほど綺麗に整った顔。相変わらずの小綺麗さに、生まれてくる性別を疑いたくもなるが、恐ろしいほどに似合う風貌に、彼は言葉を失う。
 耳を疑いたくなるのも無理はない。彼は暗に終焉に死ねと言っているのだ。今まで世話を焼いてきた相手に対して言う言葉としては不適切で、且つ失礼にあたるもの。それを了承するなど気が知れない。
 ノーチェは咄嗟に「でも、」と言葉を洩らす。自分で知りたいと思ったものの、死んでほしくはないという気持ちは確かにあるのだ。
 どういった経緯で死んでしまうのかは定かではないが、苦しくも、痛くもない筈がない。少なくともノーチェが知る「死」とは、その経緯を挟んでのものだ。ひと思いに楽に死ねるなど、そう簡単な話ではない筈だ。
 それを了承すると言うことは、楽に死ぬ方法なのか――それともまた別のものなのだろうか。

「死ぬところが見たい、ということは……自害する方じゃないのか……」
「じ、がい……」

 自分で死ぬことも躊躇わないのか。
 うぅん、と小さく唸る終焉に対し、ノーチェは遂に訝しげな表情を浮かべる。
 悩む素振りを取る辺り、恐らく終焉は幾つかの死ぬパターンを持っているのだろう。実際にこの目で見たわけではないが、ノーチェ以外に殺されることと、感情の起伏によって死んでしまうこと。その他に自らの手で命を絶つことが代表的な方法がある。

 男の口振りでは他者に殺されることと、自らの手で死ぬことの方が楽だという。理由は至って単純――致命傷を与えてくれるから、である。

 外部の人間は無駄に手を煩わせないよう、頭や胸を中心に。自分で命を絶つときは首元の動脈を包丁で切ることが最もだ、と言った。
 その分の出血は多く、後片付けに手間が掛かると言うのだが、すぐに意識を手放せるから無駄な思考に時間は取られないのだ。目の前が暗くなる感覚も、血の気が引いていく寒さも、すぐに気にならなくなるという。
 ――そこまで聞いて、彼は終焉の思考を疑った。
 男は特別嬉しそうに語っているわけではないが、口許が妙に軽やかな印象が窺える。酷く饒舌で、死へ至るまでの感覚など詳細に語ってこようとするのだ。一体どの程度の時間が経てば綺麗さっぱり意識が飛んでしまうのか、後片付けにどの程度の手間が掛かるのか、ノーチェが知りたいとは思わない情報ばかりだ。
 使っている包丁はキッチンにあるものだが、料理には使用していないから安心してくれ、などどう反応を返せば分からずにいる。小さく、小さく頷いて「そう……」とだけ呟くと、男はふ、と小さく微笑んだ。

「どうせ知りたいのはまた別の方なんだろう?」

 顔を蒼くしたノーチェに終焉は見透かしたように目を細める。外部からの刺激ではなく、自分の感情によって死ぬことが、彼の一番の知りたいことだ。それを知りながら語った終焉は、「少しからかっただけだ」とだけ呟いて、ゆっくりと席を立つ。
 黒く長い髪を靡かせながら、障害物のない場所へと男は躍り出た。汚れても後で綺麗にすればいいか、と呟く様子からして、血を出すことは前提のよう。絨毯のある部屋からろくに移動しないのは、今すぐにでもノーチェに応える為だろう。
 終焉が立ち上がったのに倣い、ノーチェも徐に席を立った。折角自分の要望を聞いてくれるのだ。座り続けるのも悪いと思ったのだろう。
 とはいえ、暗に死んでくれと言っていること自体が良いとは思っていないのだが――。

 ――終焉は冷静さが窺えるほど静かな無表情を湛えていて、大事にはならないように思えてしまった。

「……感情への反応は基本的に決まっていてな。哀しみや怒りにはあまり反応しないんだ」

 ぽつりぽつりと話し始める男の横顔が、ほんの少し不機嫌そうに見えたのは気のせいだろうか。
 終焉曰く死ぬ為の条件である感情は、基本的には負の意味合いを持つものには大して反応を示さないという。どれだけ哀しみを背負おうが、怒りを胸の内に溜め込もうが、死ぬには値しない感情だそうだ。
 反面、喜びや楽しさなど、前向きなものに最も大きな反応を示すのだと男は言う。正の感情を持つことを許さないと言うように、少しでもそれを覗かせてしまえば、罰が下されるのだと。
 それはまるで――。

「……アンタ、楽しく生きんの、禁止でもされてんの?」

 ふと口を突いて出た言葉に、終焉は答えることはなかった。代わりに僅かに寂しそうに微笑んで、「これでも何度も死んでいるんだよ」と身の内を明かす。
 初めは真夜中。あのときはつい花瓶を割ってしまったな。――そう懐かしむように呟いた。そのあとも不定期に死を体感しては、何度も素知らぬ顔をしてノーチェの前に現れているのだと。
 告げられる言葉の中に、彼は記憶にあるものを思い出しては胸元に手を当てる。割れた花瓶の残骸は、終焉が死んだ後の形跡なのだと思えば、疑問ばかりが頭をぐるぐると巡った。
 ノーチェの存在が死に至る引き金にでもなっていると言われているような気がして、胸の奥に蟠りが募る。苦く、苦しく、重い鉛のようなものが。胃へ、肺へ、足へまとわりついているようで、酷く不快だった。

 もし。もしも自分がその引き金だとするのならば、男にとってノーチェは、疫病神そのものではないだろうか。

 ――吐き気にも似た不快感を吐き出したくなったが、彼はそれをぐっと呑み込んで終焉に目を合わせた。
 知りたいと言っているのは他でもない自分自身だ。もしも原因が自分にあるとするのなら、後で精一杯の謝罪を見せればいい。出ていけと言うのなら、大人しくこの屋敷から去れば終焉も満足するだろう。
 ――最も、追い出されるわけがないと、過ごした時間の中で彼は結論を見出だしている。ならば、迷惑を掛けないように精一杯努めるだけだ。

 そう、不安になりながらも真っ直ぐな目を向ける彼に対して、終焉は初めて大きく感情を見せた。

 綺麗な顔だった。無表情で飾られた端整な顔が、初めて大きく綻んだ。口許が弧を描き、目元は嬉しそうに細められている。顔に赤みでもあれば少女のような可愛らしさと、子供のようなあどけなさが際立つのではないかと思うほどだ。
 黒い髪が一層終焉の顔を引き立てていて、一瞬でも清楚な女に錯覚してしまう。咄嗟に瞬きをして目を擦るノーチェは、胸元に添えた手を強く握っていた。
 初めて見るといっても過言ではないほどの表情に、彼は強い鼓動を感じる。心臓が大きく脈を打って、微かに汗が滲んでいるのが分かった。本を読んでいるときに見かけた恋愛感情への比喩が随分と酷似しているような気がして、その一文を不意に思い出す――。

 どきりと心臓が跳ねた。相手を見る視界がキラキラと輝いて、相手を見る目が確かに変わったような気がする。髪の毛や睫毛のひとつひとつも、顔や唇の形も、恐ろしく綺麗に思えた。目元の視線などが自分を鼓舞する要因のひとつとなって、堪らず胸元で手を握り締めてしまう。
 みっともない――そんな感情を置き去りにして、汗が滲んだ手のひらをひた隠すように服すらも強く握り締めていた。
 感動にも似ているこの状況を、どう認識するべきだったのだろうか。目の前がチカチカと瞬いているような気がしている。そのことに気が付いたとき、漸く呼吸を忘れていることに気が付いた。
 それでも息を吸うことはなかった。興奮の中に紛れる期待に、釘付けになる視線に、頭が働かなかったのだ。

 ――そんな状況に最も似ていると自覚しているのに、彼の胸に沸々と沸き上がるのは、強い不安だった。

 女のように綺麗な笑みを浮かべたまま、終焉はそうっと唇を開く。

「私が死ぬ原因となる最もな感情は『幸せだ』と認識したとき。ノーチェ、私は今――」

 ――とても、幸せだ。

 そう紡がれた矢先、錆びた鉄の香りが部屋一杯に広がった。