刻まれた傷痕

 ――勝ち誇った思いもすぐに水へと流されてしまった。
 ノーチェは終焉が用意した湯船に体を浸けながら「自分は一体何をしてるんだろう」だなんて思い返す。成り行きとはいえ、成人男性がひとつの浴槽に身を寄せ合うなどという状況に出会してしまって、徐々に芽生える混乱が隠せなくなる。

 一足先に入ってくれと言われたノーチェは頷きをひとつ。身支度をして早々に浴室に入り、頭や体を洗って湯船に浸かる。相変わらず入浴剤を欠かさないようで、乳白色に彩られた湯船からは甘い香りが漂った。入浴剤のお陰だろうか――肌に宿る滑らかさは、女に匹敵するのではないかと思うほどにまでなった。
 ノーチェは自分の肌を撫でて見る。濡れていてはっきりとは分からないが、屋敷に来た当初よりも肌の質が変わったように思える。肌だけではなく髪までも随分と柔らかくなってしまって、体つきさえ戻れば元の生活に戻れるのではないか、と思えるほどだ。
 相変わらず首にあるものは何をしても取れることはないが、そのままでも十分普通の人間としての暮らしはできているように思えてしまう。だからこそ本当にこのままでいいのかと、彼はほんの少し眉を顰めた。

 奴隷の分際でこんな目にあっていていいのかと――。

 ガラリ、――不意にノーチェの耳に扉が開く音が届く。彼は腕を撫でていた手を止めると、やって来たであろうそれに目を向ける。揺蕩う長い黒髪が酷く特徴的で、腰までしっかり伸びているのだとはっきり気付かされてしまった。そんな長いものをよく背負っていられるなと感心してしまうほどだ。
 湯気に囲まれて普段よりも白っぽく見えるのが新しいと思いつつ、ノーチェはゆるゆるとその顔を見上げた。酷く澄ましたような顔に、澄んでいながらも暗い瞳がノーチェを見下ろしているのだ。しっかりと気を遣ってか、タオルを腰に巻いてもいいとノーチェに告げた終焉も、腰にタオルを巻いていた。
 しかし、そんなものよりも目を惹くのはもっと大きなもの――終焉の体にノーチェは目を奪われた。

「…………」

 見上げたノーチェは人知れず「これだ」という確信を得た。そこにあるのは終焉から見て左肩から右脇腹にかけて付いた大きな傷痕。確実に心臓を狙ったかのような、生々しく残る傷痕が先日終焉が言っていた「『終焉』に成る前に受けた傷」なのだろう。
 鋭利な刃物で大きく切りつけられたような傷痕に、ところどころ小さなものが点々としている。酷い傷痕の数々に彼は終焉がまともに避けていなかったのかを問いたくなったが――一際古いような傷痕にふと目が引き寄せられる。
 それは傷痕というよりはあまりにも古く、まるで火傷痕のように残ったものだった。鳩尾から腰辺りにまで大きく刻まれた、白い肌に映える多少くすんだ肌色がじっとそこに佇んでいる。火傷痕にしてはあまりにも綺麗すぎて、傷痕にしては生々しさも欠片もないものだ。
 他の痕とは毛色の違うそれに彼は首を傾げると――す、と終焉の体が動いた。行く先は勿論取り付けられたシャワーだ。

 長い黒髪が揺れて終焉の背について回る。あの長い黒髪をどう手入れするのか、彼は確かに気になってその姿をじっと見やった。
 それは何ら変わりのない、普通の手入れそのものだった。十分に髪を濡らした後、シャンプーやコンディショナーなどのありきたりなものを使っているだけなのだ。泡立たせるのに苦労しそうだの、手入れが面倒くさそうだの思ったものの、終焉の慣れた手付きは苦労を知らなさそうで。ノーチェは思わずその様子を凝視してしまう。
 髪の毛一本一本――毛先に至るまでゆっくりと、馴染ませるような手入れだった。同じ洗髪剤を使っているにしてもここまで仕上がりが違うのは、終焉とノーチェの手入れの仕方が全く違うからだろう。洗髪剤を洗い流した男の髪は濡れたてで、艶がよく目立った。

 ――これ以上は見る必要もないか。

 終焉が手を伸ばした先にボディタオルがあることに気が付いた彼は、ゆっくりと視線を逸らして肩まで湯船に浸かり込む。長い髪が床タイルに着いていたのが勿体ないなどと思いながら、ほう、と浴室の天井を仰ぎ見た。――終焉が視線に気が付いていて、ぐっと唇を噤んでいたことには気が付かないまま。
 シャワーの音が鮮明に響く中、時折ゴロゴロと雷が唸りを上げる。その度に終焉が肩を震わせているのかと思い、ちらと横目でその姿を確認すれば、動きが止まっているのを視認する。そんなに怖いものではないだろうに――なんて思いながら、再び視線を逸らすと、懸命に洗い流す音が聞こえた。
 きゅ、と蛇口を閉める音。シャワーを立て掛ける音。風呂椅子から立ち上がり、ぺたりと床タイルを踏み締める素足の音――ふ、と彼が視線を寄越せば、腰に巻いたタオルを直しながら終焉がぼんやりとその姿を眺めている。
 さて、どうしようか。そう言いたげな様子に彼は「ああ……」と口を溢すと、「どうやって入る……?」と呟きながら浴槽に寄り掛かっていた体を起こした。

 幸いこの屋敷の風呂は人一人が入っていても多少広く思えるほどの大きさだ。黒の浴槽を見て思ってはいたことだが、どこまでも金持ちを彷彿とさせてくる。――そんな浴槽を一瞥した後、ノーチェは未だ行動に出ない終焉を見続けた。もう一度雷が鳴る前にさっさと入って、このふざけた事象を終わらせたかったのだ。

「そう……だな……。顔を見たくはないので、私に背を向けてもらっても……?」

 顔を見たくはないって何だ。
 ――そう思いながらも彼は「分かった」と言い、自分が寄り掛かっていた場所を終焉に譲る。男は長い髪を丁寧にまとめ上げた後、ノーチェが譲った場所にゆっくりと足を入れる。体に伝わるのは自分とは全く違う熱量。そう言えばこの人の体はやけに冷たかったな、と微かに歪む終焉の表情を見て、ノーチェは思っていた。
 恐る恐る――体を熱に馴染ませるようにゆっくりと湯船に浸けた終焉は、はあ、と大きく息を吐きながら深呼吸を繰り返す。男が足を伸ばしても多少曲げる程度の膝を見て、改めて浴槽の大きさを知ってしまった。ノーチェは気を抜き始める終焉を横目にしながらそろそろと背を向けた。――自分は膝を抱えるように縮こまって、だ。
 そんな彼の様子を見かねた終焉は、一度考えるような素振りを見せた後、「ノーチェ」と言葉を紡ぐ。

「別に私に寄り掛かってもいいんだぞ」

 ――なんて言いながら、ぺしん、と浴槽を一度だけ叩き鳴らした。
 この人は何を言っているのだろう――そんな疑問がノーチェの頭をよぎる。顔を見たくないと言うのなら無駄な接触は避けるべきではないだろうか。彼にとって素肌の密着はいいものではない。体に刻まれた生々しい傷痕が疼くようで、どうにも近寄る気にはならなかった。

「――っ」
「…………あ」

 ドォン、と酷い音が外から浴室まで大きく響く。雷が随分と近くに落ちてしまったようで、その後に鳴る雨音がいやに大きく聞こえた。それに肩を竦めた終焉は微かに身を縮めているようにも見えて、雷が怖いんだった、と彼はふと思い出してしまう。
 ――仕方がない、仕方がないことなのだ。提案をしたのは他でもないノーチェ自身だ。

 ――ゆっくりとノーチェは終焉へと近付いた後、無防備な背を向けて体を預けている。普段冷たい肌が湯船によって温まり、人並みの体温を持っていることが酷く珍しく思えた。「この人も人間だ」――そう思わせるほどの、確かな温もりだった。
 終焉はノーチェが大人しく体を預けてきたことに多少の驚きを覚えた後、深く、深く溜め息を吐く。「はあ」と安堵の陰に隠れているのは、雷に対する嫌悪感だろうか――あまりの深い溜め息に「そんなに怖いの」と小さく呟けば、「ああ」と返事が返ってくる。

「光が……光が酷く、眩しくて……よく似ている」
「……似てる……?」

 何が。そう問い掛けようと思ったのだが、ぽつりぽつりと語る口調に彼は、その話題が触れられたくないものなのだと、ふと気が付いた。ふぅん、と生返事をしてぼうっと水面を眺める。透明ではない乳白色の湯船には微かに自分の顔が映り込んでいる。表情こそ判断できないものの、薄暗い影の形に変化はない。
 首元のそれに触れるとひやりと冷たい感覚が指先に伝った。やはり風呂のときはやけに邪魔くさく、鬱陶しいとばかり思ってしまうほど。嫌だと思うものの、対処のしようがないことに小さく失望の念を抱いた。

「……傷痕の具合はどうだ」

 ぽつり、終焉が雨音に交えて小さく言葉を吐く。相も変わらず男は彼の頭を撫でるのが好きなようで、ぱしゃんと水音が鳴った後、彼の頭に小さな重みがのし掛かった。撫でられているのだと気が付くのに時間はかからず、彼は撫でられたまま何気なく自分の体を眺め――「まあまあ、」と呟く。
 良くもないが悪くもない――そう言いたげな声色に、終焉は「そうか」と言った。

「……悪化していないなら十分だな」
「……そうだな……」

 水に濡れた髪がくしゃりと音を立てて軽く乱される。今日は随分と口数が多いな、なんて思いながらそうである理由に薄々気が付いていて、ノーチェは載せられた頭を軽く叩いてやる。
 いくら終焉がノーチェが嫌がることをしないとはいえ、将来的な話は確約できないものだ。密着している状態で触れられるのはあまり心地がいいわけではないのだろう。――叩かれた終焉は「すまない」とだけ呟きながら、湯船に腕を戻した。
 傷痕と言えば先程の終焉の体がふと頭をよぎる。綺麗だと言われるような肌には沢山の傷痕が刻まれていた。どれもこれも新しく見えるほど、生々しく残っているのだ。その点を言うのなら、ノーチェよりも終焉の方が気がかりなところがあるのだが――開くようなものではないのだろう。
 あの傷痕は痛そうだった。――そう思い浮かべるのはやはり肩から腹まで切りつけるような大きな傷痕で――

「――……?」

 ――不意に頬に伝う違和感にノーチェは瞬きをした。
 雨が五月蝿く、熱気のこもった風呂の中に居るからだと思いたかった。――しかし、それが理由ではないことは明白だ。意識しなければ気が付かないものだが、彼の頬に伝ったのは理由も分からない涙だった。
 変なこともあるもんだな――そう心中で口を洩らしながら不透明なお湯を手で掬い、ばしゃばしゃと音を立てながら顔を濡らす。雷が落ちて以来雨音だけが響いていた所為か、それとも単純に雷鳴と間違えたのか――「うわ、」と声を上げて体を震わせたのは終焉だった。
 そんなに驚くものだろうか。

 顔を濡らしたノーチェは背中で小さく震えた終焉に「……ごめん」とだけ呟いた。何気なく取った行動が男を驚かせてしまった自覚はあり、なけなしの謝罪を述べたのだ。すると、終焉は朧気に「……ああ……」と小さく言うものだから、ノーチェは気になってしまって徐に振り返った。

「ちょっと……驚いただけ……」

 そう呟くのは先程の低い声色など垣間見せることもなく、気の抜けた声を上げる一人の男だ。ぼんやりとノーチェではないどこかを眺めるように視線は緩く、無表情で固まった顔は多少緩んでいる。
 つい先日見たその顔に、「この人は風呂で気を抜く人なのか」と彼は思う。こくりこくりと多少船を漕ぐ様は見ていて不安になるほどだ。このまま眠りに落ちて湯船に顔を浸けてしまうのではないか――、そんな考えが頭をよぎる。いくら死んでも死なないとはいえ、自分の目の前で死ぬようなことなど、目覚めが悪いにも程があるのだ。

「……眠い……?」

 何気なくそう問えば、終焉は一度閉じようとする瞼を抉じ開け

「……ちょっとだけ……」

 と緩く答えた。
 ここまで気が抜けている終焉を見るのはひと月を越えて今日が初めてで、ノーチェは眉を顰めながら「じゃあ出よう」と終焉の手を引く。ノーチェは終焉を待つ間に随分と長い時間浸かっていて、正直頭がぼんやりとしていて、喉が渇いて仕方がない。
 力なく項垂れているであろう腕を湯船の中でぐいぐいと引っ張っていると、男が酷く気怠そうに「うぅん」と唸ってから「あと一時間」と渋る。

「あと一時間だけ……」
「一時間は『だけ』で済まねぇよ……」

 早く出よう。そう言ってノーチェは絶えず終焉の手を引いて、男の意識を揺さぶった。相変わらず終焉は駄々をこねる子供のように小さく唸っていて、動くような様子も見受けられない。本当は置いていくことも考えたのだが――雷嫌いの男を放置して置くのはどうなのかと、無意識が囁くのだ。
 「俺、喉渇いた……何か頂戴」堪らずノーチェが呟けば、終焉は閉じかけていた目をゆっくりと覚まして「そうか」と洩らす。

「……そうか……」

 そう言って徐にノーチェの頬へと手を伸ばし、じぃっとその顔を見つめた。三日月が浮かぶ反転した目が酷く不服そうに終焉を見つめている。――反対に彼を見つめる瞳は赤と金色に彩られていて、どこか暗く冷えているような気がした。
 何か意図があるのかと、ノーチェは負けじと見つめ返していると――「羨ましい」と低い声が言葉を紡いだ。

「羨ましい――愛されたかった」

 それは、すっかり諦めたような、物悲しげな声色だった。
 愛されたかった。その言葉にノーチェの胸の奥がざわつくような感覚に陥る。ただ、愛されたかったという言葉が何度も何度も脳裏で反芻するのだ。羨ましい、愛されたかった――何に向けた言葉なのかは分からないが、それが自分に向けられているような気がして、あの、と言葉を紡ぐ。
 あの――そう呟いた途端、終焉が「出ていいぞ」と小さく口を洩らした。

「私もすぐ出る……」

 そう言って、ノーチェに伸ばしていた手を離したのだった。