どう足掻いても「完璧」を体現しているとしか思えなかった。
ほうほうと沸き立つ湯気を見つめながら、ハインツは用意された夕食をまじまじと見つめる。数週間ほど前にはマリアやリーリエとの賑やかすぎる食事会が開かれたが、そのときにはまだ男の手元は頼りなかった。それこそ初めて包丁を握るときには、すっかり怖じ気付いたような顔色を浮かべていたものだ。
その面影も、たった数週間が経った頃にはすっかり消えてしまった。まるで初めから料理には触れていたというように、包丁の扱い方も、野菜の切り方も、調味料を加えるタイミングも何もかも――「完璧」でしかなかった。
今日は俺が作ってもいいか、と不安げな口調で呟くものだから、彼はまだ教えるべきなのかと思ったほどだ。
――しかし、用意されたものの出来映えはどうだろうか。盛り付けや彩りまで、まるでレシピに載っている料理そのものが具現化されてしまったかのようだ。赤く染まるスープから顔を覗かせる人参や玉ねぎ、小さなパスタとパセリが視界に入る。ほんのりと香るトマトの酸味は、彼の食欲を小さく刺激した。
メインディッシュは昨晩作った余り物で構わないと告げた所為か、男はほんのり無愛想なまま料理を作っていた。一から作り上げたものだとは思えないほど、申し分のない出来だ。
味見をしてほしいと頼まれたハインツは、小さな皿に軽く注がれたスープを口に運ぶ。少量であること、皿自体が冷えきっていることからすっかり冷めてしまっているのだが――口の中に放ったときの香りと味は悪くはなかった。
寧ろ良すぎるほどだ。
「――はは、うん。すっごく美味しいよ。これならもう大丈夫じゃないかな」
少量のスープを喉の奥に押し流し、ハインツは小さく微笑みながら告げた。すると、男は僅かに目を見開いて「本当か?」と問い掛ける。心なしか、男の赤と金の瞳が瞬いているようにも見えて、少しだけ可愛らしいと思ってしまった。
この人もそれなりに表情が変わるのだと、頭に叩き込みながら彼は頷く。
どうにも男は料理に関して酷く自信がないようで、彼が美味しいと言ったそのあとにも頻りに味を聞いてきた。「美味いか?」や「不味くはなかっただろうか」なんてほんの少し、不安げに。
その度に彼は何度も笑って美味しかった、美味しいよなんて答えるのだ。
何故そんなにも味付けを聞いてくるのか、試しに訊いてみれば男の口から興味深い言葉が返ってくる。
「味がよく分からない」
――たったその一言。
男という存在を知っているハインツは、男が単純に「何が美味しい」のか「何が不味い」のか、そういった判断がつかないのかと思っていた。
選り好みをしているわけではないが、男は常日頃から甘いものを好んで口にしている。掃除の合間や家事の合間。ふと気が付いたときには何らかの甘味を頬張っていて、美味しそうに顔を綻ばせる。
――そういった一面を見ていたが、どうにも料理に関しては特に何の感想も呟いたりはしなかった。単純に判断がつかないのではなく、味そのものがよく分からないのだろうか。
不思議に思ったハインツは僅かに目を細めると、「ケーキは美味しい?」と何気なく問い掛けた。
すると、男はすぐに縦に頷いてから、「……美味い」と静かに呟く。甘いものは心が躍る、なんて呟いて僅かに顔を綻ばせるものだから思わずハインツもつられて頬を緩めてしまう。
男は味覚に何らかの異常を来しているようではあるが、それを不便だとは思ってもいないようだ。その証拠に男は、大して気にしたこともないんだがな、と呟いて自分が作った料理を満足げに眺めた。どうやら出来を褒められたのが酷く嬉しかったよう。
彼は小さく息を吐きながら男が特に不満を口にしないのを見て、ほんの少しの安心感を抱いた。万が一のことが起こったとき、男が一人取り残されてしまったとき――どう生きていくのかが不安で仕方なかったのだ。
「――まあ、不便じゃないならいいかぁ」
彼がそう呟くと、男は頷いて食事の支度を始めたのだった。