男が家事を始めて数ヶ月。すっかり料理を覚えてしまった男は、昼夜問わず料理を作るようになった。しっかりとした食事は勿論のこと、主に手掛けているのは男の好きなデザートの類いだ。初めて作ったにしては出来がいいとハインツに見せれば、彼は笑いながら「流石だね」と男を褒めていたのだ。
元より甘いものを作れば、と進められた男は来る日も来る日もデザートを作り続けた。料理にそれとなく楽しみを見出した他、自分好みの「甘いもの」を作り上げるのが楽しくなってしまったようだ。
少しずつ外へと足を運ぶようになった男とハインツは、買い物に出る度に何度も料理について会話を交えた。
以前の料理は何だとか、この調味料を使って何をするだとか。隠し味にこれを入れたらどうだとか――そんな些細なこと。その大半がデザートに関するものであることを除けば、何ら変わりのない普通の食事に関する会話だ。
思いもよらない男の趣味に、彼は何度も笑った。時折屋敷に訪れるマリアやリーリエはここぞとばかりに男の料理を堪能して、何が気に入ったのかを丁寧に述べる。リーリエはやはり酒を使った料理やデザートを、マリアは爽やかな酸味が利いたレモンの香るものが好きだと言った。
当然のように甘いもの――更に言えば甘ったるいもの――を好む男にとって、女二人の好みは理解しきれなかったが、気に入られて悪い気はしなかった。
また機会があれば作る、と告げれば彼らは喜びを露わにするものだから、堪らず小さな笑いが溢れてしまうのだった。
――身寄りもなく、記憶が戻らないまま数ヶ月を屋敷で過ごしていたが、悪くはないと思う自分がいるのは確かだった。
未だ初夏の兆しを見せている空に多少の不信感を抱きながら、男は今日も身の回りの家事に勤しんでいる。大きな家の手入れは酷く大変だと思うが、その分の達成感は人一倍感じられた。
自前のコートを着込みながら外に出て、白い雲が点々と青に浮かぶのを後目に、庭先の植物の手入れを行う。余計な葉の剪定を行い、長いホースで水を撒き、花を愛でる。時折白い猫が庭に訪れるのを見て、妙な胸騒ぎを覚えながらも挨拶を交わせば猫は「にゃあ」と一鳴きしてから寝に入った。
庭の花壇には見慣れない花が咲き誇っている。それを見付けたのはつい数日前のことで、珍しいなどと思いながらも男は触れずにいた。
あまり深入りしてはいけないという妙な感覚が、男の胸にのしかかる。それは、恐らく自分の知らない自分を彼らが知っているからだろう。記憶を無くす前の自分を知りたいとは思わないが、彼らがそれを自分自身に重ねて見ているのは男も分かっていた。
今の自分と話しているようで、彼らは時折別の誰かを見ている――その疎外感を表に出さないよう、最低限の生活をおくるだけ。下手に足を踏み入れない方が自分の為になるのだと、男は分かっているのだ。
花を後にして男は日課となった掃除の準備に取り掛かる。普段ならある程度済ませてしまって残りは翌日へと持ち越すのだが、今日は日中からハインツが屋敷を空けているのだ。普段ならできそうにもない場所をそれとなく掃除しておこう、という考えを男は持っていた。
長い髪を束ねるために渡された髪紐で結わき、コートを脱いでからシャツの袖を捲り上げる。好き好んで入る風呂場の天井や隅の掃除、観葉植物の鉢の手入れ。窓の隅の埃取りなど、小さな汚れも残さないように男は動き回る。
使っていいと言われた一階の角の自室を自分好みに仕立て上げて、使っているのかも分からない二階の部屋をくまなく手入れする。二階の部屋数と手洗いを見かねて、随分と大きな家であることを自覚してから、男は自分を拾った人間が如何に凄いものであるのかを考えた。
俗に言う、金持ちという類いなのだろう。
今に始まったことではないが、生活費は全てハインツが出してくれている。どれだけ買い込もうとも彼は一切表情を曇らせることもなく、まるで子供を見守る父親のような表情で男の言動を見守っていた。この世界の通貨のことなど少しも知らない男を差し置いて、彼は手早く会計を済ましている姿を何度目撃したことがあっただろうか。
――以前興味本位で男は彼に「生活費、というものはどうしているんだ」と問い掛けたことがある。勿論、自分という存在が厄介なものになってはいないか、そういう不安からきた質問だ。
男の突拍子もない問い掛けに彼は一度瞬きをすると、一度考え込むような仕草を取ってから笑って「秘密」としか答えなかった。何らかの意図があるのかと思ったが、妙に胡散臭いような笑みを湛えるものだから、男はそれ以上深入りすることはなかった。
何がともあれ、ハインツの負担になっていないことが最重要だったのだ。
そんなハインツも朝から何やら忙しなく慌てていたものだから、男は首を傾げて「うぅん」と唸る。
彼の慌てた姿は物珍しく、微かに乱れた髪もそのままにしていた。彼も人間なのだと思えたが、その分部屋の様子が気になっていた。
男に部屋を明け渡してからというものの、彼は二階の隅の部屋を使っているようだ。稀に自室の天井の方から物音が聞こえてくるのを、男は少しも聞き逃したことはない。普通の人間は、夜更けには眠るものではないのかと思いながら、目を閉じて深呼吸を繰り返していたことが数回ある。
昨日は物音こそはしなかったが――朝の慌て振りを見る限り、部屋のものは乱れているのかもしれない。
普段はハインツに「僕の部屋は掃除しなくていいから」なんて言われたこともあり、手を出すことはしなかった。
――しかし、今日という今日は手をつけておいた方がいいだろう。
考え事を一通り済ませてから、男は意を決したように顔を引き締め、二階の隅の部屋へと向かう。扉の前に立ち塞がって、ノブに手を掛けてから家主が不快にならないかどうかの不安を抱く。
男はあくまで居候として屋敷に身を寄せているのだ。家主はハインツであり、彼の一存で男の生活が変わってしまうと言っても過言ではない。部屋に入られたくないのは、見られたくない何かがあるのではないか、と何度も考えてしまう。
――それでも男は扉を開き、彼の部屋の中へと足を踏み入れた。
コツン、と鈍い靴の音が鳴る。それを聞く度に男は靴を脱ごうか考えては、何も気にしなかったように平然と日常を取り戻す。どこかの街では家に入るときは靴を脱ぐ習慣があるようだが、この街では脱がないことも多いようだ。
それもいつか、汚れを気にして変わるのかもしれない。
乱れたままの寝具を視界に入れながら、男はそれに近付いた。白いシーツがすっかりシワにまみれ、掛け布団は裏返って床に落ちている。カーテンは閉め切られていて、机の上には見慣れないものがぽつんと置き去りにされていた。
一体何の用事があったのか――疑問に思いながらも、男はシワだらけのシーツを直し、落ちていた布団を拾って丁寧に畳んでやる。
どうにも彼のお陰で生活をするための一連の流れが体に染みついてしまったようだ。僅か数ヶ月ではあるが、物覚えのいい男はこれなら何とか生活できそうだ、と独りごちる。
万が一屋敷を追い出されようとも、家さえあれば生活はできるだろう。人間と同じように寝食を共にしているが、男は自分が人間ではないことは重々承知しているつもりだ。そうでなければ味覚が可笑しいことも、何故だか妙に「食事」に興味が湧かないことも、納得ができない。
そもそも体が日光を拒むなど、人間にはありもしない話なのだから。
「――……ん」
――なんてことを考えている間に部屋の片付けを進めていた男は、窓を開けようとした拍子にふとそれに気が付いてしまった。
カーテンを開き、窓を開けようとしていた手が、ゆっくりと机の上にあるそれに伸びる。ほんの少し古びたような肌触り、題名も何もない真っ黒な表紙。まるで自分のようだと思いながら何気なく持ち上げると――、何故か胸の奥に蟠りが募る。
自分はこの本を知っているような、知らないような、妙な違和感が気味が悪くなるほど心臓の鼓動を速めた。
――心臓、なんて、あったのか。
不意によぎる自分の思考に、男は僅かに目眩を覚える。
酷く滑稽な話だ。生き物全てに確かに心臓が存在する筈なのに、今しがた自分にも心臓があるなどと自覚するなど。
ドクドクと胸の奥から響いてくる鼓動が酷く気味が悪く、男は思わず空いた片手を自分の胸元に添えてしまう。不思議と上がる体温にも違和感を抱きながらゆっくりと本を開くと――奇妙なものを見てしまった。
窓の向こうに映る一面の森が騒ぐように揺れている。相変わらず可笑しいと思えるほどの一定の気候に、何を思っていたのかと改めて考えてしまった。
白い雲に青い空。時折天候が変わることもあるが、数ヶ月経っても変わらない気候に、時が止まっているようだと思っていたのだ。
暇潰しに読んでいた本で知識を得て、四季の移ろいならばすぐに覚えた男はやって来ない梅雨に不信感を覚えていた。それを一向に気にしなかったのは、自分におかれた環境に慣れるのが精一杯で、周りに目を向ける余裕もなかったからだ。
雨が降り、葉が蒼く茂り、日差しが強くなり、夏が来る。
雲が増し、天気が猫の気分のようにコロコロと変わり、葉は赤く染まって秋が来る。
いつしか気温が下がり、雨が雪となり、木々の木の葉は枯れ落ちて、冬が訪れる。
そうしてまた月日を跨いで、暖かくなって、春がやって来る――。
――その一連の流れが見られないこと、夏の訪れを喜べないことが、ほんの少し寂しいと思っていたのだ。
けれど、どうして夏が来ないことがこんなにも悲しいのか、男には分からなかった。
ぱらりと本のページを捲る音。中の紙すら一面が黒に彩られていて、とても珍しいものだと思わせてくる。
しかし、それを読み進める男の顔は酷く険しいものだった。
「これは――私か」
ぽつりと呟いた言葉も部屋の中で消えてしまって、男の言葉を聞く者は誰一人としていない。
そんな中で屋敷の扉が閉まる音が聞こえたが――男はもう、その音に耳を傾けることもしなかった。
黒い本の中身は男にとって非常に興味深いものだった。――興味しかなかった。読み進めていくうちに、その内容が何なのか、次第に理解していった。
本の中に綴られていたのは――男の知りたいと思い続けていた半生だった。
ぱらぱらとページを捲るにつれて、男の険しかった表情は無表情に変わっていた。まるで知れば知るほど、感情を失っていくように、男の目付きが変わるのだ。
今まで自分がどうやって生きていたのか。どこで生まれ、どんなことをしていたのか。鏡を見る度に疑問でしかなかった体の傷跡も、原因がしっかりと記されていて、一文字に結ばれた唇から溢れた笑いは、何の感情も含まれていなかった。
本当に欲しいと思っていたものをもらえていなかったと知った頃には、男の手から本が滑り落ちて音を立てる。
その直後、部屋の扉が開く音がした。
「……そうか。〝終焉の者〟、か」
「――兄さん?」
独り言のように呟いた言葉が、ハインツの耳に届く。彼の呼びかけも、男に届いた。
それに応えるように男が徐に振り返ると――彼が酷く悔しそうな顔をして、何故だか「ごめん」なんて口を溢す。
――いや、理由などとうに知っているのだ。
男は酷く興味の無さそうな表情を浮かべたまま「気にするな」と言った。抑揚のない淡々とした声色は、感情を失った声色そのものだ。何に対しても興味が湧かなさそうな表情に威圧感すら覚えてしまう筈だが、彼はそれがやけに心地良かった。
ハインツは顔を左右に振って、気を取り直したように男へ再度向き直る。握り締めた拳を緩めて、二人にも言っておけば良かったな、などと呟いた。
「笑うといい。今まで呑気に生きていた私を」
何の意図があってか、男はハインツにそう告げたが、彼は「笑わないよ」と言う。妙に安心感を抱いたような顔をするものだから、男は不思議に思って「何だ」と問うと、ハインツは「兄さんもちゃんと『人間』だなと思って」なんて答える。
「ただの化け物だったら誰かを好きになんてならないよ」
「…………そうか」
彼はもう、何もかもを悟ったように笑っていた。それに対して男は生返事を溢す。辺り一面から軋むような音が鳴り響いてきて、彼は「ちょっと無理を言ったんだ」と言った。
「折角間に合ったんだ。兄さんがしっかり生きていけるように時間をくれって、『彼女』にお願いした」
色々大変だったけど。
そう口を洩らすや否や、彼はじっと男の顔を見つめていた。今にも命を絶ってしまいそうなほど、男の表情は暗く、生気もない。
それでも彼は笑って、言うのだ。
「兄さん。この家あげるから、しっかり生きてよね。色々終わったら顔見せに来るから――きっと大丈夫だよ」
「…………?」
その言葉の真意を、男は理解することはできなかった。
――と、同時に世界がガラスが割れるように甲高い音を立てて、割れる音がした。
止まっていた時が進む。次に目を覚ます頃には、同じ顔ぶれなど見られやしない。
本能的に察した現実に、男は一度顔を伏せた。
ほう、と一息吐いて、ゆっくりと顔を上げる。屋敷の中だった筈の辺り一面はすっかり見慣れないほどの暗闇に満ちていた。
何もない。音もしない。ただ一人、男がそこにぽつんと突っ立っているだけ。
その体を縛るように赤黒い鎖が足元に絡みついて、男は厄介そうに舌打ちを溢す。痛みはあるのかないのか――いかんせん表情には一切出ないものだから、判断のつけようがなかった。
そうして、何の気なしに男は振り向く。まるで鎖に応えるかのような仕草だ。そのままどこかへと向かうように。
だが、男は足を進めなかった。
その代わりに――こちらをじっと見つめたのだ。
「――誰だ、私を見ているのは」