――はっと彼は肩を震わせて、咄嗟に倒れていた体を起こす。体が痛いと思ってしまうのは、机の上に突っ伏して眠ってしまっていたからだ、と気付いてしまった。
眠った記憶は一切ない。しかし、妙に重い瞼や晴れない頭に残る眠気に、自分は眠っていたのだと思わざるを得ない。堪らず辺りを見渡すが、見慣れない木造の建物と家具の位置に驚きを覚えてしまって思考がままならなかった。
「おはよう、少年」
ほんのり焦りを覚えているノーチェに声を掛けたのは、家の家主であるリーリエだ。一体いつから起きていたのか分からないが、片手には白いマグカップを携えていて、コーヒーの香りを漂わせている。化粧はしていないようで、普段の赤い口紅が映えた唇は薄桃色だった。
「俺…………」
何してたんだっけ――なんて言おうとして、彼はつい言葉が詰まる。
普段のリーリエは黒いドレスにしか身を包んでいなかった所為か、女の寝間着につい言葉を失ってしまったのだ。
金の髪が映える、終焉ほどではないが肌の色が異様に白く見える。女の色を輝かせるように着ている黒いネグリジェに、彼は真新しさを覚えた。寒くはないのだろうか、という疑問がやって来る前に「俺、男だけど……」なんて言葉が彼から溢れる。
すると、リーリエは笑って
「やぁね、あんたが私に手を出す筈がないでしょ。絶対に」
――なんて言うものだから、ノーチェは茫然としてしまった。
確かに奴隷として生きている以上、これといった欲など抱くことはないが、分かりきったような言葉を告げられると驚きを隠せなくなってしまう。
そうだけど――と口をどもらせるノーチェを他所に、リーリエは彼の傍にあるそれに手を伸ばした。
「……それ……」
「どうだった? 全部じゃないけれど、ある程度は分かったでしょう?」
そう告げてきたリーリエの言葉に、彼は昨日何が目的でこの場所へやって来たのかを思い出した。
知りたかったのだ、終焉のことを。自分と出会う前はどう暮らしていたのかを。家事の殆どをどこで習い、どのようにして生きていたのかを。
本として読んでいた筈なのに、気が付けば眠ってしまって、それを夢で見るという奇妙な体験をしていたのだ。一夜では到底全てを知れたとは言えないが、終焉がどう生きていたのかを知ることはできたように思える。
夢として見た所為か、酷く曖昧ではあるが、男には確かに付き添ってくれた人間がいたのだ。男のことを知っていて、男に記憶がないと知るや否や驚きとも悲しみとも似つかない表情を浮かべていたのを覚えている。
終焉はノーチェのことを知っているようだった。もしかしたら、同じようなことをしてしまっていたのではないか、と一抹の不安がよぎる。
万が一あの人が不快な思いをしていたらどうしよう、なんて。
そんなことを考えてから、ふと気が付いたようにノーチェはリーリエを見た。
「…………何?」
じっと顔を見つめるノーチェが気になったのか、女は小さく後退りをして彼と距離を取る。まさか本当に興味が湧いたとか、なんて口走るリーリエの言葉を押し退けて、彼は純粋な疑問をぶつけた。
「何て言うか…………アンタ、何歳なの……?」
「馬鹿ね、少年。私は魔女よ? と言うか女に年齢は聞かないの!」
夢に見ていたあの光景があくまで「終焉がこの街に来た頃」であるのならば、夢にも出ていたリーリエは一体何なのだろうか。
直球に訊くのも失礼だと思って年齢を訊いてみたが、上手く誤魔化されてしまったようだ。
ノーチェは固まった体をほぐすように席を立ち、賢明に背筋を伸ばす。秋に入った所為か、朝の小屋の中は酷く寒く思えて屋敷が恋しくなってしまった。
ぐっと背中を伸ばしてからぼんやりと宙を見つめ、あの人は今何をしているのだろう、とノーチェは何気なく考える。朝と言えば朝食を作っている時間だろうか。それとも洗濯や掃除に勤しんでいるのだろうか。普段はできない部屋の手入れでもしているのだろうか――なんて考えて、ほんの少し面影を恋しく思ってしまった。
すると、そんなノーチェの意図を察したようにリーリエが「顔を洗ってきなさい」と言う。
「帰りましょう、エンディアが待つお家に」
その言葉にノーチェは小さく頷いたのだった。