古びた手帳と冷たい感触

 終焉は長く暑苦しい黒いコートを一人用の椅子の背凭れに掛けて、その椅子に深く座り込んでいた。背凭れに体を預け、ゆっくりと呼吸を繰り返す。まるで眠るようなそれに、彼は「ああ、またか」と小さく溜め息を吐く。

 花火大会の後も、相も変わらず終焉はやけに眠そうだった。加えて熱に項垂れるかのように、怠そうな様子を見せては「何でもない」とひた隠すように振る舞い続ける。時折咳き込む様子もノーチェは目にしていて、その異変に少なくとも彼は心配する素振りを取り続けた。
 あくまで終焉は、自分を〝商人〟とは別の意味で大切に扱うから。それにできるだけ対等に接しようと、ノーチェもノーチェで終焉の様子を窺うのだ。
 体調が悪いのかと何度も問い掛けた。
 しかし、何を言おうとも終焉は「何でもない」の一点張りで、これと言って何かを白状する試しもない。
 結局彼は自分に支障がなければいい、という結論に至った。

 ノーチェは終焉の姿を見た後、いつの日かと同じような行動を取る。自分の部屋に行き、タオルケットを携えて、終焉にかぶせるという気休め程度の行動だ。男の顔は相変わらず端正で随分と綺麗なものだったが――、ノーチェはそれに僅かな違和感を覚えた。
 何気なく指先を終焉の頬に滑らせて、彼は小首を傾げる。終焉はぴくりとも動かなかったが、代わりに深い深い呼吸が返ってきた。自分が触れたとしてもろくな反応を示さない辺り、やはり体調でも悪いのだろう。

「……蒼白い」

 ぽつりと小さく呟きながら見つめる終焉の顔は、酷く蒼白に見えた。元から頬に赤みなどあるような人物ではなかったが、今日はそれに拍車が掛かっているように見えるのだ。
 試しに頬に滑らせた指先には温もりなど宿らず、氷のように冷たい感覚を得るだけ。以前よりも遥かに冷たく感じられるそれに対し、彼は目の前にいる男が人間ではないと、まざまざと見せ付けられているような感覚に陥った。
 この人は本当に化け物の類いなのかと、何度も思ったことはある。――だが、ノーチェの中にある何かがそれをひたすらに否定してくるのだ。

 ――この人は自分と何も変わらない生き物なのだと。

「――……ん」

 ふと、ノーチェが終焉の顔を眺めながら考えに陥っていると、終焉が微かに声を上げる。
 それに彼は咄嗟に手を引き戻し、「起きた」と小さく呟けば、男が閉じていた瞼を押し上げてじぃっとノーチェを見上げた。「…………また……寝てたのか」と拙い言葉が小さく、小さく唇から紡がれる。
 寝起きの終焉はどこか知らない存在にも思え、ノーチェは素っ気なく頷くだけの返事をした。眠いなら寝たらいいんだって、と口を溢し、何度も促すのだが、相変わらず終焉はそれを鵜呑みにはしない。首を横に振って、「そんなわけにはいかない」と言いながら目頭を押さえるのだ。

 見え隠れする終焉の疲労感に、ノーチェは唇をへの字に変える。もう少し、無理矢理にでも自分ができることを増やすべきかと考えて、うぅん、と唸った。その間に男は「また持ってきてくれたのか」と多少柔らかくなった言葉を紡いで、ノーチェの頭に手を置く。
 慣れとは恐ろしいもので、ノーチェもその手が嫌だと思うことは少なくなっていった。

「先程は悪かったな」

 僅かに申し訳なさそうな表情をする終焉に、彼も首を横に振る。

「……探しもんあったのもある……勝手に入ってごめん……」

 小さく俯いてされるがままになっていると、終焉は徐に手を下ろして「探し物か?」と問い掛ける。大半のものは、なるべく人目につくような場所に置いているのだろう。ノーチェの言う探し物が何であるのかが分からず、微かに目線を下げると、ノーチェが「えっと」と視線を泳がせた。
 一口に言えば、月日が分かるものが欲しかったのだ。季節が分かっていても、具体的な日にちが分からなければ、どういう日に何があるのかが把握できない。終焉が何故ノーチェに欲しいものがあるのかを訊いてきたのか、彼は知りたかったのだ。
 その旨を伝えると、終焉は納得するように「ああ」と呟きを洩らした。そして、数日後に何があるのか忘れたのか、とノーチェの顔を見ながら男は問う。見れば見るほど、透き通るような色をしていながら暗いその瞳に、ノーチェは堪らず顔を顰めると「わかんねえ」と口を溢した。

「……誕生日があるだろう。他でもない、貴方の」

 何食わぬ顔で紡がれた終焉の言葉に、ノーチェが漸くハッとした。
 男は彼のことをよく知っている。身の上も、一族のことも、ノーチェの好みも。だからこそ終焉はノーチェの誕生日を知っていても可笑しくはないだろう。夏の噎せ返るような暑さの中で生まれ落ちた、一人の青年の誕生日を。
 もうそんな日なの――思わずノーチェは終焉に問い掛けると、男は頷きをひとつ。「月日が流れるのは早いからな」と独り言のように言って、更に深く、穴が空きそうなほど見つめて再度唇を開いた。

「それで、何か欲しいものは見付かったのか?」

 ――その問いに、ノーチェは目を逸らすことしかできなかった。
 頭をどう捻ったところで彼に欲しいものは何ひとつ思い浮かばない。仮にそれを終焉に伝えたところで、目の前の男は納得してはくれないだろう。奴隷でいる以上、物を与えられることはないと思っていた所為か、未だに今の暮らしに慣れない彼は顔を顰めてしまう。
 殺されたいが故に愛しているのではないのだろうか。もしそうであれば、ノーチェに物を与えるなど、余計な手間でしかない。
 相変わらず思考が全く読めないと言わんばかりに彼は唸ると、終焉は「ないのか?」と首を傾げた。堪らず頷いてやるが、では見付かるまで聞かないでおこう、と食い下がる男にノーチェは遂に溜め息を吐いた。

 こんな調子が誕生日を迎えるまで訪れるのだろうと思っていた。
 ――このときまでは。