調子が悪いと思ったのは然程時間が掛からなかった。
朝起きて、喉の違和感に気が付く。
ここ数日どうにも咳をすることが増えて、不調を拗らせてしまったのかと警戒し続けていた。乾いた咳が出るにつれ、終焉が酷く不安そうに――とは言え、全く表情は変わらないのだが――ノーチェを見つめてくる。その度に何度目を逸らしたことだろう。
喉にある違和感が質量を増すように沸々と、存在を増していくものだから尚更だ。
体調が悪いなら休んでいいと終焉に言われること数十回。その度に首を横に振って、平気と答えること数回。喉の奥で何かが詰まるような感覚に苛まれては、小さく咳をして何度も解消しようと試みた。
夏場で男が熱を出したことがある所為か、どうにも終焉の近くでは頻りに堪えていることがあったが、我慢ができた試しはない。けほ、と乾いたそれを出す度に、終焉の赤い瞳が僅かに揺れる。
しかし、それだけだ。露骨に何かが起こっているわけでも、体のどこかが変に痛むわけでもない。
男の視線が妙に鬱陶しくてノーチェは逃げるようにそそくさと離れ、普段のように赤いソファーへと腰を掛ける。大きな窓から差し込む太陽の光が心地好く、次第に体が温まる感覚にほう、と息を吐く。
冬になってからか、太陽の温かさが以前よりも遥かに弱くなったようで、日の光がやけに心地いい。どうにも屋敷の中は寒く、体の芯――とまではいかないが、足先や手先、体の末端から少しずつ冷えていくのだ。
暖房の類いは存在している。どうにも使ったことがないらしい暖炉が、客間に聳え立っていて、未使用のまま黙って鎮座している。薪の類いがあるのかどうかは分からないが、少しくらい寒さを紛らせるように温かくしてもいいのにな、なんて彼は思った。
試しに終焉に告げてみようか。
ぼんやりと暖炉を見つめたまま、ノーチェは瞬きをひとつ。喉の奥にある違和感を吐き出すように、口許に手を当ててから咳をする。男にバレないように小さく。――それでも気付かれてはいそうではあるが、目の前にいなければ何ら問題はないのだ。
冬は嫌いではないが、肌寒さは体に堪えてしまう。それでも奴隷として扱われていたあの頃よりは、遥かに温かな環境下にいるのは確かだ。日光浴なんてもの、堪能できなかった頃に比べれば寒さなどないに等しい。
雪が降るような予報は未だに聞いてはいないが、夜になればなるほど寒さが体を刺してくる。屋敷内を温めるのも、終焉にとって居心地が良くなるだろう。その分風呂が心地いいと思えることに関しては、感謝せざるを得ないだろう。
以前、終焉やリーリエと外で食事をした頃はまだ暖かかった気もするが、月を跨いだ今では到底外での飲食などできる気がしなかった。あれだけ赤く染まっていた紅葉も、すっかり枯れ落ちてしまって、冬を痛感する。立冬も気が付けば過ぎてしまって、夜の訪れは早くなった。男の言う「御茶会」を次に行えるのは、冬が通り過ぎた頃だろうか――。
「ん……」
丸まった背を伸ばしながらノーチェはぼんやりと天井を眺める。豪奢な明かりが存在感を放っているが、目にする度にどう手入れをこなしているのかを疑問視してしまう。脚立の類いがなければ終焉ですらも届かないであろうそれは、見たところ埃が一切付いていないものだから、尚更だ。
そんな天井を見つめてからほんの少し重い体を動かして、ソファーから立ち上がる。軋むような皮の音も鳴らなければ、重みで一部がへこんだような形跡もない。いつまでも新品のように真新しい姿のままで――彼の疑問が沸々と湧き出てくる。
この座り心地のいいソファーはどの程度の値段がするのだろうか――なんて。
――過去に一度でも思った疑問を頭から払うべく、彼は頭を小さく左右に振ってそれを追い払う。
ここ最近の終焉は寒さからか、どうにも体が強張っているような印象を受けた。それを紛らせるべく動き回っているようで、以前のように小休止を挟むことが目に見えて減っている。普段なら屋敷内では脱いでいる筈のコートですら着込んでいるのだから、尚更だ。
そんな男にはやはり提案をするしかないのだろう。
席を立ったノーチェは軽く腕を擦り、はあ、と何気なく息を吐く。屋敷の中にいる所為か、視界には入りにくい白い息がふっと目の前を舞った気がした。
未だに白い雪が降らないことが疑わしく思えてしまうほど、寒くなったように思える。
そんな環境下に身を置くノーチェだからこそ、終焉に部屋を暖めることを提案しようとしているのだ。屋敷にいる状況に慣れてしまった今だからこそ、素足で廊下を歩くのも、暖房の類いがないのも酷く寒く思えてしまう。軟弱になった、なんて頭の片隅で苦笑を洩らすものの、状況が状況なだけに鍛えることすらままならないのだ。
僅かに咳を溢し、渇き冷えた空気に体を探しながらノーチェは終焉の面影を探す。初めは洗濯物に手を付けているような気がして、脱衣室へ。――しかし、既に洗濯機が回っている状態で、男の姿はなく。あてが外れた彼はその足でキッチンを目指す。
終焉が洗濯物に手をつけたあとは何をしているかなんて、あくまで彼の予想でしかない。その足で掃除に励んだり、おやつと称した甘いお菓子を懸命に作っていたり――買い出しに行こうか悩んでいたりと、様々だ。
その中で男が「よく行きそう」な場所をしらみ潰しに当たっているだけで、「そこにいる」という確たる証拠など彼にはない。
だからこそ廊下を歩いてリビングへ足を踏み入れたあとに、「そこにもいなかったらどうしよう」なんてぼんやりと考える。
何かをどうするわけでもないが、平常通り終焉がいなければやることのないノーチェは、ソファーで寛ぐことしかできないのだ。
知らない間に買い物に行っていたらもう諦めようかな。
――なんて思いながら、リビングの家具を後目にキッチンへの扉に手を伸ばす。
「――む、」
「……!」
――すると、ノーチェが扉に手を掛けるよりも早く、キッチンから終焉が姿を現した。キッチンにいたこともあってか、男の腕には着なれているであろう黒いコートが掛かっている。流石の終焉も服を着込んだままキッチンに立つ、なんてことはしなかったようだ。
黒く滑らかな長い髪が相変わらず終焉の背中で存在を主張している。ほんの少し目を凝らして漸く見られる赤いメッシュは、光を受けてちらちらと輝いているように見えた。
純粋な「黒髪」とは言いがたいそれに、彼はほんの少しだけ残念な気持ちになってしまう。
一点の汚れもない、純粋な黒髪だったらどんなに綺麗だったのだろう――なんて考えて、じっと男の髪を見つめてしまうのだ。
「……何か用か……?」
痺れを切らしたらしい終焉が、ノーチェの顔色を窺うように小さく訊ねる。普段よりも優しく、ノーチェの様子を気に掛けているようなもので、彼は堪らずむ、と表情を歪めた――ような気持ちになった。
いくら大丈夫だと言っても身を案じてくるのが終焉の者。恐らく、どれだけ心配は要らないと言っても話すら聞いてくれないのだろう。
――なんて思いながら「別に」と小さく呟いて、男の通り道を開けるように端に逸れる。急ぎではない話をするのは男の用事が済んでからでいい。何も邪魔をしたいがために口を挟もうとしているわけではないのだ。
「アンタの、用事が終わってからで――けほっ」
終焉の顔を見上げて急ぎの用事ではないことを告げようとした際、必死に堪えていた咳が喉の奥から競り上がる。彼は咄嗟に手で口許を隠してそれを溢すと、ほんの少しだけ違和感を覚えて、上目でちらりと終焉の顔を覗き見た。
不安そうな、不機嫌そうな――どちらともつかない無表情で、男がじっとノーチェを見つめている。黒髪に映える赤と金の瞳があまりにも獣らしく、威圧感を与えてくるもののように思えてしまった。
長い間終焉と共に過ごした彼は小さく目を逸らし、その視線から逃れようと試みる。
恐怖だとか、息が詰まるだとか、そういった感覚はすっかり抜け落ちてしまった。体が慣れたのか、出会って当初で得た体が強張る感覚は、今では滅多に得ることはない。終焉自身も不快な気持ちにさせまいと奮闘しているのだろうが――、未だに残るそれに彼は鬱陶しさすらも覚えてしまった。
「ノーチェ、休めと言っているだろう」
「……平気だってば……」
コートを片手に終焉は彼の肩に手を乗せて、体の向きを変えさせる。普段よりもいくらか雑に整えられた白い髪が小さく靡いた。それに伴い、首輪に残された取りきれない鎖の残骸が、カチカチと小さな音を奏でる。
それに何度も不快な思いをしているが、男は一切言葉に出さず、ノーチェの背を押す。歩幅も、足の長さも異なる男に背を押される所為か、歩くことが覚束ない。もたつく足が僅かに絡むが、倒れないのは男の手が肩に乗ったままだからだろうか。
「何か用があったんだろう?」
リビングの扉を押し退けて、廊下に出た辺りで終焉がぽつりと呟く。その間にも彼の背を押し続け、結局ノーチェは客間に戻されてしまった。相変わらず存在感を放ち続けている赤いソファーに座らされ、彼は唇を尖らせる。
終焉の予定を優先していいというにも拘わらず、男はやはりノーチェを優先しているようだ。彼が口を割るまでこの場所を離れる気はないと言わんばかりに傍らに立ち、ノーチェをじっと見つめる。
それに根負けしたノーチェは――小さな溜め息を吐きながら、「別に大したことじゃないけど、」と小さく呟いて男の目を見た。
「部屋、暖めないのかなって……あれ、暖炉だろ……」
暖めたら過ごしやすくなると思うんだけど。
そう言って彼は目の前にある暖炉を指差しながらぽつりと呟いた。黒光りするテレビの傍に暖房器具――もとい、暖炉があることは多少なりとも懸念すべき点があるものの、今まで未使用であったことを考えれば、配置には納得がいってしまう。
――とはいえ、長い間終焉は何をどうして寒さを凌いでいたのか、疑問が残るのは確かだった。