――そう頭を捻るノーチェに対し、終焉は暖炉を一瞥したあと、小さく唸る。考え込むときの癖――というのだろうか。僅かに眉を顰め、「むぅ……」と呟く様を彼は何度も目にしてきた。
それは、大抵視野に入れたことがないものを指摘したときに見られる言動だ。
やはり独りで屋敷にいたとしても、終焉には「部屋を暖める」という考えには至らなかったのだ。
「…………嫌なら別に」
眉を寄せたまま考え込む仕草を取り続ける終焉に、ノーチェは痺れを切らして小さく言葉を紡ぐ。単に彼は自分の体を心配してくる終焉に、環境の改善を提案しただけであって、それを採用してもらおうとは思ってもいないのだ。
こんな奴隷の為に時間を費やしてしまうなど、勿体ないにも程がある。
――そう決め付けて、彼は終焉からそうっと視線を逸らした。大して気に留めなくてもいい、というノーチェなりの意思表示のつもりだ。
しかし、終焉は彼の言葉に「そうか」と納得したように呟き、暖炉を見つめる。
「そうか。あれは、暖める道具だったのか」
「――…………」
ぽつりと呟かれた言葉に男の無知を垣間見た気がした。何気なくノーチェが横目で終焉の顔色を窺うと、男はぼんやりと暖炉を見つめたまま瞬きをひとつ。どこか寂しげに遠くを見つめるような瞳が僅かに細められる。
この人にも知らないものがあるのか、と彼は小さな驚きを覚えた。
普段の終焉の口振りや、態度は「知らない」ことを知らないと言いたげなものだ。料理に始まり、掃除や街中の道筋。季節毎の旬のものや、どこの店で何を取り扱っているのか、など日常的なことは熟知している。
それどころか、本棚に収納された本の内容は殆ど覚えてしまったと言わんばかりに、時折何がどんな物語なのかを彼に説明して勧めるのだ。
その様子を見る度にノーチェは終焉を「完璧な人」だと思うようになっていた。失敗も挫折も味わったことがない。奴隷である自分とは全くもってかけ離れた存在なのだと、それとなく一線を引いてしまうほどだ。
この人は何かを失敗したこともないんだろうな――なんて、何度羨んだことか。怒られることも、殴られることも、見放されることも、ないのだろうと勝手に決めつけていたのだ。
――それも、以前見てしまった「夢」を見て以来、思い過ごしだったのかと不意に思うことがあった。
「……あれに、薪を入れて、火つけて……そしたら暖かくなる。少なくとも、この部屋は」
二階はちょっと分からないけど――そう説明を口にすると、終焉は小さく頷きながら「そうか」とだけ答える。
「ではあれは他の場所に移そう。ノーチェはまだ使うか? 私は使ったことがないので観るつもりは毛頭ないが」
そう言って指を差した先にある黒い電子機器を見ながらノーチェに語り掛け、彼の反応を窺う。ノーチェは終焉の言葉に考え込むような仕草を取ってから、控えめに首を左右に振った。
確かに退屈であれば目を通すが、今の彼にとっては何もかもが現実離れしたもののように思えてしまう。それを娯楽と認識することができれば、卑屈になって何もかもを羨む思考に陥ってしまうのだ。
そんなことに時間を費やすよりも、現家主である終焉の手伝いをするか、男の所持している本を読むことに没頭した方がマシだった。
外の世界が自分とはかけ離れすぎている。その現実をまざまざと見せつけられるよりも、終焉と同じような時間を過ごしているのは有意義であると思えた。
――そう思えてしまうことに多少なりとも疑問を覚えてはいるが――生きていることに支障はない。ちらりと終焉の反応を窺えば、男は「じゃあ動かそうか」と白いシャツを捲り上げる。
「…………けほっ」
その直後、終焉に声を掛けようとしたノーチェの口から出てきたのは、やはり渇いた咳だった。
口許を押さえ、控えめに繰り返される咳が止まるのを終焉は待っていた。何せ、誰よりも愛してやまない彼が何かを話そうとして唇を開いたからだ。彼も彼で、口許を押さえながらも男の袖口を指先で小さく摘まんでいる。
――そして、男はノーチェの咳が止まるのを確認すると、彼に気が付かれないようこっそりと息を吸って、「どうしたんだ」と彼に問い掛けた。
「……俺がやる……」
袖を捲り、自らの手で模様替えをしようとする終焉に、ノーチェはひと呼吸置いてから男に告げる。力仕事の類いなら自分がやると言って、じっと男の顔を見上げた。ほんの少し、驚きを覚えたように瞳が揺れたのが分かる。体調が悪いくせにこいつは何を言っているんだ――そう言いたげな瞳だ。
「ノーチェ」
それを裏付けるように終焉は彼の名前を呟いた。言葉のあとに「お前は何を言っているんだ」なんて言いそうな口振りに、堪らずノーチェ自身も僅かながらに眉を顰める。首輪の効力が多少弱まってもう半年は過ぎた。そのお陰か、気持ち程度なら感情を表に出すことができている。
――とはいえ、それも本当に「よく見れば」の話ではあるが、男には何の関係もないようだ。
普段とは打って変わって引く気のないノーチェに、終焉が彼と同じような表情を浮かべた。器用に片眉を動かし顔を顰めて、自分がいかに彼の言動に対して不服であるかを示している。彼が眉を顰めることがなければ「何を言っているんだ」と確かに紡いでいただろう。
――だが、今回ばかりはノーチェも引くつもりはなかった。
「……体、動かした方が温まるし……こういう力仕事は得意」
通常なら彼は終焉の圧に根負けして渋々折れてしまうことが殆どだ。そうすることで円滑に事は運び、余計な疲労も気遣いも背負わずに済むからこそ、彼は今までそうしてきた。――そうすることしか能がないと、思い込んできたのだ。
しかし、終焉を始めとしたある一定の人間に悉く奴隷であることを否定され、今までの行いが間違いだと思い知らされてしまう。
ノーチェは奴隷ではない。〝ニュクスの遣い〟の一人であり、ヴランシュの姓を持つ一人の人間なのだと。
その意志に従うべきならば――自らの意志で物事を進めようとすることは、間違いではないだろう。
――彼の言葉に終焉は顰めていた眉を戻すと、ゆっくりとノーチェから視線を逸らす。ノーチェの言う「体を動かすこと」も、「力仕事が得意」という事実も、決して間違いではない。男が知るノーチェは確かにそういった人間だった。
酷く眩しく、誰よりも好戦的で、可愛げがあって――今も昔も、愛しいことこの上ない。
終焉はふう、とあからさまに溜め息を吐いて、再びノーチェを見やった。咎められるかと思い、ノーチェは一度だけ肩を震わせたが、男が僅かに口許を緩めて困ったように微笑んだと思うと、体の強張りがなくなる。
「そう、だな……やはり過保護になっているようだ」
失笑気味に、自虐的に言葉を紡ぐものだから、ほんの少しの違和感が彼の胸を掠めた。
――それでも終焉は気を取り直すよう、首を左右に振ってからほう、と息を吐く。重い荷物を下ろすような深い呼吸に、彼は首を傾げた。
「……よし。ノーチェの力を貸してくれるか? 一人でも問題はないが、二人でやる方が楽だろうし」
時間が余れば甘いものも作れるしな。
終焉がそう言うとノーチェは頷いてソファーから立ち上がる。その際にほんの少しだけ寒さを感じたのか、小さく腕を擦りながら再び口許を押さえた。けほけほ、と渇いた咳が洩れる。
「…………ただし無理をするのはなしだ」
「…………ん……」
咳を溢したノーチェの心配をする終焉を他所に、彼はぐっと腕を捲り上げた。