夜と黒と訪れる悪戯

 夜道を歩くこと数十分。月が高く昇り始めて、足元の地面を淡く照らす。屋敷が見えてくるまでほんのり雑談を交えながら歩く帰り道は、行きよりも遥かに短く思えた。
 欠けた月が綺麗だとか、月明かりの下だとノーチェの髪が輝いて見えるだとか、終焉は月のことばかりを話題にしてくる。それは、恐らくノーチェが〝ニュクスの遣い〟であるからなのだろう。
 思えばノーチェの一族のことはあまり知らないな、なんて言って、終焉は彼の頭を撫でる。優しい手付きと僅かに綻んだように見える顔付きに、綺麗だなんて思ったのは秘密だ。

 あまり知らないだなんて、どの口が言うのだろうか。男は一族が物理か魔法に分かれることと、その力の便利さから奴隷一族であることを知っている。最早ノーチェ自身が教えることなど無いに等しい。
 どこか惜しそうに離れる手を目で追いながら、ノーチェは終焉の半歩後ろをついて歩く。
 夜に溶けそうなほど黒い髪が風になびく度に、髪質の違いを思い知らされる。ノーチェの髪は癖が強く、ところどころ跳ねているのだが、終焉の髪はまっすぐに伸びたままだ。髪の長さも関係しているのだろうが、今以上に長い自分の髪など想像もできやしない。
 これはきっと、生まれ持った天性なのだと彼は何気なくそれに触れる。

 一度終焉が不思議そうに顔を動かしたのが分かった。
 ――しかし、終焉は何も話すことはなく、ノーチェに触れられたままゆっくりと歩を進める。

 足取りが重く感じるのは、この時間を楽しんでいるからなのだろうか――。

「着いたぞ」

 夢中になって終焉の髪を指先で弄んでいる間に、屋敷へと辿り着いたようだ。不意に投げ掛けられた言葉にノーチェは肩を震わせたあと、咄嗟に髪から手を離す。
 腰よりも長く伸びた黒髪が物珍しかったのだ、と言い聞かせながら、終焉が屋敷の扉を開けるのを見守った。

 きぃ、と扉が開く音を聞きながら終焉の背中を見守っていると、ふと裾を引かれたような感覚がした。
 思わず後方へと視線を向けるが、動物がいる筈もなく。少しの気配もしていなかったのだから気のせいか、と思う頃に男が「入っておいで」とノーチェに呟く。
 「ん」なんて言葉を洩らし、ノーチェは屋敷へと足を踏み入れた。

「うっ……!?」
「――っ!」

 ――瞬間、ノーチェは足が縺れるかのように前のめりに倒れる。

 彼を招く姿勢で扉を開けていた終焉は、反射的にノーチェへと手を伸ばす。
 倒れた先に壁があるわけではない。反射的に前へと手を出しているが、片足先にある小さな段差に手をついて怪我をしかねない――。
 なんて懸念した矢先、ノーチェの腹部に終焉の腕が回される。咄嗟とはいえ確かに支えるために差し出された腕だ。思ったよりもしっかりとしていて、彼の体は床に叩きつけられずに済んだ。
 「大丈夫か」と呟かれる言葉にノーチェは「うん」と呟く。何事もなかったかのように彼を起こして、終焉は扉を閉めた。

 パタン、と音を鳴らして閉まる扉を後目に、ノーチェはほう、と安堵の息を吐く。下手に怪我をして男に心配されることがなくてよかったと、それとなく思うのだ。
 それはよかったと終焉は言葉を溢しながら靴を脱ぐ。冷たい風が吹いていた外よりも、屋敷の中は温かい。当然と言えば当然なのだが、その温かさが当たり前のように嬉しかった。
 彼も終焉と同じように靴を脱ぎ、丁寧に揃えて置く。何か違和感があったような気がして、何気なく躓いた足をそうっと撫でる。

 躓いた、と言うよりは、何かに掴まれたような気がして仕方がなかった。

 収穫祭の日には本物が交ざる――なんて言葉が不意に彼の脳をよぎる。夜ももう更けてしまって、空には雲と、星がぽつぽつと浮かんでいる。幽霊なんてものが出てくるには打ってつけの時間だ。
 ノーチェは特別幽霊の類いなど信じていなければ、怖いと思う節もない。最も苦手とするムカデが眼前に現れない限りは、平常心を保っていられる。
 ――だが、悪戯をするように体に直接手を出されるとなると、話は変わってしまう。
 ノーチェではなく終焉が。
 彼を大切にするあまり、ノーチェが何らかの原因で傷付くのを男は嫌がっている。万が一怪我などしてしまえばどうなるかは、彼にも分からないのだ。

 そうっと裾を捲り、ノーチェは自分の足首を見る。終焉と出会った頃よりも遥かに見た目もよくなった足には、痣や擦り傷などの外傷はない。
 ひとまず余計な心配は掛けさせないだろう、と思わず安堵の息が洩れる。ほう、と吐いて、ゆっくりと立ち上がってから終焉の後を追う。
 気が付けば男は音もなくリビングの方へと歩いていて、舞い上がる髪を軽く手で払っている。
 鬱陶しいなら切ってしまえばいいのに、なんて思いながら傍に駆け寄ると、「また転ぶぞ」と言葉を投げられた。歩いたことによる足の疲れでも懸念しているのだろうか。

「……転ばない、平気」

 終焉の言葉が自分を子供扱いしていることだと気が付いて、彼は思わず反論を口にした。無意識のうちに唇を尖らせて、終焉と共に部屋の奥へと向かう。リビングを越えた先のキッチンにある冷蔵庫を開けて、昼頃に作っていた洋菓子達を男は取り出す。

 夜なのに甘いものなど口にしてもいいのだろうか。

 ほんの少しの躊躇いと、葛藤。ノーチェの気も留めず、終焉は丁寧にラップしていたクッキーを食べて、舌鼓を打つ。相変わらずの出来映えに誇れるものがあるのだろう。満足げに目を閉じたあと、皿をノーチェに差し出す。
 食べてもいいよ、と言われているような様子にノーチェは迷った。迷って――そっと手を伸ばす。昼間に見た奇抜な色ではなく、ほんのりきつね色に近い、プレーンのクッキーだ。
 終焉ほどの甘党ではないが、やはり男の作る「甘いもの」は美味しい。終焉の手料理なら嫌というほど口にしてきたノーチェが、飛び抜けて美味いと思えるのが、俗にいう「甘いもの」だ。
 終焉自身が甘党だからなのか、それとも別の理由があるからなのかは分からない。

 しかし、他の手料理とは異なった拘りがあるのは、口にすれば分かること。一口頬張っただけで鼻を擽る香りと、口いっぱいに広がる芳ばしさ。時には花が咲くように甘味だけが口内を踊る感覚は、何とも言えないもの。
 流石の彼はそのまま食べ進めれば、飽きを覚えてしまうのが勿体無いところではあるが――。

 ――なんて思いながら頬張って、ふと終焉を見上げる。
 視線の先にいる男はノーチェがクッキーを口に入れたのを見て、彼に背を向けた。透明なラップを丁寧に巻き付けてから、洋菓子の盛り合わせを持ってキッチンを出る。
 何だか違和感があって、徐に終焉の後を追うと――不意に気が付いたのだ。

 甘いものに関しては、あまり美味しいか聞かれないのだ。

 余程の自信があるのか、それともまた別の理由か。生憎ノーチェには判断ができない。けれど、美味しいと思えるのだから、気に留める必要はないのだろう。
 もそもそと、口の中の水分がなくなるのを感じながら、彼は終焉の傍へと歩く。
 街を見に行く前に夕食と入浴を済ませた体は、少しずつ疲労を訴えてきている。重くなりつつある瞼に少しでも抗おうとするが、体の重みは寝具に横にならなければ取れなかった。

 「そろそろ眠ろう」――間違いなく終焉もそう呟く筈。夜も深い時間に煩く鳴った鐘の音から、もうどの程度時間が経ったのだろう。目を擦り、空になった口を大きく開けて、欠伸をする。
 目尻に涙を溜めながら、男に寝る意思を伝えようとした。
 ――そう気が抜けかけたときにまた、足が縺れる。
 ――いや、足首を思い切り掴まれたような気がした。

「わっ……!」
「――!」

 眠気覚ましにはいい刺激にはなったが、悪く言えば肝が冷えたというべきか。
 ノーチェの異変に気が付いた終焉は、手早く彼の方へと体を向けると倒れてきた体を咄嗟に抱き寄せる。未だコートを着ている所為か、普段よりも終焉の冷たさを感じなかった。
 無事か、と降り注いでくる声にノーチェは小さく頷く。それが男の体を伝わって、ノーチェの安否を確認できた終焉はほっと安堵の息を吐いた。

 安心をする終焉を他所に、ノーチェは僅かに顔を顰める。

 先程から頭を掠める違和感が少しずつ形になっているような、胸騒ぎが胸に募る。疲労にしては足と足が絡まるような感覚もないし、床や絨毯に躓くような失態もない。
 あるのはただ終焉に向かって転んでしまったという羞恥心と――、右足の奇妙な痛みだった。
 無事だと答えた手前、ノーチェは終焉に自分の異常を告げるべきかを悩む。
 ゆっくりと終焉の手で体勢を立て直され、頬に手を添えられて顔色を窺われるのも慣れてしまった。男の顔は相変わらずの無表情だが、その顔に心配の色が確かに見受けられる。赤色の瞳も威圧感はあるが、ほんの少し柔らかく見えるのだ。
 そんな状況で足の痛みを黙っていれば、終焉は何を思うだろうか。

「…………」

 じっと終焉の顔を見つめていると、終焉は不思議そうに首を傾げてノーチェを見る。何かを言いたげな彼を気遣って言葉を待っているようだが、ノーチェは何も言わずに視線を下げる。
 一思いに言うのが楽だとは思うが、告げたあとの面倒を考えてしまうと言葉が詰まる。喉の奥に塊が留まっているような気味悪さ。息が詰まるとはこの事だろうかと悩んでいると――終焉が、ノーチェの足元に視線を落とす。

「――捻挫でもしたか?」

 一目見ただけで何かを察したような言葉に、ノーチェは驚きすら覚えた。観察することに長けているのか、それともノーチェの様子から全てを把握したのかは分からない。
 彼はただ、その場に屈んでスラックスの裾を軽く捲る終焉の行動を見つめていた。

「――…………」

 ――ふと、温かかった屋敷の中が冷たい風に晒されたように、冷えたような気がした。
 思わず腕を擦り、寒いなどと声を洩らす。
 少しも動かない終焉の様子が気になって、腕を擦りながらノーチェは顔を覗かせた。終焉の頭があるが、軽く向きを変えてみれば足首も何とか見られる。
 動きを止めるほどの何かがあるのだと、彼は緊張の面持ちでちらりと見やった。
 ――そして、固まる。

 足首には薄く、青く、何かに掴まれたような痕跡が残っていた。

「ぅえ、な、何、これ……」

 先程まではなかった筈の痣に、ノーチェが目を丸くする。この屋敷には終焉やノーチェの他に、他の住人などいない筈だ。加えて彼らの足を狙って掴める人間など、近辺では見たことがない。
 そもそもの話、ノーチェが屋敷に来てから半年が経っているが、そういった現象などに見舞われたことがない。
 つまり、これを引き起こしたのは――、話に出ていた「本物」だ、という考えに至る。

 唐突に刻まれた足首の痣に背筋が凍る。先程から体感温度がどんどんと低下している感覚はあるが、それとは別の悪寒が背を這うのだ。
 それはまるで、自分の背後から寒気が押し寄せてくるようにじわじわと、追い詰めてくるようで――。

「……もう、眠ろうか」

 ――不意に囁くような言葉に、彼はハッと意識を取り戻す。
 言葉と共に終焉はゆっくりと立ち上がる。その度に、背中を這っていた悪寒が退くように、緊張の糸が緩む。
 緊張から変な考えをしてしまっていたのだろうか。ほっと息を吐く頃には妙な汗と、やたらと脈打つ鼓動が酷く気になった。下がる体感温度よりも、自分の異変に嫌悪さえ抱く。
 額や鼻の頭に滲む季節外れの汗を袖で拭い、ノーチェは「ん」と返事をする。足に違和感はあるが、痛みは引いていて、歩けるようにはなっているだろう。

 それよりも彼の好奇心を刺激したのは、やけに静かになってしまった終焉と、周りの空気だ。
 夏の季節には終焉の近くにいることで体温が下がる、という現象が起こっていた。屋敷内の体感温度が下がったような感覚は、恐らく男の影響で説明がつくだろう。
 ただ、夏場であった頃とは決定的な差があり、ノーチェは僅かに眉を寄せる。周りの空気がしんと静まり返るほどの感覚は、どこか懐かしささえも感じる。
 ――しかし、それが何なのかは、思い出せなかった。

 ゆるりと伸びた終焉の黒髪が、隠していた白い肌を露わにする。漸く表情が確認できると思った彼は、恐る恐るといった様子で男の顔色を窺った。心配か、それとも何かに対する憤りか。
 どの感情でも、ノーチェの身をやたらと案ずることには変わりはないのだろう。余計なお世話が再び降り注いでくるのかと思えば、ノーチェの気分が僅かに沈む。
 心配されることが嫌なのではない。ただ、それなりの限度というものがあるのだ。彼はそれを気にしていたからこそ、怪我を負いたくはなかった。一度怪我を負えば、執拗な介護がまたやって来るのだから。

 ――そう懸念していたのだが、それは杞憂に終わる。