夜と黒と訪れる悪戯

 前髪の隙間からちらりと覗いた赤い瞳に、ノーチェの背筋が震えた。本能が逃げろと告げているのがよく分かる。――だが、足が動かないのもまた事実。
 この日、彼は初めて終焉が恐ろしいと思った。
 赤と金の瞳に宿るのは、明確な殺意。以前終焉がヴェルダリアと対面したときや、屋敷に〝商人〟達が攻め入ったときなんかとは比べ物にもならない。
 表情はないが、冷めた瞳の奥に強い怒りを湛えているのが分かる。
 普段の、獲物を狩るような鋭い眼光など、まだ可愛いものだ。

 ――そう思うほどに彼は男の殺意に押し負けていて、行き場のない手が服の裾を握り締める。
 頭の隅では分かっているのだ。終焉がノーチェに対して決して手を上げないことくらい。
 しかし、その理解を覆すほどの衝撃に――、彼の体が動きを止めてしまうのだ。

 終焉の顔を見上げたまま、ノーチェは微動だにしない。
 裾を握ったままの手には力が入り、爪が食い込んでいるのではないかと思うほど。数秒の間を置いて、忘れた頃にする瞬きの回数は格段に減っていて、彼の体が異変を訴えているのが見て分かる。
 ほんの一瞬、終焉と目が合った。大して長くもないそれが、数分にも及んだような錯覚を覚える。
 体の芯から凍らせてくるような強い怒りに、ノーチェは息を呑んだ。
 息を呑んで――ふと、何かを思い出しそうな気がしたのだ。

「あ……」

 俺は、これを知ってる。
 ――なんて思うと同時に、こめかみ付近がちくりと痛んだ。俗に言う偏頭痛と同じ、鋭い痛みだった。
 ノーチェが目を奪われている間、終焉は彼の隣を歩く。追い抜かし、扉の近くで立ち止まってから「おいで」と呟いた。
 声色こそ普段より低く、冷たいものがあったが、自分に危害を加えるものではないことは分かる。その証拠に今まで動くことをやめていた体は、枷が外れたように軽くなった。

「……ん」

 終焉の言葉に何も応えないのもどうかと思い、小さな返事を溢しながら終焉の元へと駆け寄る。視界の端――リビングのテーブルに、大皿に盛られた洋菓子の山を横目で見ながら。
 あれは何のために置き去りにされたのかを疑問に思いながら、ノーチェは終焉の後をついて行った。
 階段を上り、廊下に出てから洗面台に向かう。歯を磨いて用を足して、準備が終わったと男に告げれば、小さく頷いてから終焉がノーチェに与えた部屋へと歩く。
 この数分の間に交わされた言葉はなかった。後をついて歩くだけのノーチェですら、声を掛ける気にはなれずにいる。背中からも滲む強い苛立ちに、向けられている筈のないノーチェも体を強張らせてしまう。
 少しずつ恐れよりも緊張が上回ってきた頃、終焉が扉を開けるのが分かった。

「……今日はもう寝て、明日もまたいつも通り頼む」

 そう言葉を置き去りにするように呟いてから、終焉は部屋に足を踏み入れて布団を捲る。男の言葉に彼は返事を溢して、横になれと示す終焉に従って寝具に手を乗せる。
 ほんの小さな軋みのあと、横になって布団をかぶれば、終焉の目が漸く柔らかくなったように見えた。

 柄にもなく感情的になってしまったと男は呟く。それは、終焉にとっていいものではないからか、死ぬという事態には陥らなかった。死ななくてよかったと小さくぼやく表情は、あくまでノーチェの顔色を窺っているものだ。

 こんなときでもこの人は俺のことを考えるんだなぁ、なんて彼は思う。
 数ヵ月の日を跨ぎ、空だった本棚にいくつかの本を与えられる。何もなかった机には、退屈しのぎにと紙とペンなんて用意されて、身の回りが充実していく。
 ――どれもこれも全て終焉がノーチェの為に用意したものだ。
 男の言動は、ノーチェが中心に回っていると言っても過言ではない。そんな錯覚を覚えてしまうほど、自分を二の次にしているような印象を受けてしまう。

 ――この人にとって俺は、そんなに大事なのだろうか。

 自分が優遇される人間ではないと思う彼は、穏やかになりつつある終焉の顔を見て眉を顰める。その様子を見て、終焉は数回瞬きをしたあと、「どうした」と彼に問い掛けた。
 彼は、終焉が望むような回答を寄越さないことを、十分に承知しているつもりだ。
 例えば「どうしてこんなに優遇してくれるのか」と問えば、確実に「愛しているから」という辺鄙へんぴな回答が返ってくることが想像できる。
 それは、ノーチェが欲しいと思う返事ではない。聞けば彼は訝しげな表情を浮かべて、布団の中へと潜り込んでしまうのだろう。

 そんなことが起こらないよう、ノーチェは何を訊こうかと思案を繰り返す。直接的ではなく、回りくどい質問を投げても同じ返事が来そうで、酷く頭を悩ませてしまった。
 ――その分今まで何とも思わなかったそれが、やけに気になってノーチェは終焉の目をじっと見つめる。男は不思議そうに小さく首を傾げていて、たおやかな黒髪が僅かに揺れた。

 そもそもどうして俺のことを愛しているんだろう。

 どうして疑問にすら思わなかったのか。一度気になってしまったそれは、少しずつ存在を主張する。寧ろ何故今までに疑問に思わなかったのかが不思議なほど、彼の思考は終焉が向けてくる好意に埋もれていった。
 自分のどこが好きだとか、どうしてそんな感情を抱くのかだとか、いくつもの似たような疑問が次々と浮かぶ。その好意に何かを返すべきなのか、応えるべきなのか、正しい選択を選んでもらおうかと問いを選ぶ。
 男にとって「好き」と「愛」の違いさえも訊いてしまおうかと、唇を開いて――ふと、言葉を詰まらせてしまった。

 暗闇に慣れた夜の瞳が終焉の向こうを見つけてしまう。
 満たされ始めた本棚から、何故か二冊、本が溢れ落ちたのだ。
 静けさに包まれていた部屋は、バサバサと本が落ちる音に空気を切られる。同時に穏やかに見えていた終焉の表情は一変して、再び強い怒りの色を湛え始めた。

 静かに燃える炎が少しずつ量を増していく。
 ――そんな錯覚を覚えるほど、男の顔が――まとう雰囲気が、別物になるのに彼は気が付いた。

 窓は締め切っている筈なのに再び寒気を覚える。まるで冬のようなそれに、体を押さえ付けられている感覚を与えられ続ける。深い闇の中で、見えない何かに手足を拘束されているようだった。
 光の届かない黒の領域を支配しているのは、この人だろう。
 そう結論に至ったとしても、やはり彼は身動きのひとつも取れなかった。

 何故、ノーチェの身の回りでおかしな現象が起きているのか。
 その理由は、終焉が呟く一言で漸く理解できたような気がした。

「――お菓子をくれなきゃ悪戯するぞトリック・オア・トリート、か……」

 独り言のように溢れ落ちる言葉に、ノーチェはハッとする。
 決まり文句を言われたわけではない。俗に言う「本物」を、視野に入れたわけでもない。
 しかし、彼はお菓子を用意しなかった。それが、悪戯をされる理由になっているのだ。

 こんなことがあってもいいのだろうか。原因が分かるや否や、僅かに自由が利くようになった体に鞭打って、ノーチェは「あの、」と終焉に声を掛ける。

「俺……俺も、何か……」

 用意した方がいいのか、と問おうとした途端――

「……クソガキ風情が。調子に乗るなよ……」

 ――今までに聞いたことのない声色で、終焉が何かに語りかけた。
 男の口振りからして、そこにいる・・のは子供が一人。菓子を用意していないノーチェに対して、悪戯を繰り返したようだ。
 性別こそは分からないが、終焉の態度から見て男に向けるものだろう。
 確かな怒りを含んだ声はあまりにも低く、彼は小さく肩を竦める。本当に怒っているのだと、極力目を合わせないように視線を逸らして、口を噤んだ。こういうときは落ち着くまで余計なことはしない方がいいと、潜在意識が告げている。
 そうすれば数分で治まる筈だと思って――ノーチェは瞬きをした。

 まるで、何度もその現場に出会したことがあるかのような対処に、ノーチェ自身が驚きを覚える。つい先程にも同じような既視感を抱いた彼は、再び痛み始める頭に小さく顔を顰めた。
 ――そんな彼に何を思ったのか。終焉はゆっくりと手のひらを頭に乗せたあと、「……もう平気だ」と言い聞かせるように言う。

「これは私がもらっていくから、安心しておやすみ」

 ――そう言って軽く頭を撫でてから、男は惜し気もなくその場を離れるように歩いていった。
 怖がられていると思われたのだろうか。
 理由もなく咄嗟に引き留めようと、ノーチェは口を開いた。言う言葉は特に見つからないが、ただ「待って」と言おうとしたのだ。
 待ってもらって、訳の分からない弁明を聞いてもらいたかった。
 ――しかし、体を押し付けるような異様な眠気に、彼の意識が遠退く。

 暗い部屋の中で最後に見たのは、仄かに苛立つ、終焉の背中だった。