夜の質疑応答

 新緑の香りが目一杯に広がる浴室に、感嘆の息を吐く。屋敷では味わえない自然の香りに普段は機能しない感動が、ノーチェの心を動かす。

 すっかり夜も更けて出来合いの食事を済ませた二人は、一息吐いて風呂の支度を始めた。――正確にはリーリエが彼を風呂へと進めたのだ。
 家主よりも客人を優先させるのは終焉と同じだと思いながら、彼は頷きをひとつ。一言「どうも」と言えば、女は笑いながら「いいえ~」と手を振っていた。

 感覚的な話をするのなら、リーリエもまた、ノーチェのことを奴隷として見ているわけではないようだ。寧ろ終焉よりも対等に、まるで友達のように接してくるものだから、彼の対応も雑なものになってしまう。
 このままでは万が一彼らと別れた際に、〝商人〟達の反感を買ってしまうことになる。
 このままじゃ駄目だと思いながら、ノーチェは説明を受けた浴室へと足取りを進めた。木の壁が物珍しくて、定期的に辺りを見渡しては、ほう、と息を吐く。

 あの人もここに来れば良かったのに――と、何度脳裏を掠めただろうか。街の空気とは全く違う空気が屋敷の周りにあるとしても、森の中にある小屋の空気と比べれば新鮮さは一目瞭然。新鮮な空気を取り込めば取り込むほど、気持ちが新しくなる。
 この感覚を、彼は終焉にも味わってほしいと思っていた。

 浴室の扉はガラス製の扉で、木造ではないのかと首を傾げる。造りに関して特に文句を言う気はないが、どこもかしこも木造だけではないことに意外性を感じた。どうせなら扉も変えればいいのに――なんて言葉を喉の奥に押し込んで、浴室の扉を開ける。
 部屋の中に充満していた湯気が一気にノーチェへと押し寄せた。肌寒く、冷えた身体にはその湿気すらも温かく、肩の力がすとんと落ちる。中の造りも普通のものと何ら変わりのない。ただ、窓から覗く木々の影と、軽く隙間から吹き込んでくる香りが、真新しく思えていた。
 ――ここに来て、再度屋敷の造りが良いことに気付かされる。
 白い浴槽にタイルの床。シャワーに水道。――どこもかしこも普通のもので、ほんの少しの懐かしさが胸を掠めた。

 両親は、一族は無事だろうか。自分とは同じ末路を辿ってはいないだろうか。

 一抹の不安を抱きながらシャワーを浴びて、頭や胴体を洗う。ほんの少しの甘い香り。湯船には入浴剤が入れられているが、透き通りながらも深い緑色に彩られている。
 スキムミルク以外の湯船などいつ振りに入っただろうか。ルフランに来て以来、向こうの見えない湯船に浸かっていた所為か、体を沈めても見えている体に、僅かながらも違和感を覚えてしまった。

 湯加減は丁度いいが、どうにも落ち着かない。心身を癒やすであろう新緑の香りが全く意味を成さず、ノーチェは湯船に浸かって数分で咄嗟に立ち上がった。傷跡を見る度に己の無力さを痛感してしまうようで、居心地が悪くなってしまったのだ。

 湯船から出て用意されたタオルを手に取る。当たり前の話だが、屋敷のものとは全く別の香りに新鮮さを見出した。肌触りは柔らかく、これといって違いはない。丁寧に体を拭いて、終焉が持たせてくれた一式の服を身に付ければ、普段通りの自分が現れた。
 今までとは異なる環境に体や思考が追いついてこないのがよく分かる。

 終焉が持たせてくれていた服は、いつも使っている柔軟剤の香りが染み付いている。何ら違和感のない慣れた香りだ。それこそ自宅にいるような安心感を覚えて、周りに取り残されて浮いている感覚が拭えた。
 風呂は温かかった。小屋に慣れていれば気を抜いてしまうほどの心地よさだ。
 ――だが、彼はそれ以上に終焉がいる屋敷に体が慣れてしまっているのだ。

「随分早いのねえ。あんまり居心地良くなかった?」

 扉だけで仕切られた浴室を抜けると、リビングでリーリエがテーブルに肘を突いてノーチェを見た。木々の香りに混ざる芳ばしい香り――紅茶ではないことは確か――に、多少の食欲が掻き立てられる。
 いや、気持ちよかった。――素直にそう言って女が座る席の向かい側へ歩くと、テーブルにはマグカップがひとつ。芳ばしい香りがするのはリーリエのマグカップからで、覗き見れば暗い色の液体が入っている。

 これは――そう、コーヒーだったか。
 終焉との御茶会では一向に目にすることのない飲み物に視線が釘付けになっていると、女は小さく笑って「少年も飲む?」と彼に問い掛けた。

「エンディアのところじゃ全く見かけないでしょ。こんな苦い飲み物、飲みたがらないもの」

 そう言ってリーリエは席を立つと、カウンターキッチンへ歩く。戸棚から取り出したマグカップに粉末状のコーヒーを入れながら、「苦いのと甘いの、どっちがお好み?」と言う。
 生憎コーヒーを飲むことが少ないノーチェは、頭を悩ませながら「……程々」と呟いた。苦すぎても気が重くなりそうだが、甘すぎても胸焼けがしそうだと思えたのだ。
 そう、程々ね。女はそう呟くと、砂糖を適量加えてから、熱湯を注ぐ。コポコポとくぐもったような音が、キッチンからノーチェのいるリビングへと聞こえた。

 思えば隔たりのないキッチンを見るのは新鮮で、柔らかな明かりの下で作業をするリーリエに視線を奪われてしまう。
 何かを作る姿を見る視点が異なるだけで、こんなにも印象が違うのかと思い知らされてしまった。
 マグカップに熱湯を注いだ後、女は冷蔵庫へと向かって冷えたミルクをコーヒーへと注ぐ。何かを作る料理とは違って手際のいい様子に、できるものはしっかりとできるのだと思っていると、女がカップを持ちながら席へと戻ってきた。

「できたわよ~……あら、座りなさいな」
「……ん」

 差し出されたカップを受け取り、ノーチェは大人しく席に座る。椅子を引きずる音、そのあとにマグカップをテーブルに置く音。この人は酒以外にも飲めるものがあるんだ、なんて思いながらコーヒーを口にすると――僅かに体の動きが止まった。

 ――美味しい。紅茶とは違った風味が口いっぱいに広がって、苦味が押し寄せてくる。砂糖とミルクがその苦味を和らげているお陰か、胸焼けが起こるようなことは少しもなかった。
 リーリエの黒い液体とは違い、ミルクティーに似たような色合いのそれを、彼はちびちびと口にした。料理ができないとしても、飲み物を作る程度のことは十分できるようだ。

「あまり飲みすぎないで、残したっていいからね。眠れなくなるわよ」

 そう言ってリーリエは自身のコーヒーを口にする。中の液体が揺れる度、ノーチェの向かいから強い香りが漂ってくる。甘味もない、強い苦味のある香りだ。砂糖もミルクも入れていないのだろう。
 あの人が嫌がりそうだな、と何気なく思えば、コーヒーを飲んだあとリーリエは笑って「お話ししましょうか」と言った。
 風呂は入らないのかと訊ねると、女は言う。「自分は眠気覚ましを兼ねて、朝に済ませてしまうの」と。
 それに彼は「そう」とだけ呟いて、マグカップを置いた。
 外は暗く、小屋の中を照らすのは備え付けられた明かりだけ。聞こえてくるのは梟の鳴き声と、木の葉が掠れる微かな音だ。

 別に大したことじゃないんだけどさ。――そう言って話を切り出して、彼は問い掛けた。

「……あの人って、甘いもんの他に、何が好きなんだろう」

 ノーチェの言葉にリーリエが微かに笑う。
 大した内容でないことは知っていたが、いざ聞いてみれば面白かった、と言いたげの反応だ。試しに「何……」とノーチェが呟けば、女はテーブルに肘を突いて「何でもないわ、ごめんなさい」と言葉を洩らす。

「ふふ……そうね、あいつは自分のことを『化け物』だとしか教えてくれないものね」
「……そう……」

 その卑下するような表現にも何か理由があるのだろうか。
 女の呟いた「化け物」という言葉にノーチェは小さく眉を顰めていると、リーリエが言った。「基本は何だって口にできるのよ。ただ、子供舌なだけ」――と。
 それが彼の欲しがる答えになっているかどうか。些か疑問が残るが、彼はふぅん、と生返事を溢しながら頷いた。逆を言えば、苦かったり辛かったりしなければ、基本的には食べられるということだ。

 メモを取る必要――はないが、ノーチェは忘れないように頭の中に叩き込む。横からリーリエが「何か作る予定があるの?」と訊いてきたが、生憎そのような予定がない彼は首を横に振った。ただ知りたいだけ――そう言えば、何故だか女は嬉しそうに笑う。
 何だろうか。ほんの少しの違和感を胸に抱きながら、ノーチェは再び言葉を洩らす。

「……何であの人は、こんな奴隷の世話を焼きたがるんだ……?」

 首輪がついている奴隷など、こき使うに他ない筈なのに。
 ――そう呟くと、リーリエはコーヒーを一口。喉の奥に流し込みながらテーブルにマグカップを置いて、「そんなこと言わないの」と答える。

「誰だって好きな人が酷い目に遭っていたら、その分優しくしたいものよ。……いい? エンディアが好きな人のことを奴隷だ何だって言うのは良くないわ。それこそ怒られかねないもの」

 両手を組んで、終焉とは違った赤い瞳をリーリエは向けてくる。母親が子供に優しく言い聞かせるような言動に、ノーチェは思わず動きを止めてしまった。
 好きな人――その言葉に、くしゃりと思考が歪む。

「…………それ」
「ん?」
「……アンタは、あの人は俺のことが好きって言うけど、あの人は愛……愛してるって訂正してた。それって、何か違うんだろ……」

 もやもやと蟠りのようなものが胸に募る。名前のない感情が好意だと言うのなら、彼はそれを恩返しとして返すわけにはいかない。

 終焉はノーチェを決して甚振らない。嬲らなければ、見下すこともない。多少過保護な面があるような気はするが、ノーチェを対等な人間として見ている。
 その礼を返そうと思えば、なるべく同じようなものを返すのが礼儀だと、彼は思うのだ。

 彼の疑問に、リーリエは首を左右に振った。違うなんてことないのよ――そう言って、ノーチェを見る。

「エンディアは『好き』と『愛』を区別しているけれど、明確な違いなんて一切ないわ。強いて言うなら、対象が人間か、それ以外かって言うだけ」

 もっと言えば――それに恋愛感情が含まれているか否かっていうだけね。
 そう呟いて、リーリエはノーチェの顔色を窺うように見つめていた。ノーチェはぼんやりとその目を見つめ返しながら、僅かに目を伏せる。
 同じものを返すとするならば、彼も終焉を愛さなければならない。――その事実がノーチェから少しずつ、自信を奪っていく。相手は男で自分も男。いざ好きだという言葉に変えられると、考えていることが糸のように絡まっていく。
 誰かを好きになるって難しくないか――なんて思って、少しずつ表情が曇った。
 恋愛といえば自ずと肉体関係が引き寄せられる。体を重ね合わせる行為が脳裏をよぎって、思わず視線をマグカップへと落とした。

 あの人もそういうことがしたいと思っているのだろうか――。