そう思うと同時に、小さな吐き気を催した気がした。
俺には応えられそうにないなあ、なんて思っていると、ノーチェの思考を掻き消すように女が呟く。
「――私は、少年はもうエンディアのことが好きだと思うけどねえ」
彼の不意を突くように発せられた言葉に、ノーチェは思わず顔を上げて瞬きをした。「……何言ってんの」と咄嗟に言葉を口にすれば、リーリエは屈託のない笑顔を返す。同性愛に何の偏見も抱いていないような、清々しいほどに柔らかな笑みだ。
「あんた、好きとか愛とか難しく考えてるのね。そんなもの全部捨てちゃいなさいよ」
ノーチェの表情を見てか、的を射るような言葉に彼がポカンと口を開く。
リーリエ曰く、好きだの愛だのに「こうしないといけない」という明確な決まりはないようだ。
例えば傍にいるだけでもいい。日常に溶け込んで、同じ生活を送って、人生を謳歌する。行為など二の次。ただ、お互いが同じ気持ちを共有して、幸せだと思えればいいのだ。
万が一明確な言動を欲しがったのだとしたら、それに応えればいい。無理なら無理だと口にすればいい。理解ある人間ならばそれを受け入れられるが、理解がなければ破局するだけ。寂しいなどと思うかもしれないが――自分が傷つかないようにするには、最善の選択を選ばなければならないのだ。
そして、女はノーチェに問う。「エンディアが一度でもあんたに肉体関係を求めたか」と。
それに彼は首を横に振って、「全然」と答えた。それこそ本当にノーチェのことを愛しているのか、と問い掛けたくなるほどに、だ。
その理由を、リーリエはノーチェに告げた。
元々終焉はそういった肉体関係を求めていない上に、感情を表に出してはいけないという制約の所為で、彼に対する好意を明確にはできないのだ。
幸せだという感情も、好きだという明確な想いも、全て抱くことは禁じられている。表に出せば最後――以前ノーチェの前で事切れたときと同じように、得体の知れない何かに殺されてしまうから。
――どうして森に住む魔女がそんなことを知っているのか、などという疑問は、ふらりと跡形もなく姿を消した。ノーチェに対する好意も「幸せ」の一部だと思うと、罪悪感が押し寄せてくる。抑揚のない愛を告げる言葉を、男はどんな思いで告げているのかと思うと、酷く胸が苦しかった。
何故このような感情を抱くのかは定かではない。好意から来るものだと言うのなら納得ができるような気がするが――もっと別の、何かが関わってくるような気がしてならない。
まるで、我慢を強いられ続けている終焉に、後悔が募っているようだった。
「――……あ……?」
不意にノーチェの頬に涙が溢れる。理由もなく、突発的なそれに彼は頭を悩ませる。
――まただ。屋敷に来て以来、不意に――それも音もなく涙を流してしまうことが増えた。ノーチェ自身に泣きたい、もしくは泣きそうという感情は湧いていないが、体が勝手に涙を流してしまうのだ。
彼は咄嗟に目を擦り、涙を拭う。得体の知れないそれは、一度拭えば跡形もなく消え去って、二度目を流すことはない。特別不便だと思っていることはないが――、不意に涙が出てきてしまうと心臓に悪いものがあった。
終焉から買ってもらった黒いシャツの袖で拭ったあと、ノーチェは「ごめん」と言った。何かをした試しはないが、相手を驚かせてしまったかもしれないことに対して、謝ろうという気になったからだ。
対してリーリエも特別驚いた様子もなく、「いいのよ」とノーチェに言った。その口振りはまるで、予期していた、と言わんばかりのものだ。
ただ何気なく、ちらりとリーリエに彼は視線を向ける。どうにもやり場のない罪悪感を募らせた、妙な笑みを湛えたままの女が、ノーチェを優しく見守っている。
「どうしたの」と何の気無しに問い掛けてみれば――女は小さく俯いたのだった。
「……何でもないわ。他に何か訊きたいことある?」
ふ、と顔を上げる頃には妙な表情をやめて、リーリエは再度ノーチェを見た。終焉ほどではないが、リーリエもまた隠すのが上手い。一気に塗り替えられた表情に、ノーチェは小さな疑問を抱く。
そう言えばこの人も自分のことを知っているような口振りをするんだった。――その事実が気になって、問い掛けようとしたが、口を開くことはない。
はぐらかされるのは明白だからだ。彼らはノーチェのことを知っているような態度を取るが、それに関することは一切口にしようとはしない。その頑なさから、自分との関係性も何らかの理由で告げられないのだと、彼は結論づけた。
だからこそノーチェはもっと別の――、今まで気になっていたことをリーリエに訊く。
「……あの人が街で嫌われてるのと、『化け物』って言われるの……何か関係あんの?」
募り募った疑問は真っ直ぐに、リーリエと向けられた。女は「そうねぇ」と口を溢すと、コーヒーを飲んでから唇を開く。
ルフランには古くから伝わる話がある。
どこからともなく闇とともに現れた大きな獣。黒に身をまとい、ありとあらゆるものを喰い散らかして、世界を滅ぼす獣がいると。恐ろしいほどの空腹に苛まれ、何を腹に収めようとも留まることを知らず、世界が壊れるまで〝食事〟をやめることがない。
それは機が熟すまで人間として鳴りを潜め、時が来れば獣として世界を終焉に導く一頭の狼。
ルフランの住人はそれを〝終焉の者〟と名付けた。美しい街を滅ぼす害悪として、軽蔑の意を込めて。
黒は終焉の象徴。恐ろしいものを呼び寄せてしまう、悪の象徴だ。
その事実から街の住人は黒を身につけることはなく、黒を忌み嫌う傾向がある。決して溶け込むことのない色を、一目で理解できるように。抵抗する術を持たない住人が、自分の身を守れるように。
――そんな中、唯一魔法を扱えるとしてできた組織が〝教会〟だった。
〝教会〟は白に彩られた聖なる色。終焉に対抗できる唯一の術として、魔法を扱える人間が集う場所になっている。街を守り、悪を退けるものとして、周囲から絶対的な信頼を得ているのだ。
ルフランで黒を身につけていたのは、終焉のみ。
だからこそ男は嫌われ、〝教会〟からは敵として――或いは化け物として見られているのだ。
リーリエの話が一段落してから、ノーチェは緩くなったコーヒーを少しだけ飲んだ。二人を照らす明かりが一瞬だけ消えたような気がしたが、すぐに白さを取り戻す。
リーリエやノーチェが黒を身につけているとしても敵視されないのは、終焉が最も危険なものとして認識されているから。或いは――自分自身を〝終焉の者〟と称して、覆し難い実績があるからだろう。
苦味が舌の上を転がって、食道を通った。美味しいと感じたそれも、温くなるとあまり美味しくはない。マグカップをテーブルに置いて、口許を拭うノーチェは何も言わずにいた。
終焉が自分を化け物と称する理由は分かった。以前〝教会〟が話していた、終焉を敵視する理由も以前よりは理解できた。
――しかし、ノーチェはそれを受け入れる気持ちにはならなかった。
ノーチェが見続けてきた終焉は人間だ。獣に化けることもなければ、ありとあらゆるものを喰らい尽くす姿も見たことがない。
ノーチェと同じ食卓に着いて、食べるものは違えど調理されたものを嬉々として受け入れていた。味覚に明確な違いがあるかは分からないが、決して彼を裏切るような言動は取らない。買うものも食事も、限りなくノーチェと同じものだ。
それだけで終焉が化け物ではないという理由づけができるわけではないが、化け物であるということを受け入れる理由にもならない。
同じ時間を過ごす以上、彼は終焉をあくまで「人間」として見続けた。
――ノーチェの不服な気持ちが伝わったのだろうか。リーリエは一息吐くように顔を俯かせると、「よかった」と呟く。
「少年がエンディアを化け物と認識していなくて」
それだけでもう安心したわ。
そう言ってリーリエは席を立ち、マグカップを手に取った。
「……?」
「不思議そうな顔しちゃって、何? もう十一時よ。私流石に眠いわぁ」
くぁ、と大きな欠伸を溢してリーリエはノーチェのマグカップも手に取った。そのままキッチンへ向かい、シンクにカップを置く。そうだったのか、と彼は言葉を洩らして、席を立った。
思いの外話に夢中になっていたことに驚きながら、彼は女の後を追う。収納の扉を開けて、丸められた布団を持つリーリエの代わりにそれを受け取った。
しまい込んだにしては随分といい香りのする布団に、ノーチェの気分が解される。すると――彼もまた欠伸を溢した。思いの外眠気を覚えていたようだ。
そんなノーチェの様子にリーリエは小さく笑うと、「部屋がなくてごめんね」と彼に謝った。寝場所の確保は難しく、ソファーの上で眠ることになってしまうことを悪いと思っているようだ。
しかし、彼が受け取った布団は一式揃っている。枕や敷き布団、掛け布団が丁寧に丸められていて、どこで使えばいいのかと問えば女は言う。「万が一寝苦しかったら空いてるところに敷いて寝てね」なんて。
幸いなことに小屋の中は汚れもなく、寝転がったとしても汚いと思うことはないだろう。
それでもリーリエは「汚くてごめんね」と笑うものだから、ノーチェは首を横に振った。
「ここに来る前よりはずっとマシ……」
そう呟いてみれば、女は安心したかのようにくつくつと肩を震わせて笑う。
――笑みの絶えない人だな、と彼は頭の片隅で思った。
女はソファーの上を軽く叩き、埃を払ってノーチェに「どうぞ」と言った。赤黒い――わけではないが、小屋の色に馴染むような質素な色合いに、ほんのりと好奇心がくすぐられる。比べてしまっては失礼に当たるが――、座り心地や触り心地は屋敷のものの方が遥かに良かった。
ノーチェが自分の落ち着く体勢を探している間、リーリエは一度自室に戻ってから、再び彼の元へとやって来る。その手には一冊の本と、カンテラが握られていた。
「環境が変わると眠れなくなるかもだから」
そう言って、手に持っていた本をノーチェに差し出した。
表題はない。加えて、色も、絵も、文字も何もない。受け取って回し見るが、表も裏も、背表紙も何もかも黒一色に彩られた本だった。
「……これは」
ノーチェはこの本を一度目にしたことがある。不気味なほど黒く、無機質で、特別興味もそそられない黒い本。終焉の部屋や、ノーチェが使っている部屋の隣にある本棚にあったものと酷似している。
手に収まるほどの、文庫本のような大きさのそれは、結構な厚さがあった。
「〝黒の予言書〟って知ってる?」
彼が黒い本に気を取られていると、リーリエがぽつりと言葉を洩らす。どうやらこの本は〝黒の予言書〟というらしいが、彼には思い当たる節がなかった。
知らないと言って再び本を回し見ていると、女は「これね、」と話を続けた。
「結構偽物とかあって、見分けにくいんだけど」
「うん」
「エンディアのことが書かれている本よ」
――リーリエが紡いだ言葉に驚きを覚えたのを、ノーチェは痛感していた。
終焉について書かれているらしい、黒い本。それが本当なら、本棚にあった一面の黒い壁は、全て終焉について記されているものなのだろうか。
――だが、先程リーリエが告げたように、大半のものが偽物である可能性もある。
その中の一冊を、何故手渡してきたのか、彼は疑問に思った。
そんなノーチェの意思を見抜いていたのだろう。リーリエはノーチェと目が合うと決まったように笑い、「どうせまだまだ知りたいことがあるんでしょう」と呟く。
「これにはね、過去や未来のことはもちろん――現在に至るまでの内容が書かれていることがあるのよ。この本は確か、エンディアがこの街に来て間もないものね」
とん、と黒い表紙に赤い爪が載った指を乗せる。
話を聞くに、ノーチェに手渡された黒い本は、終焉の過去の出来事が記されているようだ。
〝黒の予言書〟は〝終焉の者〟についてよく記された摩訶不思議な本。全てのページが埋まっていることがあれば、白紙のものも存在している。中には現在進行形で記され続けているものもある――謂わば終焉の記録媒体だ。
本は終焉の心臓に最も近く、男の命を奪う方法すら記されているのではないか、とまことしやかに囁かれている。
ゆえに終焉を敵視する〝教会〟の人間達は、この本を求めていると言われているのだ。
「あいつがどういう生き方をしていたか知りたいでしょう?――でも気をつけて。あいつは本能的に、この本を嫌っているから」
読んだってバレたら怒られちゃうからね。
――そう告げたあと、リーリエはぼんやりと本を見つめていたノーチェの頭を撫でた。終焉と同じような手つきで、寝かしつけるような優しさが伝わってくる。
何気なくどうして撫でてくるのかと問えば、女は「あんたは頑張っているからよ」と一言だけ残した。
一体何をどう頑張っているというのだろうか。
具体的な理由を訊きたくとも、女は欠伸をしてからカンテラをテーブルに置いて傍を離れてしまう。「それ電気式だから、スイッチを入れたら点くわよ」――そう言ってから扉の目の前で一度振り返り、ノーチェに手を振った。
「おやすみなさい。また明日」
夜の挨拶も程々に、女は扉の向こうへと姿を消してしまう。
取り残されたノーチェは本を一度置いてから、ソファーの上に転がった。少しだけ狭い気がするが、硬い床や地面でないだけマシだという気持ちが宿る。
寒さもない。もちろん、理不尽な暴力もない。森の中というだけでいっそう暗闇が増しているような気がするが、〝ニュクスの遣い〟であるノーチェには何の支障もない。
――だが、環境が異なっている所為か、押し寄せていた眠気も程々に、次第に目が冴えてしまっていた。
普段飲まない飲み物を口にした所為もあるのだろうか――彼はうぅん、と唸りながら寝返りを打とうとした。
しかし、狭いソファーの上では寝返りもできずに終わる。
ソファーを動かして広さを確保してから布団を敷こうか悩んだが、リーリエの眠りを妨げてしまう可能性がある。小屋の主はリーリエだ。その女を起こしてしまうとなると、礼儀に欠けるような気がしてならない。
――けれど、目が冴えてしまっているのは事実なのだ。
「…………」
――ふと、彼の視界の端に手渡された黒い本が映る。それは、暗闇の中では溶けて消えてしまいそうなほど黒く、静かな本だ。
リーリエの思い通りに動いてしまうようで気が進まなかったが、ノーチェは体を起こして黒い本を拾い上げる。テーブルに置かれたカンテラを手に取ってから、明かりを点けて、再びテーブルへと置いた。
ソファーから離れ、布団をかぶりながら椅子を引いて席に着く。見れば見るほど読む気をなくしてしまうような、何の楽しみもない本だが――好奇心は確かに疼いていた。
本の内容は終焉に関するもの。特に、リーリエが手渡してきたものは、終焉がルフランに来て間もないものだという。
あの口振りからして、黒い本にはまた別の内容が記されていることがあるのだろうか――。
ノーチェは黒い本を持ち直し、表紙と思われる場所に手を伸ばす。緊張してしまっているのだろうか――胸の奥で心臓が小煩いと思えるほど、騒ぎ立てているような気がした。
穏やかな明かりが灯る下で、彼は本を捲る。
目に飛び込んできたのは――黒い、ページだった。