寝付けない夜と風呂上がりの男

 奴隷人生を強いられてきたノーチェにできることと言えば、自分を奴隷商人から奪い去り匿っている終焉の手伝いをすることだった。
 夜から一変、真新しい光に包まれた屋敷の中は眩しく、ろくに眠れていなかったノーチェは落ちようとする瞼を必死に抉じ開ける。目を擦り喉元に迫る欠伸を噛み殺してふわふわと漂う意識を懸命に奮い起たせようとする。時折頭を振るって意地でも起きようとするが、素直に落ちてくる瞼に従いたい欲が彼の胸に溢れる。

「……寝るか?」

 不意に問い掛けられた言葉にノーチェは首を左右に振って「寝ない」と言った。
 声がした方へ顔を向けると、シャツに黒いベスト姿の終焉が心配そうにノーチェの顔を覗き込んでいる。その顔に眠気のひとつもなく、彼は終焉を訝しげな目で見つめ、「……何でそんなピンピンしてんの……」と小さな声で呟いている。

 結局ノーチェと終焉は眠気がやって来るまでポツリポツリと話し合っていた。内容は他愛ない日常についてだ。眠れなくなってしまったノーチェができる最善のことを、無理のない範囲で行うこと。例えば――荷物持ちや料理の手伝い、掃除などの些細なことだ。
 彼は本当にそんなことでいいのかと終焉に問い掛けた。終焉は炊事洗濯、掃除などの身の回りのことは全て一人でそつなくこなす存在だ。たとえノーチェが手伝いなどしなくても生活には支障は出ないだろう。
 ――いや、寧ろノーチェが手を出すことで支障が出ると予想できるほど男は完璧だ。それは、バランス、色合い、美しさを全て上手く調和させ生けた花に「好きにアレンジを加えろ」と言われているようなものだ。流石のノーチェもそうすることに簡単には賛成できなかった。
 彼はそれを拒むようにもっと自分でもできそうなことを求めた。特に力仕事を得意――というわけではないが――とするノーチェは、自ら力仕事を終焉に強情る。奴隷としての労働が染み付いた今、肉体労働を強いられないなどまず有り得ないのだ。

 ――しかし、終焉は首を横に振って「そんなものを強請らないでくれ」とノーチェを説き伏せる。
 何度も言う通り終焉はノーチェを奴隷として扱いたくないのだ。彼の言う肉体労働――謂わば力仕事は、大概が常軌を逸した重労働ばかり。普通の人間であるならばすぐにでも潰されてしまうような肉体労働を彼は求めているのだ。

 それこそが自分の存在理由だと言わんばかりに。

 終焉はそんなノーチェの意識を変えたくて敢えて彼に手伝いをしてくれとは言い出さなかった。元より手伝わせる気などなかったのだが、ノーチェ自ら言い出すのなら無理に拒否はしないつもりだった。――過度な肉体労働を求めなければ。
 相手があくまで奴隷であることは重々承知していたつもりで、ノーチェが力仕事から離れられないと薄々気が付いていた終焉だ。体に合わない労働を求めるなら普段通り何もしなくていい、という旨を無愛想に伝えてやると、ノーチェが軽く顔を俯かせて「強情……」と小さく呟く。
 元々与えられるほどの力仕事など存在していないのだが、何もしないのは男として――一人の大人として――気分が悪かった。終焉が身の回りの手伝いで納得するというのなら、彼もまた納得せざるを得ないのだろう。
 彼はしぶしぶ頷くと、終焉は「そうか」と言ってから大きく欠伸をした。真夜中の二時などとうに過ぎているのだ。ノーチェ自身もどこか眠気を覚えてきたような気がして、部屋に戻ることを男に伝える。

「…………明日の朝からでいいのか?」

 ふと呟かれた言葉にノーチェは軽く考えるような素振りを見せてから、一度だけ頷いた。何故そう問われるのかが理解できず、眠たげな終焉の顔を見て首を傾げる。
 理由は痛いほど分かってしまった。

 キッチンの壁に立て掛けられた時計を見上げてノーチェは目を細める。時刻は朝の八時――終焉がノーチェを起こしてから早くも三十分が経過している。まずは生活習慣から終焉に合わせようと思い、男に起こすよう頼み込んだのだが――時間がよくなかったのだろう。未だ襲い来る恐ろしいほどの眠気と戦うノーチェは、隣に立つ終焉の顔を見て疑問の色を浮かべる。

 二人が部屋に戻った時間はほぼ同じだ。恐らく寝に入ったのも殆ど同じである筈なのだ。なのに――ノーチェよりも早く起き、眠気など感じさせないほどの清々しい無表情を飾っている。服は夜中に見たラフなものではないことから、スッキリとした目覚めを迎えたのだろう。
 終焉は一度瞬きを落とすとノーチェの問いに答えるべく、「まあ」と口を洩らす。

「寝ていないからな」
「………………は?」

 自分よりも遥かに疲労を蓄積している筈の男が一睡もしていない――そんな事実があまりにも衝撃的に思え、ノーチェは眠気が飛ばされたような気がする。見つめた先の終焉は素知らぬ顔をしながら朝食の準備をしようとキッチンの回りに手を出していて、「中途半端に眠るより目覚めがいいからな」と言った。

「……アンタ…………俺には寝ろって言っておいて……」
「私はいいんだよ」

 終焉はフライパンを片手に僅かに口角を上げて笑うと、ノーチェは納得がいかないように目を細めたまま終焉の行動を見守っている。何からできるかと問われれば自分でも答えられず、彼は終焉からの命令を待つばかりだ。
 終焉は常日頃から甘いものを食べていたいようで、冷蔵庫かいくつか決まった品物を取り出すと、ノーチェに「朝は何が食べたい?」と問い掛ける。彼は特に朝食を必要だとは思っていない所為か、何でもいいと答えることに抵抗がなかった。
 その返答が来ることを予期していたのか、終焉は「だと思った」とだけ呟くと、開けていた冷蔵庫の扉をそっと閉めてノーチェの元へと歩み寄る。

 返答を曖昧にした結果、朝食として用意されたのはしっかりと焦げ目がついた芳ばしい香りの――飛びきりの甘さを誇る、フレンチトーストだった。
 眠気に負けそうな彼にとってその朝食は胃への負担が重く、せめて朝食は要望を告げるか、自分で用意するかしよう。
 ――そう、ノーチェに決意させることに成功したのだった。