小さな意思表示

 ほうほうと沸き立つ湯気を目で追いながらノーチェは自分の体温より熱い湯船に体を沈めていた。シャワーの口から垂れる雫がタイルの床に滴り落ちては、静かな浴室にぽたぽたと音を立てている。昼間に乾ききっていたタイルや各ボトルはすっかり潤っていた。
 ボディーソープや入浴剤のお陰だろうか――仄かに漂う甘い香りが浴室いっぱいに広がっている。何気なくお湯を手で掬ってみれば、湯船に満たされたときよりも薄まった半透明の水溜まりがノーチェの手のひらに広がった。好き好んで入れているらしいスキムミルクの入浴剤は柔らかく、ほんのりと胸を満たそうとする甘い香りが身体中を包んでいく。それに気が抜けるようにふ、と肩まで浸かるよう浴槽に寄り掛かれば、無意識に溜め息が唇から溢れる。

 半ば無理矢理風呂に押し込まれた形ではあるが、何とか世話を焼かれることは免れた。先日のように洗髪や体を洗われるといったような行動を阻止するためには、ノーチェが自発的に風呂に入るしか他なく、更に自殺行為には及ばないという口約束が必須だった。
 無表情ながらも終焉は何かと心配してくる節があり、ノーチェが「大丈夫だから」と溜め息がちに呟きを洩らしたことで、漸く「大丈夫か」と納得したように口を溢したほど。先日同様大人が世話を焼かれるわけにはいかない、と辛うじて自尊心を保てているノーチェは終焉が諦めてくれたことに安堵の息を吐く。
 風呂から出れば夕食が彼を待っているだろう。

 ――はあ、とノーチェは再び息を吐く。風呂から出れば日常の中で意外にも億劫な食事が待っている。男は何が何でも手料理を食べさせようとして、「食欲はない」と言おうが何だろうが作ったものを差し出してきてしまう。
 当然だと言えば当然だろうが――、毒物は一切入っていなかった。どうやら好きで拉致したらしい奴隷に対して毒物を使い、反応を楽しむ悪逆無道ではないようだ。何かと面倒を見る辺り、雇い主と奴隷という関係よりは母と子の関係によく似ているだろう。
 ――そうでなければ「愛している」などという軽口は叩かない筈だ。
 半ば諦めるようにノーチェは浴室の天井を見上げる。カビ一つ見当たらないまっさらで綺麗な天井だ。これほど手入れの行き届いた場所に身を寄せている終焉は、よく小汚い奴隷である自分を置いたものだ。奴隷といえばまともな衣食住を与えられなければ、眠れないことも多々あった筈で、今のような状況などまるで夢のようだった。当たり前だった筈のものが当たり前でなくなったのだ。
 何気なく腕を擦る手が以前よりも骨張っているように見えて、ノーチェは瞬きを軽く繰り返す。傷痕や痣が残る体を茫然と見下ろして、自分はこんなに痩せていたのだろうか、と思考を巡らせる。もう少し肉付きが良かった気がして、何気なく「気味悪ぃ」と呟いて、以前よりも多少肉の落ちた体をつねる。
 男が無理にでも食べさせようとするのはこの体を見た所為だろう。奴隷になって以来体調を崩すことも多かったのは、恐らくまともな生活が送れなかったからだ。捕まるまでは滅多に体調を崩すこともなかった筈で――。

 ――不意に、故郷が恋しく思えた。

 まともに風呂に入ったのも先日が久し振りとはいえ、いきなりの状況に思考がままならなかったが、今日はまた違った。一日置いた時間は、ノーチェに考えさせるということを思い出させるようで、奴隷に至る前の状況を振り返ることができた。
 父と母は今頃どうしているだろうか。兄弟など居ないノーチェは、両親や同族が決死の思いで捜してくれているのではないかと思ったが――すぐに「そんなわけないか」と小さく首を横に振る。
 理由はない。――ただ、弱ければ殺される、弱肉強食の世界だ。易々と奴隷商人に捕まってしまった自分など、とうの昔に忘れられているだろう。
 つ、と濡れた指の腹で首元のそれに触れる。一目見ただけでは分からないが、恐らく幾重にも特殊な力が重ねられた厄介な首輪だ。風呂であろうが寝るときだろうが、ただでは外れない奴隷専用の制欲魔法が掛けられた鈍色の首輪。これをつけられれば最後、欲という欲や力が奪われたように何をすることもなく言いなりになってしまう。
 終焉に担がれたノーチェが一切の抵抗を見せなかったのはその所為もあった。抵抗して何かが変わった試しなど、何ひとつないからだ。

「…………多分、誰も……俺のことは覚えてないだろうな……」

 その思考までもが首輪の所為だと露知らず、徐にノーチェは膝を抱える。今居るこの地は、一体故郷からどれほど離れているのだろう。そもそも故郷は存在しているのだろうか――そんな後ろ向きなことばかり考えて、膝を抱える手に力を込める。

 早く死にたい。ただそれだけ。

 ――ゆっくりと立ち上がり、白いタイルの上に足を着く。お湯が冷めて冷たくなったタイルに一度だけ足を止めて、何事もなかったかのように浴室の扉を開ければ籠の中にはしっかりと畳まれた柔らかなタオルと、見慣れない洋服が入っていた。
 意外にも柔軟剤を使っているようで、新品のような柔らかさを持つタオルに何気なく顔を埋める。首元の酷く不愉快な首輪は、始めから乾いていると言いたげに水が滴っているわけでもなく、湿っているわけでもなく、――ひやりと冷たい感触が首元に当たる。
 これもまた特別な類いでできたものだろうか。
 ノーチェは「首も乾いてくれれば良かったのに」と思いながら首輪の下をタオルで拭いて、次に頭を、体を拭いていく。ぱたぱたとマットに滴る水滴が徐々になくなっていく頃に、相も変わらず、知らず知らずのうちに用意されている下着や寝間着をちらりと見やる。
 下着の類いを買ってきた様子はなかった。もしかしたら終焉の古いものだろうか。――そう決め付けようとしたが、洗い立ての柔軟剤の香りと崩れもしない形にほんのり首を傾げ、新品なのだろうかと首を傾げる。
 入浴剤とボディーソープ、加えて柔軟剤の甘い香りに胸がいっぱいだと言わんばかりに目を細め、軽く胸元に手を当ててからノーチェはそれを拝借する。終焉が用意したであろう衣服にぼうっと意識を飛ばしながら手足を通して、先程のタオル同様に柔らかな布の触り心地を実感するや否や、懐かしい心地に意識を奪われる。
 奴隷になってしまってからどこか丸められた自分の性格が、頭の奥底から幼い記憶を掘り起こしているようで、帰りたいと夢にまで見てしまうほどに焦がれた故郷の記憶が微かに甦る。幼い頃はまだ活発的で、どこにでも居る子供そのものだったと、まるで他人のように思い出していた。

 ――まあ、今からすれば他人みたいなものか。

 するりと襟から手を離し、若干湿っている髪を軽く拭きながらノーチェは深く溜め息を吐く。これを怠れば先日のように終焉が頭を拭くという母親のような行動を取りかねない。案外優しいにしても体の半分を持っていかれるような気持ちになるのはごめんだ、ともたもたと懸命に拭いて、漸く納得がいくまで拭けば、すぐ近くに置かれている籠にそっとタオルを置く。
 わざわざ買ってもらったばかりのものを洗濯するのもどうかと思うが、終焉はそれを気に留める人物ではないだろう。――果たしてタオルと共に籠の中に入れても良いのだろうか。生地の違いを気にするのなら、口煩く言われても仕方がない。

 何も言われなかった点においてノーチェは微かにぐっと唇を引き締めたが、そのまま籠に入れて徐に部屋から出ていく。ぺたぺたと床を踏み締める感覚には慣れた。それが冷たいか、冷たくないかの違いだけで、今更足裏が汚れるなどと気にしたことがない。
 床を素足で歩くノーチェは何気なく壁を手で伝い、住みたての住居を散策するような面持ちで上を見上げながら茫然としていると、不意に食欲をそそるような香りが漂う。何かを煮込んでいるような、芳ばしい香りが鼻をついて「ああ、またか」と肩で息を吐く。
 何気なく指に巻かれた絆創膏を爪先でいじり、指で摘まみ上げて、くっと引っ張る。ピリッと短い音を立てて剥がれた絆創膏の下――割れた花瓶でつけた傷からは血は出ておらず、周りの皮膚は湯船に浸かったお陰で随分とふやけていた。
 取ったゴミを手に包んで芳ばしい香りが漂う方へと足を進める。きっと出来上がった料理をテーブルの上に並べて待っているのだろう、と思えば、何だか億劫で、重くなる足を止めようかと思った。
 ――止めようかと思って、ふと頭を過るのは終焉の表情で。夕暮れに差し掛かる前に見た、無表情な男が浮かべるとは思えない照れ隠しのような表情が不思議と思い出せる。恐らくあれは今まで誰にも食べてもらえたことのない、新鮮な表情だったに違いない。
 ――だからと言って終焉の言いなりになろうとは思わないのだが。

 ――ぺたり。素足が床に張り付いたような音がなる。そうっと部屋を覗けば、そこには料理を揃えた終焉の姿が――なく、その部屋の奥からはカラカラとガラスが触れ合うような音が聞こえる。完璧を体現したような人物であっても、用意は間に合わないものなのだろうか。
 何気なく首を傾ければ、不意に開いた扉から終焉が顔を覗かせて、「そこに座れ」と呟く。

「どこの席でも良いんだが、なるべく近い方が私には有り難いな」

 そう言って再び部屋の奥へと戻ろうとしていて、――咄嗟にノーチェは「あの」と終焉を呼び止める。その声は到底届くとは言えないような声量だったが、終焉は再びノーチェを見て「何だ」と呟く。
 特に不機嫌な様子はない。そして、何かを言って怒りを露わにするような下衆にも見えやしない。
 ノーチェは意を決したように微かに息を吸い込んで、終焉の目を見つめる。

「俺、本当にそういうの平気なんで……今更食べろとか、そういう気にもならないし……」

 頭の中で言いたい台詞がまるで纏まらなかった。咄嗟に思い付いた言葉だけをぽろぽろと溢しているようで、あまりの出来の悪さに思わず服の裾を握り締めた。――しかし、それを終焉は咎める様子もなく、彼が全てを言い終えるまでじっと見つめている。
 あくまで何も言わず、ただ見つめる。それだけ。
 それにどれほど圧倒されていたのかは定かではないが――拙い言葉全てを言い終える頃には、ノーチェの額には汗が滲み出ているような気がした。徐に終焉を見上げるように目を動かせば、男は扉の向こうから出てきたかと思うと、ただ黙って椅子を引いて――

「座れ」

 ――と、それだけ呟く。
 ノーチェの言葉など何ひとつ届いていないかのようで、引き下がるわけにいかないと、彼は「だから」と口を開いた。

「言いたいことは分かった。ただ、それだけだ。――聞こえていないのか? 座れと言ったんだ」

 ぞくり、と背筋に悪寒が走ったような気がした。逆らえば手を上げられる、そんな思いがノーチェの思考を奪う。

 ――所詮、誰も彼も同じような考えしか持てなかった。終焉の者という人物もまた、自分勝手に物事を進めるような存在なのだ。権力を振るい、弱者を見下す――そういうものだ。それを、少しでも許そうだなんて、何を考えていたのか。結局自分はただの奴隷でしかないのだ。

 ほんの少し、鉛を引き摺るように重くなった足を動かし始めた。逆らってしまえば良かったのだが、殺されたいと願っている終焉のことだ。男はノーチェを殺してはくれないだろう。
 それを見た終焉はもう何も言わなくても十分だろう、と今度こそ部屋の向こうへと消えていった。それだけで重圧のようなものが消えた気がして、椅子の傍に辿り着く頃には足はすっかり軽くなったようだった。――それでも気分は晴れないままで、静かに腰を掛けると同時、終焉が部屋の向こうから料理を持って出てくる。
 顔は上げなかった。じっとテーブルの上を虚ろな目で眺めるノーチェの目の前に、丁寧に盛り付けられた煮付けと、街並みに似合わない白米が椀に盛られて出てきた。所謂和食というものだ。微かに見た街並みも、人々の言葉も西洋のものだったにも拘わらず、男が出したのは遠い東の街の料理だった。
 終焉は一体何者なのだろうか。――芳ばしい香りに茫然としていると、ノーチェは頭に何かが置かれた気がして、少しだけ肩を震わせた。

「……悪かったな。このままでは少し……細すぎる、と焦っているのだ。…………食えないようなら、残して良い」

 頭に置かれたのは紛れもない終焉の手のひらで、軽くくしゃりと撫でた後、終焉はノーチェを置いてそのまま部屋を出ていこうとする。その感覚がどうも記憶を揺さぶっているようで、思わず置かれていた頭に手を添えた。何の変哲もない、多少湿った自分の髪の毛があるだけだった。
 「部屋に居るから、終わったら声を掛けてくれ」――そう言って出ていった終焉の背中を、ちらりと横目で見やった。女のように長い黒髪に混じる赤い色、すらりとしたベスト姿のまま片手にエプロンを握って、扉の向こうに消えてしまう。
 食べないという選択肢があることを男は知らなかったのだろうか。目の前に用意された出来立ての温かな食事を睨む気持ちで見つめて、用意された箸を徐に手に取る。持ち方は――覚えているような、いないような。そもそも箸なんてものを使ったことがあるのかどうか。――それすらも分からないまま、ノーチェは箸でそれをつつく。
 用意された食事はやはり一人分。無理矢理食べさせる割に自分の用意はしない終焉が作った鰈の煮付け。つついていた魚を箸で割って、中身を見れば十分に味が染みているとよく分かる。茶色を白で濁したような色。いじればホロホロと身が溢れてしまう。傍らに置かれた椀には一粒一粒が立っている艶やかな白米が、光を反射してキラキラと輝いている。
 口にしてはいなかったが、何故か断言できた。――それは、絶対に美味しい。程好い柔らかさの煮付けと、噛めば噛むほど甘味が出るという白米だ。

「…………んまい」

 何気なく口にしたそれが、思った通りの美味しさで、ノーチェは喉の奥に隠れていた言葉をつい溢した。――それを聞く料理を作った本人はこの場には居らず、広い部屋にあるのは広いテーブルと、幾つかの椅子だけ。誰も何も聞いてはくれない。
 ぼろぼろと崩れる魚をちまちまとつまんでいたノーチェだが、何も聞こえないこの部屋が所謂「寂しい」ものだ、と奴隷でなくとも理解できた。
 ――終焉以外に何の気配もしない屋敷。ノーチェしか居ない空間に、箸が皿に当たる音が鳴り響いた。