不意に鳴った小さな物音に、ふと終焉が耳を澄ます。それは扉の方から鳴っていて、顔を向ければ自分と似た背丈が扉の向こうから微かに顔を覗かせている。早いとも遅いとも言い難い時間に「終わったのか」と呟いてみれば、おずおずといった様子で扉を押し開けるノーチェが小さく頷いた。
「そうか」そう言って終焉は薄暗い部屋で読んでいた本を机に置いて、椅子からすっと立ち上がる。何度も読み返しているのだろうか――表紙は微かに汚れていて、タイトルはろくに読めやしない。――それを置いて、終焉はノーチェが居る扉の方へと足を進める。
扉の陰に隠れるように潜んでいたノーチェが、終焉の存在を確認するように俯き加減のまま上目で顔を見やる。男は初めて会ったときとまるで変わらない無表情で、先程空気が悪くなったとは思えないほど澄ました顔をしている。
ノーチェの視線に気が付いた瞳が少しばかり低い背丈を見下ろして「ん」と呟きを洩らす。冷めたオッドアイがノーチェの紫と金が存在する瞳と交ざり合う。思わずノーチェが目を逸らしたのを見た終焉は、ほんの少し驚くように肩を震わせたが、何も言わず食堂の方へと足を進める。
こつこつと靴が赤黒い絨毯と床を踏み締める低い音が鳴る。その後ろから絨毯を軽く擦るような足音が聞こえて、ふと横目で後ろを見れば、控えめにノーチェが終焉の後ろをついて歩く。
ついてこいと言った試しはない。何なら部屋に戻っていても終焉にとって支障はない。――その筈なのにノーチェは何を言わずとも終焉の傍を歩いていて――彼にとって何か不具合が起きたのかと頭を捻る。
食事が口に合わなかった、風呂の調子が悪かった、屋敷の居心地が悪かった。
どれをとっても終焉には焦りを彷彿させるものであり、彼に抱かれたくない感情であることに間違いなかった。
若干開いている扉に手を伸ばし、終焉はリビングへと足を踏み入れる。ほんのりと肌寒さが身を掠める春先の夜で、部屋を暖めておけば良かったと微かな後悔を抱きながら、ノーチェが座っていたであろう席へと近付いた。
――特別期待はしていなかった。寧ろ期待ができなかった。あれだけ渋っていた食事だ、そのまま残されていても文句のひとつも言えないだろう。
「…………」
残された食器を見たとき、終焉の口許が微かに緩んだ。
テーブルの上にあったのは煮付けと米の残骸が少し。食べるには食べたけれど、食べきれなかったと言い表せるような光景が広がっている。箸を使うのに慣れなかったのか、ぼろぼろに崩れた魚と白米は丁度半分程度しか残っていない状態で、思わず終焉が瞬きを繰り返すと、傍らにいるノーチェが小さく語り掛ける。
「……取り敢えず勿体ないから食った、けど……やっぱ、量が多くて食いきれなかった。それで……あの、一応置いてもらってるから食うけど…………少し、減らして欲しい」
今まで話していなかったのかと問いたくなるような拙い口調だったが、何とか言い切れた、とノーチェは小さな達成感を胸にする。
料理は特別不味くはない。やはり美味しいの一言に尽きる出来だったが、ノーチェにとってそれを食べ切るのには少し無理があったようだ。ほう、と窮屈になった腹を撫でつつ息を吐くが、終焉からの応答はない。もしや、今度こそ男の地雷を踏んでしまったのかと、ノーチェは徐に終焉の顔を覗き込んだが、――不意にやって来た手のひらに顔を覆われる。
顔を覆われ、髪を掻き上げるように頭を撫でられ、――何度目かのその行動にノーチェは最早抵抗の意すらも覚えなくなった。まるで、飼い犬を褒めるかのような行動に疑念を抱いたが、慣れた手付きがその行動全てを癖であると裏付けているようだった。
――どうしようもない喜びが終焉の胸に募る。
絶対に残ると思っていたのだ。食べ切れず残されてはいるが、終焉が覚悟していた、丸々残る、という事態ではない。何とか食べようと試みた結果が、目の前に残されているのだ。これを喜ばずして何になろう。
「…………やはり、食べてもらうと嬉しいものだな」
手を離しながら覗き込んだノーチェの表情は相変わらず無表情であったが、心なしか撫でる手がしつこいと言わんばかりに眉を寄せている気がした。――そして、変わらず呟いた終焉の表情も無表情であるが故に、ノーチェは「本当にそう思ってるのか」と言い掛けて口を開き、――「ふーん……」と生返事をする。
そう思えないけど、なんて言いたげなノーチェを撫でていた終焉は、ハッとして手を引いて「悪かったな」と呟いて、後片付けの為にそれに近付く。黒く長い艶やかな髪が、終焉が動く度に微かに揺れる。
「……それ、どうすんの」
――不意にノーチェが唇を開いた。
食器の縁を手に取る終焉の脇からそれを眺めるノーチェは、自分が与えられて、且つ残したものと認識しているようで、残飯の行方を懸念している。世の中には食べたくても食べられない人間が居ると知っているからこそ、呟けた言葉なのだろう。
あくまで奴隷であるノーチェは普段からまともに食事ができなかったのだ。漸く与えられたにしても、目の前で食事が台無しになるのは多少、抵抗があった。
「私が頂くが……抵抗があるか?」
「えっ……ああ……いや……」
処分する――その言葉が出てこなかったことにノーチェは拍子抜けしたように、軽く体を震わせる。――同時に自分のことを「愛している」という終焉が、自分が口にしたものを食べるというのに違和感を覚えたが、軽く頭を振って無駄な思考を省く。
「別に、捨てないなら良いんだけど」寝間着の裾を握り締め、顔を俯かせて背中を丸める。何だか少し疲労感を覚えたような気がして、ふぁ、と欠伸をすると、目尻に涙が溜まった。
それを見かねた終焉がふと時計を見やると、夜の十時を指していて、口許に手を添えて考える素振りを見せるや否や、残飯を後にしてノーチェの元へ歩み寄る。そして、肩に手を置いて向きを変え、「部屋に行こう」と言う。
「まず貴方には生活習慣を正してもらいたいのだ」
そう言ってノーチェの背を押しながらリビングを後にして、ひとつひとつ階段を上る。
その間にも彼はすっかり黙ってしまっていて、機嫌を損ねたのかと不安に駆られた終焉は着いた部屋の扉を開けながら何気なくノーチェの顔を覗けば、酷く眠そうにぼうっと重くなる瞼に抵抗する素振りが見てとれた。
扉の向こうはどの部屋と変わらずに無機質な部屋であるが、使用感が現れたベッドにノーチェを寝かせる。娯楽が少ない部屋にもう少し何か用意してやろうかと考えを頭の片隅に追いやって、布団を被せようとして――。
「……あの」
ふと、ノーチェが終焉の行動を止めた。そして、徐に体を起こし、終焉の顔を見上げる。
「……アンタは俺を奴隷扱いしないけど、俺は奴隷なんだよ……」
そう呟けば終焉は漸く表情という表情を変えるように、睨むように眉間にシワを寄せる。それを見てノーチェは咄嗟に「自虐とかじゃない」と、「最後まで聞いて欲しい」と言葉を紡いだ。終焉は納得しなさそうに表情を変えなかったが、話は最後まで聞くようで口を開くことはなかった。
「……だから……変に気遣いとか要らない、から。何て言うか…………今までやってきたもん、全部染み付いてるから……今更何もしないとか、無理なんで……」
――結局何が言いたいのか、言葉がまとまることはなかった。ただ、変な特別扱いがむず痒くて、不気味にも思えるから控えて欲しい、というのがひとつの要望だろう。ノーチェは思うように言葉が紡げないのが嫌に思えたようで、途中で口を閉ざしてしまった。
それを見た終焉は半ば投げやりに布団を被せると、呆れがちに、溜め息混じりに呟きを洩らしてノーチェを見下ろす。
「だから、今貴方のやることは生活習慣を正すことだろう」
――と。
それに、ノーチェは反論する言葉も見付けられず――「おやすみなさい」と小さく呟いて、布団を目深に被り、目を閉じる。それを見かねた終焉はなるべく音を立てないよう静かに扉を閉めて、階段へと向かって歩を進める。
手摺りに手を滑らせて、ほんの少し楽しげに階段をひとつひとつ下りて行った。