――けほっ。小さく咳をして洗面器の栓を捻る。口の中の鈍酸を取り除くべく、蛇口から流れる水を両手で掬い取り、口へ含んで<ruby><rb>嗽</rb><rp>(</rp><rt>うがい</rt><rp>)</rp></ruby>をする。違和感が消え去ることはないが、それでも酸特有のあの違和感は消えたように思う。
近くに掛けてあった白いタオルで口許を拭けば、ふわりと見知らぬ香りが鼻を擽る。これはきっと、あの男の香りだろう。比較するのは可笑しいと思うが、この香りは今までよりも遥かにずっと、いいもののように思えた。
手洗いを後にしたノーチェは扉を閉めて手のひらで微かに腹を擦る。思い出したものが確かな要因だが、きっと食べ過ぎたのもひとつの要因だろう。
仕切り直すように改めて見渡した屋敷の中は広く、全体的に彩度の低い仄暗い赤を基準にした茶色に彩られている。俗に言う赤茶色と言うのだろうか。熟年の木の幹よりは明るく、鮮血よりは鈍い色をしている。所々敷かれている絨毯はどこか赤黒い色に統一されていた。
少し歩けばエントランスがある。その目の前にすぐ大きな階段があって、左右に部屋が多少広まっている。二階は同じような感覚で幾つか扉があったことから、恐らく同じような部屋なのだろう。ということは、機能的な部屋は一階に集中しているのだ。
「…………あの人の言う通り、少し回ってみるか……」
命令もなく立ち止まっていては何も始まらない。
試しにノーチェは終焉が言っていたように屋敷の中を散策する気分で徐に歩き出す。隅に追いやられている背の高い観葉植物が、仄暗い赤に彩られている部屋では一際大きく存在を放っていた。
葉っぱを見れば白い汚れなど見受けられず、土はしっかりと濡れていて手入れがよくされている。あの愛想のない見た目で植物の手入れをしているとは到底思えないが、緑を見ると心なしか気持ちが軽くなったような気がした。
いつの日か誰かに「緑は人を癒やす効果がある」という言葉を聞いたことがあった。それがいつの頃だったかはまるで思い出せない。その言葉が本当のことだと言うように、ノーチェの憂鬱がほんの少し取れたような気がする。
――それでも錆びた心に残る「願い」は取れることなく、「早く死にたい」と小さく呟いた。
そうして、ふと思い出す。この屋敷の広さだ。屋敷内を散策するのもいいが、庭というものがあるのかもしれない。そして、ひとつの植物にも手を抜かない男のことだ。庭園とは言わないが、手入れが行き届いた庭にでもなっているだろう。
好奇心、というものがまだ残っていたのかは定かではない。ただ、逃げ道を確保しておく、という無気力の前では役に立たなさそうな弁明も意味はないのかもしれない。単純に庭の様子が気になったと言えばそうなのだろう。
『――決して出てはいけないぞ』
エントランスの扉に手を伸ばしていたノーチェは、不意に屋敷を出ていく終焉の言葉を思い出してピタリと動きを止める。
――ああそうだ、出てはいけないと言われていたんだった。
それはきっと、白昼堂々暴れて奪ったものを再び外に放り出さないためのものだろう。あくまでノーチェを奴隷として招き入れたわけではない終焉のことだ。再び彼を奴隷として逃すことが嫌なのだろう。
手を伸ばしかけていたノーチェは徐に手を下ろして、ふと屋敷を見渡す。外はまだいい。怒られることも懸念して、男が他の人間よりもまだ甘いことを考えて、言われたことを守ろうと思ったのだ。やはり屋敷の中を歩き回るのがいいのだろう。
何気なく目にした大広間。エントランスから見て右側の大きな広間だ。客人が現れればもてなす部屋があるとするなら、そこで間違いないのだろう。
遠くから見ても分かるソファーとテーブルと、使われているか分からない電気製品が明るく煌々と照らされている。光の差し込む量がエントランスよりも遥かに多いことから、広間には大きな窓があることが予想される。
――いつ何を命令されるか分からない。屋敷の中を把握しておくことは、自分の体を守るひとつの術にもなるだろう。
ふらりとノーチェは足を踏み出して客間へと歩いた。似たような背の高い観葉植物が壁の隅にほんのりと存在を主張している。
つい、と客間へと顔を出してみれば案の定そこには大きな窓が備わっていた。終焉のような背丈の人物が一人と半分――ノーチェと終焉が肩車でもすれば上まで届くような大きな窓が聳え立つように備え付けられている。手前には赤い大きなソファーがひとつと、足の低いテーブルを囲むようにやけに高そうな椅子がひとつ用意されている。
窓の脇に纏められている厚手の遮光カーテンは窓の向こう――外の世界を見てもいいと言っているようで。ノーチェは無意識のうちに窓の方へ近付く。何気なく気になっていた庭の一部が眼前に広がっていたのだ。
――それはまるで異世界にでも来てしまったかのような感覚だった。きらきらと輝いて見えるものは植物の葉に乗った水滴が太陽で煌めいて見えるものだろう。
中央に見えるのはガゼボと呼ばれる、休息の場として知られるものがあった。それを取り囲むように植物が植わっている。
手入れがよく行き届いていると言えば、行き届いているのだろう。雑草と呼べる余計な植物が一切姿を現していないところを見るに、終焉は細かなところもよく見ているようだ。水滴が反射しているこの幻想的とも言える光景は、忘れたくても忘れられないものになるだろう。
――特別嫌なことが起こらなければ、の話だが。
「…………埃ひとつねえ…………」
ぽつり、ふと呟いた言葉がノーチェの背筋を凍らせるようだった。
そっと窓の縁に指をなぞったノーチェだが、その指の腹には埃という埃が一切付いていない。まるで「完璧」を体現しているかのような男だ。そんな男に掃除でも任されてしまえば、あまりの出来の悪さに落胆することだろう。
――いや、落胆されてしまえば「殺してくれ」などと妙なことを頼まれなくて済むのではないのだろうか。
不意にノーチェの頭に妙な考えが募る。いくら無気力とはいえ、死に対する執着は誰よりもあるつもりだ。あの男もまた死への執着があるように見えるが、恐らく自分ほどではない筈だ。だからこそ落胆されて、一思いに殺されてしまえば良いのではないだろうか。
見逃しやすい窓の縁。それすらも見逃さない終焉が仮にノーチェに掃除を頼んだとして、杜撰にしてしまえばきっと殺されてしまうに違いない。あの男は完璧主義なのだろうか。先程の植物にでさえ白い汚れが付いていないほどだ。家具の位置ですら斜めになっている様子も見受けられない。これならきっと逆上しやすいに違いないのだ。
「………………考えとこ」
ノーチェは考えを胸に踵を返して窓の外から目を離す。
向かいに立つ家電製品が目に入るが、夜よりも暗いその画面に馴染みという馴染みはなく、彼はそれをまじまじと見つめる。穴が開くほど見つめても動く兆しは見られないのだが、何故だかその黒いものに目が離せなかった。
それもまた一瞬の出来事で、「散策しないと」と呟いて意識的にそこから目を逸らす。
五人は座れるであろう大きな赤いソファーが一際目を惹いていた。何気なく腰掛けてみれば、ふわりと柔らかな生地が体全体を包み込むような感覚に陥る。これはきっと安い物ではない――突発的に思ったのがそれだった。
安い物ではない、それなりにいい値段のする家具のひとつだろう。
「ん……あったけぇ……」
日に晒されているからだろうか。一般的に言う「太陽の匂い」がする優しいソファーだった。抱き締めるのに丁度良いクッションがひとつあって、昼寝をするのに最適なのかもしれない。
目の前の足の低いテーブルもテーブルクロスがしっかりと敷いてある他に可笑しなところはない。椅子もまたクッションがあって、座るのに最適とも言えるだろう。足下に敷いてある絨毯も他と同様赤系統に統一されているところを見る限り、終焉は赤色が好きなのだろうか――。
ぎ、と足を着けた床が微かに軋む音がした。造りの良い見た目とは裏腹に、それ相応の年季が入っているのだろう。
立ち上がったノーチェは客間を後にすると、脇に備え付けられている扉のノブを引いた。つい先程使用した手洗いが汚れひとつもなくそこに備わっている。
気が付かなかったがそこは気を紛らせるようにラベンダーの甘い香りがしていて、洗面器に取り付けられている鏡にも汚れが一切見当たらない。石鹸もまた桃の香りがしていて、仄かに甘かった。
部屋を渡り歩く度に終焉が綺麗好きということ、甘い香りが好きだということが分かるようだった。
手洗いを出て目に入った扉を開けると、脱衣室が目に入る。籠の中には洗濯物は入っていない。何気なく浴室の扉を開ければ、換気された浴室と、栓が抜けた浴槽があるだけだった。
「……あの人、朝のうちに全部終わらせるタイプか…………?」
からりと湿気のない乾いた浴室。窓を見れば森林浴でも味わえるかのように、心地のいい外がよく見渡せる。よく見れば浴槽は白ではなく黒であるという点が、身分の高さを彷彿とさせた。
何気なくシャンプーやコンディショナー、ボディーソープのボトルを持ち上げてみるが、底には滑り毛のない新品同様のボトルがそこにあるだけだった。
よく見ればタイルにはやはりカビもひとつ残っていない。こうして見て歩く限り、やはり男の綺麗好きという線が浮き彫りになってくるというもの。万が一掃除でも頼まれてしまえば、ここまで綺麗にできる自信のないノーチェは死ぬつもりがなくとも怒られてしまう未来が見えていた。