浴室を後にしたノーチェが次に入ったのはリビングだった。
客間とはまた違ったその場所にノーチェはただ茫然と歩いていたが、何気なく「ああ、あの人は俺が来るまで一人だったのか」と思うと、異様に広く感じられた。一人で居るにはあまりにも広すぎる空間が胸の奥の寂しさを打ち震わせてくるようで、一人で居ると心細くなる。
そんな思いを胸に奥の扉に進むと、今朝方終焉が使っていたであろうキッチンが顔を覗かせた。洗って時間の経った食器、立て掛けられた新品同様の包丁、使い古しているとは言い難い、背丈よりも少し高い冷蔵庫――料理をしようと思わないノーチェにとっては無縁な場所だろう。
ふと包丁を手に取ると、手の内に収まる柄の感覚が妙に落ち着いた。これを体に突き立てれば間違いなく死ねる。終焉の居ない今、確かに奴隷から解放されるだろう――。
「…………まあ……できたら苦労してねぇんだけど……」
立て掛けてあった場所に包丁を戻すとノーチェは足早にその場を後にする。
キッチンはまるで終焉の居場所だと言わんばかりに少し心地が悪かった。咄嗟にリビングを出て壁沿いに歩いていると、脇に扉がひとつあった。上を見上げれば階段の手摺りがかろうじて見えるといったところ。この扉の中は恐らく物置部屋か何かだろう。
開けてみようかと思ったが、不用意に開ける必要のない箇所は開けない方がいいのだろう。ノーチェはそこから目を離して壁に沿って歩いていく。すると、一周してしまったようでエントランスに戻ると、「何しよう」と小さく呟いた。
赤茶色の階段に足を着いて一段一段上がっていく。やることはないけれど、暇潰しにはなる動作。このまま与えられた自室でもよく見てみよう、とノーチェは左端から二番目の部屋を開けた。きぃ、と鳴る音が耳を劈いてほんの少し不愉快になる。
扉が開いた後に目に映るのはひとつの寝具。丁寧さとは何かを問うように崩れた布団が目に映ると、今まで見てきた丁寧さが更に浮き彫りになるようだった。
何気なくその布団を綺麗に直して部屋を見渡すと、天井には大きな電気がひとつ。寝具の隣には小さな棚の上にランプがひとつ。窓を越えた先にある本棚に近付けば、本はひとつも残されていないのに埃もまた残されていない。ここにもまた赤黒い絨毯が敷かれていて、統一性が窺えるほどだ。
「ここも赤……赤は血の色みたいで、何か…………」
あまり好きじゃないな――そう呟いてノーチェは何気なく窓の外を見れば、一風変わったものが目に入った。溢れんばかりの木々、人が通った形跡すらない外見――あれは森だ。
先日は終焉のコートをかぶせられていた所為で気が付かなかったが、この街は森にでも囲まれているのだろうか。
――そう思ってしまうほど、どこを見ても辺りは森ばかりだった。街の中でもこの屋敷は人目を恐れるように端の方にあるらしい。とすれば案外外に出たとしても、誰の目にも触れることはないのではないか。
恐らくこれが終焉の言った「万が一」なのだろう。街から離れてはいるが、稀に誰かが来ることがあるかもしれない。その「誰か」がノーチェを狙う誰かであれば、それ以外の誰かの可能性もあるのだ。
――そこまでして終焉はノーチェを手放したくないのだろうか。
「何考えてんのかわっかんねぇな…………」
ほんの少し頭を掻いて部屋を出るノーチェは、試しに右隣の部屋を開けてみたが与えられた部屋と同じで、特に変化はない。この調子なら他の部屋も同様だろう。
ノーチェは何気なくとぼとぼとした頼りない足取りで階段を下りて、再び茫然と辺りを見渡す。あらかた散策は終わってしまった。あと見ていないとすれば、庭くらいだろうか――。
「……? 向こう、部屋あったのか…………」
階段を下りた先、ふと右回りすればノーチェの目の先にはひとつの扉が細々と存在していた。それはエントランスから見て左側に位置する部屋だ。
――そう言えば左側の部屋は見ていないな、と首を傾げるノーチェはその扉に向かってふらふらと歩き始める。
どの部屋もそこはかとなく重苦しい印象を受ける造りだった。実際は重いわけもなく、難なく開けられてしまう木製の扉なのだが、黒光りするそれは鉄のように重いのではないか、という妙な印象を与えてしまうほどだ。
――無論、ノーチェが辿り着いた部屋の扉も重苦しい色をしていたが、難なく開けられるものだろう。
ふ、とノーチェはその扉のノブに触れる。この部屋は恐らく、彼が与えられた部屋の丁度真下に位置するだろう。くっとノブを引けばそこにあったのは奇妙な違和感だった。それはまるで、長年に亘って使い古されているような使用感――この部屋はもしかすると、終焉の部屋なのだろうか。
思えばどこの部屋もありふれた場所で、空いている部屋はどこもかしこも使用感が全くない。ノーチェを奪ってきた終焉がどの部屋に居るのか考えたこともなかったが――人目を憚るように位置するこの部屋こそが、男の自室だと言っても過言ではないだろう。
そして、それは紛れもない事実へと移り変わるようだった。
音もなく開く扉――今までは微かに軋むような音が鳴っていたが、この部屋だけは鳴らない――その先に待っていたのは、昼に差し掛かる朝の筈なのに酷く薄暗い部屋。どの部屋とも同じように寝具と本棚と、ランプが備え付けられているが、他の部屋にはない机や椅子が見て取れる。
「…………あの人の部屋……?」
ここが終焉の部屋と言うなら確かに頷けるものだった。
――しかし、本棚に入れられた傾いている本や、床に落ちて割れた花瓶がそれを否定するように残されている。部屋の広さは二階のものよりも多少広かった。けれど、今まで見てきた「完璧」を体現するようなあの綺麗さはどこを見ても見当たらない。
試しに足を踏み入れて散策を続けるノーチェは部屋をまじまじと見渡してしまう。自分を攫った終焉という人物がどのような人物なのか、多少でも分かれば居心地は更に良くなるだろう。
――死にたいと思い続けているのに、居心地を求めるのは可笑しいことだろうが、何だって良かった。単純に他と同じように扱わない男の何かが知れればいい気がした。
「……何で、こんなに暗いんだ…………?」
ぎ、と床が軋む。辺りをどう見渡してもこの部屋だけは薄暗くて、妙に眠気を誘われる。布団は綺麗に畳まれていて、試しにランプを点ければ橙色の心地いい明かりが灯った。それを消すために紐を引いてから机に近付くと、足下で小さく何かを踏んでしまった音が鳴る。――割れた花瓶だ。
屈んで見たその花瓶は細かい破片と、大きな破片が幾つか散らばっていて、手に取るとその鋭さが指先に伝わってくる。
――そう言えば昨夜眠る直前に何かが割れる音がした。その音の正体はこの花瓶だったのだろう――しかし、どうして。
何故男はこれを片付けようと思わないのだろうか――。
「……って」
不意に破片から手を滑らせたノーチェは咄嗟に手を閉じる。指先に食い込んでいた破片が、手から滑り落ちる際に指を傷付けてしまったのだ。咄嗟に閉じた手を恐る恐る開けば、人差し指からゆっくりと染み出るような赤い液体が顔を覗かせてくる。「いてぇ」と呟きながらそれを咥えて血を吸い出すが、後から徐々に血が溢れてくるのだ。
あの人が帰ってきたら何て言い訳をしよう――徐に立ち上がって机の上を見た。そこにあるのは読みかけと思われる栞が挟まった本と、いやに高そうな羽ペンがひとつ。ノーチェの知らない言語で、尚且つ達筆で何かが書かれた紙が数枚散らばっている。
何か調べているのだろうか。こつり、踵から鳴る小さな足音を絨毯越しに響かせながら近付いた本棚には、いくつもの本が収まっていた。見慣れない言語のものから、ノーチェが知る言語まで幅広く取り揃えられている。
「……これ、フランス語だ…………」
傾いていた本を整えながらノーチェは傷のない手でそれを手に取った。終焉は様々な言語を知っているのかと思っていたが、この本はフランス語について書かれているだけの、謂わば参考書のようなものだった。
――完璧のように見えて、あの男には知らないものがあるらしい。
パラパラと捲ると基礎中の基礎から応用まで幅広く詳しく書かれているようだ。いくつか付箋が貼られている箇所があって、試しに目を通せば参考文章と、終焉のものと思える達筆な筆跡がひとつ。
「……〝彼は私を……〟?」
目についた終焉の文章は途中で途切れていた。単純にフランス語が分からなかったのだろうか。参考書があるほどだ、終焉も知る言語というのは限られているに違いない。ノーチェもまた終焉が書いたと思われる紙に書かれた内容はこれっぽっちも分からなかったのだから。
終焉もまた勉強を欠かさないのだろう。機会があって、その気があったら終焉に教えてもいいのかも知れない。
ノーチェはこれ以上部屋に居座らないよう、開いていた本を閉じて本棚に戻す。
――すると不意に、見計らったように隙間から小さな紙がはらりと落ちてきた。それに気が付いたノーチェは拾い上げるため、身を屈めて傷のない手で紙を拾う。
――それは小さな紙だった。メモのようなものだった。練習するように、先程の字面とはうって変わって拙い言葉が綴られていた。
――〝J’ai été abandonné〟
「…………〝私は捨てられた〟……?」
その小さく拙いメモが何を意味していのか、今のノーチェには理解することができなかった。