屋敷中に鳴り響く銃声

 ――時刻を遡って午前八時。それよりも早く目を覚ます終焉の本格的な朝は八時頃を目処に始まる。
 特別朝に弱い終焉は時間をかけてゆっくりと意識の覚醒を待った。その後に身支度を調えるために洗面所へ向かい、顔を洗って目を覚ます。長く垂れる黒髪も初めこそは重いと思っていたが、慣れた今に至ってはその重さがなければ自分だと思うことはできない。
 柔らかなタオルで顔を拭いた後、視界に映り込む赤い色のメッシュを払い、終焉は部屋へ向かった。脱いで椅子の背凭れにかけていたままの服を手に取り、気休め程度に霧吹きで香りをつける。シュッと何度か音を鳴らして、漸く落ち着いた頃にその服の袖に腕を通した。
 カーテンから溢れる日の光は徐々に強さを増しているようだった。

 終焉はそれを、ゴミを見るような目で一瞥してから、自室を後にする。鳴らす音は最小限に留め、靴の履いていない足で一直線にキッチンへと向かう。道中客間で真夜中にノーチェに差し出したマグカップを回収し、それをシンクへと置き去りにする。
 慣れた手つきでまとめるには難しそうな髪を束ね、エプロンを着るとふう、と吐息を吐きながら腕を捲った。冷蔵庫を開けてじっと中身を眺める終焉は口許に手を添える。「……朝食は食えるのだろうか」と独り言を洩らして眉を顰めた。

 卵とベーコンをひとつ。冷蔵庫から取り出すと戸を閉める。パタンと音を立てて閉じたそれに目もくれず、棚からフライパンを取り出してコンロへと置いた。
 悩ましげに眉を寄せたままチチチ、と音を立ててフライパンの表面を温める。途中で少量の油を引き、表面へくまなく伸ばしてやると、パチパチと音を立てて油が跳ねる。ところどころ油が行き届いていない箇所はベーコンの油で補えるので気には留めない。

 終焉は片手でフライパンをもてあそびながら卵をシンクの角で小突く。力加減を考えコン、と鳴らす。すると、ヒビが入り、終焉は片手で器用にフライパンの上へと中身を落とす。
 熱したフライパンの上に落とされた冷蔵庫で冷やされた卵は、大きな音を立てて半透明だった白身を濁らせる。パチパチと耳に届く音はどこか心地好く、鼻を擽る香りは胸を落ち着かせる。その合間に終焉は塩とコショウを適宜振りかけ、水を卵の周りへ撒いて、蒸気を閉じ込めるように蓋をする。
 蒸すのにかける時間は数秒から一分に至るまでの間でいい――。終焉は閉じていた蓋を開けると、閉じ込められていた蒸気が顔面へとかかる。それにほんの僅かに顔を顰めるが、傍に用意していたベーコンを卵の隣で焼き始める。
 こちらもまた大きな音を立てて身を引き締め始めた。卵と違うのは焼き上げている最中の香りだろうか――肉の焼ける香りは甘いものが好きだという終焉の腹を揺さぶった。芳ばしい香りが男の意識を誘惑してくる。程好く焼けていくそれを裏返してやると、軽くついた焦げ目がいやに魅力的だった。

 終焉は一度そのフライパンの蓋を閉じる。軽く天を仰ぎ、数回呼吸を繰り返すと火を止めて戸棚から皿を一枚取り出した。真っ白で汚れのないその上に蓋を退けたフライパンを近付けて、ヘラで形を崩さないよう丁寧に皿へと盛り付ける。半熟とも固焼きとも言い難い目玉焼きの隣に、食べやすいように切り分けたベーコンを添えてやって、再び冷蔵庫の蓋を開ける。小振りのレタスを手に、軽く切り分けて悩ましく首を傾げる。
 切り分けたレタスを水ですすぎ、よく水気を飛ばしてからベーコンの下へと盛り付けた。程好く見られるほどになったであろう見た目に、終焉は軽く満足して次の工程へ移る。

 取り出したのは一切れの食パン。それをトースターで焼き始める。焼き上がるのに必要な時間は多くはない。できることといえば道具が転がるシンクの後片付けくらいのものだろう。
 それを手早く終わらせてしまうと、終焉は再び冷蔵庫を開けてパックをひとつ取り出した。戸棚から取り出したのは二つのコップで、終焉はひとつにミルクを注ぐ。一思いにそれを一気に喉に流し込み、はあ、と息を吐いて口許を拭った。

 トースターからはパンが焼ける香りが漂う。男はコップをシンクへ、ミルクをテーブルへ置き去りにバターを取り出すと、程好く焼けたパンの表面へ馴染ませるように塗り上げる。バターナイフの先を焼けたパンが引っ掛かる感覚は、特別不快なものではなかった。
 芳ばしい香りにバターの柔らかな香りが仄かにキッチンへと漂う。男はそれを終えると、トレーを用意して、作り上げていた料理をそれぞれ手慣れた様子で置いていった。半透明のラップを用いて埃が入らないようにそれぞれ蓋をして、トレーごと軽々と片手で持ち上げる。

 キッチンを後にした終焉は煌々と日が差し込んでくる屋敷の中を歩き、二階へ繋がる階段を踏み締めていく。上がりきった先にあるのはいくつかの扉。その中から端から二つ目の扉へ向かって、控えめなノックを鳴らした。
 コンコンと小さく木製の扉が叩かれるが、部屋からは物音ひとつ返ってこない。
 ――ほう、と吐息をひとつ。終焉は諦めてその扉をゆっくりと開けると、薄暗い部屋の中で塊が動いたような気がした。

「入るぞ」

 なんて言葉を部屋の主に届くか届かないかの声量で呟く。足を踏み入れたその部屋の中は男の自室よりは遥かに明るく、清々しささえ感じられるほどだ。靴を履かないお陰で足音は立たず、終焉は寝具の上で寝転がる彼を見やる。

 ノーチェは体を丸めて小さな寝息を立てている。頭の下にあった筈の枕を抱き抱える様子は子供らしいの一言に尽きる。真夜中で目を覚まし、泣かれたときは流石の終焉も戸惑いを覚えたが――何の問題もなかったようだ。終焉は安堵してほっと胸を撫で下ろすと、近くの机に朝食を置いた。
 本来なら出来立てを口にしてほしいものだが、何せ昨夜の事が頭に残るばかり。終焉は起こそうかと思っていたが、心地よさげに眠りに就くノーチェを起こすわけにはいかない、と小さく笑みを溢す。

 「無駄にならないといいんだが」そう言って男は朝食の真上で指を軽く踊らせると、トレイを小突いた。「こんな感じか……?」と言いたげに首を傾げ、朝食を眺める様子はまさに人間そのもの。一度悩んだ素振りを見せると、長居はしていられないとノーチェの部屋を後にする。

 やることは沢山あった。慣れた足で階段を下りて客間へ行き、大きな窓からじっと外を眺める。空はいくらか白い雲が多いが、太陽は昨夜まで降り続いていた雨の残りをキラキラと輝かせている。朝露――とはまた違った、紫陽花の葉に乗る雨粒に、終焉は片眉を上げる。

 雨が降る気配は今はない。しかし、時季が時季だ。いつ雨が降ってきてもおかしくはないだろう。

 晴れ間が見られるのは午前中だけだと終焉は決めつけ、長い髪をほどきながら踵を返す。向かう先は脱衣室。風呂に向かう先で置かれた洗濯機に軽く溜まった洗濯物を投げ入れ、洗剤を加えて回し始める。ほんの少しの節約を兼ねて使う水は、先日使用した風呂の残り湯だ。今ではもうすっかり身に染み付いた一連の行動に、「昔は迷ったものだな」と思いを馳せながら微かに口角を上げる。
 あくまで自分の身の回りには無頓着だった終焉が毎朝忙しなく動いていられるのは、勿論引き取った――正確には奪った――ノーチェの存在が大きいのだろう。彼が屋敷に居るというだけで終焉の心は躍り、胸の奥が僅かに温まるような感覚に陥る。それでも気分は悪くないのだから感情というものは不思議で仕方がない。
 洗濯機を回している間、男は自室へ戻り後回しにしていた片付けを始める。起きてからそのままにしていた布団を持ち上げて畳み、シーツを伸ばして寝具を整える。机の上に置き去りにしていた本を本棚に戻し、斜めになっているそれを丁寧に立て掛ける。

 起床してノーチェの朝食を作ってから既に一時間が経過していた。終焉は部屋の片付けを終えると、自分は何も口にしていないことを思い出して徐に腹に手を添える。くぅ、と鳴ったわけではないが、僅かな空腹を感じているような気がした。

 そうして向かうのは紛れもなくキッチンだった。リビングを越えてその向こうにある扉を開く。整頓された道具達を横目に入れながら戸棚に手を伸ばし、寄せ集めている焼き菓子を手に取る。それは手のひらサイズの、一口で食べるには多少大きめのクッキーだ。
 終焉はそれを手に取ると口へ運び、柔らかく綻ぶそれを噛み砕く。サクサクと軽い触感、仄かに舌に広がる甘さは癖になるほどで、一度指先を舐めるともう一枚を手に取った。
 甘いものは好きだが、クッキーのように甘すぎずしつこすぎない味も男は好きだった。気が付けば残り数枚になってしまったクッキーを眺め、「皮肉なものだな」と悲しげに一言。いたく気に入ってしまったようで、「また買いに行こう」と呟くその顔は固い決心が宿る。