屋敷中に鳴り響く銃声

 時を遡って三十分前後、ノーチェは漂う芳ばしい香りにゆっくりと目を覚ました。
 目の前にあるのは頭の下にあった筈の白い枕。気が付けばそれを両手で抱き抱えて、布団を軽く蹴飛ばして眠りに落ちていたようだった。徐に起こした体は重く、堪らず大きな欠伸をひとつ。ふぁ、と息を吸い込んで脳へ酸素を回し、目を覚まそうとした。

 ふと目を覚ます切っ掛けになった香りが鼻を擽る。何気なくその香りの元を辿れば、机の上に見知らぬ朝食が置かれていた。正体が気になり彼は覚束ない足取りで机へと近寄る。そこには出来立て当然の目玉焼きとよく焼かれたベーコンに新鮮なレタス、バターが塗られた食パンに冷たいミルクが揃っていた。
 彼は気になってそれに軽く触れると、確かに出来立てのような温もりがある。作られて時間が経っていないのかと思ったが、触れたミルクの入った瓶のようなものは冷たく、時間の概念さえも忘れさせるほどのものだった。
 これも何かの魔法の類いなのだろうか。

 ノーチェは二、三瞬きを繰り返して、徐に椅子を引いて朝食を目の前に座る。綺麗に張られたラップを剥がしてみると、出来立て同然の香りが顔いっぱいに広がった。それを期に眠っていた筈の腹の虫がくぅ、と音を立てる。食べないという選択肢があったが、用意した終焉がどんな顔をするのかなど想像もしたくなかった。

「……いただきます……」

 両手を合わせ、ノーチェは小さく呟く。然り気無く用意されていたフォークを使って、ちまちまと食べるよりも楽であろう食パンの上に載せて食べることを選んだ。レタスを――駄目だと思いながらも――指で摘まんで載せ、その上にベーコン、目玉焼きを載せた。
 こんな贅沢滅多にできるものではない、と思いつつ齧るのはたったの一口で、恐らく食べ終わる頃には全て冷めきってしまっていることだろう。
 口に含んだそれはやはり美味しいの一言に尽きた。カリカリになるまでに焼かれたベーコンの旨味が存分に引き立ち、舌の上を転がり続け、味気のない目玉焼きにアクセントを加える。その肉の油に根負けしないようにレタスが程好く味を変えてくれて、食べ進めるのに余計な気遣いは不要だった。
 ノーチェは朝食を食みながら昨夜の出来事をぼうっと思い出してみる。

 思えばあれは夜と雨でやけに情緒が乱れていたのだろう。得体の知れない漠然とした不安、自分以外の同じような人種は居ないという底知れない疎外感。誰も自分のことを覚えていないであろうという途方もない悲しみ――それらが折り重なって無意識のうちに涙を流してしまったのかもしれない。
 そう思えば、誰も居ない筈の客間に独りでいたところを見つけたときの終焉は一体どのような心境だったのだろうか。寝ている筈のノーチェが不安げに膝を抱えていた。男は何も言わずホットミルクを差し出した後、部屋に連れ戻してくれたが――終焉なりに驚いていた筈だ。
 何かを言うことこそしなかったが、ノーチェが無意識で涙を流したとき、不思議と締め付けられていた空気が僅かに柔らかくなったような気がするのだ。
 それらが相まってか、ノーチェは起こされず眠らせてもらえたのだろう。
 結局彼が何故あの場で膝を抱えていたのか、ノーチェ自身も上手く説明ができない。もしかしたら少しでも構ってもらいたいという精神が出てきてしまっていたのかもしれないが――、何にせよ彼の中では多少の羞恥心が胸に募る。
 上手く説明はできないが、謝って礼を言うのが正しいのだろう。

「…………ごちそうさま」

 ポツリと言葉を洩らして、ノーチェはガラスコップにミルクを注ぐ。トトト、と注がれる光景はどこかで見たことがあるような気がして、ただ茫然と見つめてしまっていた。必要な量だけが入っていたから溢れることがなかったのだろう――中身の切れたそれを立て直し、コップに口をつける。
 濃くも薄くもない独特な味がしていた。それを思い切り喉の奥へ流すと、胸の奥で詰まっていたかのような塊がぐっと腹の方へ流れ込んでいく。この感覚は未だに慣れることがなく、飲み干した後口許を拭いながら軽く咳き込んで、ほう、と一息吐いた。
 何気なく触れた白い毛髪は特に違和感がない。夜中に一度起きた所為か、目立つような寝癖などがあるような違和感はなく、癖の強い妙に伸びた髪が首元を隠す。そこにあるのはもう既に慣れてしまった鉄製の首輪で、切れた鎖が垂れ下がっている状態だ。

 最初こそは寝苦しいと思っていた筈だが、慣れてしまうと寝苦しさも感じない人間の順応性に彼は呆れさえも覚えた。慣れたという感覚さえなければもう少し現状に抵抗を覚えることができたのではないか、と思うのだ。

「……いや……結局同じか……」

 ノーチェは一度目を閉じると徐に席を立つ。用意してもらったクローゼットの中には似たような服が数枚入っている。どれを着ても同じであることには変わりないだろうが、選ぶ楽しみというものを終焉は用意してくれたのだ。折角だから甘えてみるのもいいだろう。

 ――そうして選んだ服はやはり無彩色のものだった。シャツの襟を首輪元に寄せて、少し丈の長いスラックスの裾を折る。慣れてしまった素足はそのままに、彼は空いた食器をトレーごと持って部屋の扉を開けた。
 着替える意味は特になかった。ただ、強いていうなら終焉の唐突な誘いにいつでも応じられるように、という気遣いからだ。
 トレーを片手に手摺りに手をついて階段を下りる。そのままキッチンへと向かって食器類をシンクへ置くと、ノーチェは思い立ったようにスポンジを手に取った。
 長い間奴隷をやっているが、力仕事もまともにさせてくれないのは今回が初めてだった。ノーチェに何度も愛を伝えている以上、やはり終焉は周りとは違うのだろう。

 泡立てたスポンジで食器を丁寧に洗った。コップは滑って落とさないよう、細心の注意を払いながら。丁寧に洗った後は水で濯ぎ、水切りへと立て掛ける。油汚れなど目立つ様子はなく、指の腹で擦ればキュッと小さな音を立てた。その出来に、力を使う以外のこともまだできるんだな、と彼は安堵の息を吐く。
 昨夜可笑しな様子を見せてしまった詫びに、できることは何だってするつもりだった。そうでなくても食事も風呂も何もかも世話になっているのだ。ここまでされておいて何も返さないなど、成人男性としての尊厳を失いかねない。
 終焉は拒むだろうが、ノーチェは終焉が押しに弱いことに薄々気がついていた。今回も威圧感に負けずに対峙すれば相手から折れてくれるだろう――。
 近くにあった柔らかなタオルで手を拭き、ノーチェは「よし」と呟いた。終焉相手になら少しだけ気を許してもいいのかもしれない。そんな気持ちが顔を覗かせる。

 ――――パァンッ

 ――不意に身の毛がよだつほどの大きな破裂音が屋敷中に響き渡った。ぞくり、と背筋を走る悪寒にノーチェは息を飲む。

「……銃声……?」

 思い出したように脳裏をよぎった言葉がそれだった。

 その音は一度までならず二度までも立て続けに鳴った。遠くはない、寧ろ隣にいるかのような大きな音。死が隣にあるという感覚――あれほど望んでいた死が身近にあるというのに、ノーチェの足は微かに震えた。
 しかし、それも一瞬の出来事だった。
 次に鳴ったのは何かが倒れるような音。それは大きくもなく、かといって小さすぎるわけでもない。くぐもったような音が微かに耳に届くのだ。それは例えるなら紙の束を床にばらまくような音に近く、それが聞こえることに彼の心臓は鼓動を速める。

 この屋敷は広い。人独りが住むにはあまりにも大きすぎる屋敷だ。その屋敷の中で音が聞こえるなど、場所によっては有り得なくもない話である。特に奥まった場所にあるキッチンなら尚更だ。そこに隣接する部屋など限られていて、浴室を挟んで大きな客間がある程度だろう。
 しかし銃声の後に聞こえたのは何かを落とすような小さな音だ。紙の束のような、くぐもった音。一階の部屋で紙の類いを所持していて、且つキッチンからでも聞こえる、客間とは逆にある部屋といえば――。

「…………あの人の部屋、から……?」

 気が付けば彼の足はキッチンを飛び出していた。
 駆けつけたところで何かが変わるとは思っていない。寧ろ事態が悪化するような気さえするほどだ。――だが、理由も分からず何故だか足が勝手に駆け出していくのだ。

 道中エントランスの扉が開いていることにノーチェは異物感のようなものを覚えた。理由は簡単、終焉は扉を開けっ放しにするなどという行為に出ないからだ。何せ彼らは追われている身で、自ら存在を知らしめることなど決してしない。だからこそ閉じていないその扉は寒気がするほどで、彼は足早にエントランスを通り過ぎる。
 二階へ上る階段の向こう――見えた終焉の自室の扉も不用意に開けっ放しだった。ノーチェは咄嗟にその扉の端を掴み、部屋の中を覗き込む。何事もなければよかったが、ノーチェは自分が疫病神が何かかと錯覚してしまうほどに気が動転した。
 奴隷とはいえ誰かの身を案じてやることは悪いことではないだろう。咄嗟に安否を確認しようとしていた口は、喉の奥にまで差し掛かっていた言葉を塞き止めるように閉じて、代わりに目を見開く。

 ――終焉が死んでいる。