屋敷中に鳴り響く銃声

 男を取り囲むように立っていた見慣れない人間は、一通り部屋を荒らすとやって来たノーチェに目を向けた。「何だ、この屋敷に居たのか」と口を溢し、フードをかぶり直すその様子は長い間見てきたものと酷似している、
 〝商人〟の男達がノーチェという奴隷を取り戻しにやってきたのだ、と理解するまでに時間はかからなかった。

「やけに不気味な男だったので念のため、頭も撃ち抜いた。存命は見込めないだろうな」

 項垂れた頭を拳銃で小突き、終焉が自分の意志で動かないことを示してみせた。コツン、と硬いそれに頭部が当たり、終焉の頭が軽く揺れる。――しかし動く様子は全く見られず、こめかみから流れるその血液が頬を伝い、垂れていく。
 男の亡骸は不思議なものだった。金目の物を探すために何気なく〝商人〟がカーテンを開けると、それがよく分かる。艶めく黒い髪も青白い肌の色も勿論常人とは異なるほどの異質さを持っていたが――、更に異質さを浮き彫りにさせたのはその血液だった。
 何故か血液が赤ではなく黒一色に彩られているのだ。まるで絵の具を溶かしたかのように黒く、「酸化した血液」など比にならないほどの深い闇の色。一瞬だけ目を疑ったのはノーチェだけに留まらず、終焉を撃ち抜いたという〝商人〟もまた訝しげな表情を浮かべていた。

「まるで化け物だな」

 そんな言葉が終焉へ向けられる。
 しかし、男は事切れている。蔑むような目も罵るような言葉も既に届くことはない。
 「この賭けは俺達の勝ちだな」と悪い顔で〝商人〟は言った。金目の物を探していた二人はそれらしいものが見つからないと悟ると、首を横に振ってノーチェの横を通り過ぎる。そのまま立ち去るのかと思いきや、彼らはエントランスの手前――階段の手前で待ち構え始めた。
 彼らは本来の目的を見失ったわけではない。ただ「ついで」に金品を探してみただけのこと。本来の目的は強奪された奴隷の奪還と逃亡――つまりノーチェを取り返し、そのままこの街を去るということだ。それを果たすべく、二人はノーチェが逃げ出さないよう後ろを囲んだだけに過ぎない。
 そして、彼の前方から一人が目の前に立ち塞がった。

「さて、ついてきてもらおうか」

 〝商人〟がノーチェの腕を掴む。――だが、彼は放心しきっているようで、ろくに身動きを取らなかった。
 ――いや、ただ考えていたのだ。何故このような状況になったのかを。何度も逃げ出せる機会は目の前に現れていたが、それをしなかったのはノーチェ自身が既に「逃げ出すことは無意味だ」と解っているからだ。理解しているからこそ、踵を返し、背を向けることをしなかったのだ。
 その分ひたすらに思考を巡らせていた。

 人の死を間近で見ることは特別珍しくはなかった。奴隷になって以来、同じような人間が衰弱して死んでいくのを羨ましく思いながら目にしていたことがある。その点を踏まえれば逆とも言える状況――終焉と過ごした何気ない日常こそが彼にとって非日常にもなっていた。
 まともな食事を摂ることも、時間たっぷり眠ることも、風呂に入り体を清潔に保つことも、与えられる洋菓子がやけに美味しいと感じることも、何もかもが非日常でしかなかった。――お陰で奴隷という立場であることを多少なりとも忘れかけてしまうほどにだ。
 その所為だろうか――何度も人の死に直面して慣れたと思っていた筈の光景が、いやに恐ろしく思えたのは。

 動かない、喋らない、血の気がない。そんな死体をいくつも彼は目にしてきた。その度に次は自分かと期待に胸を躍らせたが、回ってこない死に失望すらした記憶がある。恐怖などという感情を抱いたことがないと言えば嘘になるが、今ではもうその感情を持つことが恋しいと思えるほどだった。
 その筈なのに、何故か終焉の事切れている姿を見るのはノーチェに大きなショックを与えていたのだ。
 足がすくみ、目の前が真っ暗闇に包まれる感覚。人の声が遠く、見えるのは息をしないたった一人の男だけ。足下に穴が空いて落ちていくような絶望感を喪失感だと例えるのなら、ノーチェの胸に募るのは理由の見当たらない喪失感だった。

「…………殺す、理由はあったのか…………」

 耐え難い苦痛に身を委ねるわけにはいかず、ノーチェは徐に口を開く。
 殴られるものかと思っていたが、その〝商人〟は彼に手を出すことはしなかった。徐に顔を見やれば、その〝商人〟はノーチェが知る人物とはまた違う人間だった。

「……この人を、殺すなんてしなくても……俺は言えばついていった。何で、殺す必要は……」
「……なるほど」

 口が上手く回らないのは終焉の死に動揺しているからだろう。何とか彼は自分の思っていることを〝商人〟に伝えることができたようで、目の前の〝商人〟は一度悩む素振りを見せる。――当然、理由は分かりきっていることだった。
 ひとつは終焉が奴隷を強奪した本人だから。それ相当の罰を与えるために、二度と同じような出来事を起こさせないために命を奪っただけに過ぎない。誰が何を言おうと男が持ち逃げ去ったのは、労働に使える物理に特化した〝ニュクスの遣い〟だ。一人捕まえるのに何人もの捕獲者が犠牲になるのだから、同じような目に遭わせるのが一番なのだろう。

「もうひとつはただ話に乗っただけだ」
「…………話……?」
「自分を殺せれば奴隷は譲ると言っていたんだよ」

 その言葉にノーチェは茫然とした。それに、痺れを切らしたかのように〝商人〟がノーチェの手を引いて足早に終焉の部屋を出る。手を引かれたままノーチェは咄嗟に終焉へ振り返ったが、男の体は依然項垂れたままで、やはり動く兆しは見られなかった。

 ――結局彼はただ迷惑をかけて巻き込むことしかできなかった。
 終焉の体を見つめていると、途方もない喪失感がノーチェの胸を針のように刺し続けた。その感覚が嫌で、ノーチェは顔を終焉から逸らしてしまう。手を引かれて歩くのは酷く疲れてしまい、「……もう歩ける」と小さく呟けば、腕を掴む手が離れた。

 ノーチェの目の前には一人の男、そして背後には二人の男が立っていた。万が一のことに備えての配置に思わず「よく考えてるな」と他人事のように考えを巡らせる。半開きになったエントランスの扉を押し明けながら「金目の物はこの屋敷にはないのか?」と何故かノーチェに問いかけた。
 ノーチェはぼうっと目線を足元に落としながら「さあ」と何気なく声を洩らす。床だったものが白い石に、石だったものが若草の生える柔らかな土に変わっていく様子を見るのは酷く億劫だった。再び殴られ罵倒される日が戻ってくるのかと思えば、歩く足は自然と重くなる。口から溢れる筈の言葉など紡げる筈もなく、話し相手にもならないと思うや否や、〝商人〟が話を変える。

「少し離れたところに馬が――」

 「キャリッジがあるから乗ってもらう」――そう言い切るつもりで紡いだその言葉は、最後まで言い切ることがなかった。

「な……なん……!?」

 ノーチェの前後で戸惑うような声が飛ぶ。咄嗟に彼の肩を押し退け、二人が前へと躍り出た。ノーチェはバランスを崩しながらも様子の変わったそれに不信感を抱き、徐に顔を上げる。
 〝商人〟達の隙間から見たそれに、ノーチェでさえも言葉を失った。

「…………え……」

 空は薄暗く、白い雲の下に広がる灰色の雲が存在感を増していた。じっとりと肌にまとわりつくような湿った空気が「もうすぐ雨が降る」と暗示しているようで、体を支配するような倦怠感が増しているような気持ちに陥る。外に干した洗濯物を取り込まなければ再び手間がかかってしまうだろう。
 そんな天気の下、彼らが目にしたのは有り得ないものだった。
 長く風に靡く黒地に赤いメッシュの交じる髪。闇に紛れるかのような黒を全身にまとい、日に焼けていない肌は女のように白く、ポケットに手を入れて仁王立ちする様はまさに王者の風格を宿している。
 一文字だった口許は不自然に弧を描き、透き通るような赤と金のオッドアイは獲物を見つけたときの獣のように爛々と輝いている。

「――殺せなかったなぁ?」

 嬉々として発せられた言葉はまるで子供のようで、彼らはじっとりと湿った空気の中で蛇が体に這うような寒気を覚えた。

 そこには絶命した筈の〝終焉の者〟が嘲笑うように立ち塞がっていたのだ。