「クレープおいしい」
「……私が作った方が美味い」
煌々と目が眩むほどに輝きを増す太陽から身を隠すように、手近にあった公園の木陰で二人はクレープを頬張っていた。黄色い生地に生クリームと果物とチョコレートソースを巻いた、おやつには持ってこいの甘いデザート菓子だ。
「もっと甘い方が良いな」などと呟きながらぺろりと平らげた終焉を他所に、少年は小さな口でちまちまと頬張っている。
日は高く昇りきった。こうしている合間にもノーチェは腹を空かせているのと思えば、終焉は腹の奥底からぞわぞわと奇妙なむず痒さを覚えた。
ノーチェに殺されたいと告げた終焉は、暗に「殺せない」と言われても諦める様子を見せてはいない。
――だが、万が一彼が終焉を殺すにはあまりにもみすぼらしい姿をしている。成人男性にしては仄かに痩せている体付き、伸ばされたままの手入れのない白髪――手始めに彼の環境を変えなければ話にならない、と思い立ったのが食事と服装だ。
彼は進んで自ら食事をするようには見えなかったが、男が差し出せば不思議と口には入れてくれた。まるで小動物に餌を与えているような感覚ではあったが、丹精込めて作ったものを口にしてくれるというのは思ったよりも遥かに嬉しかった。表情こそまともに出てこないが、胸の奥に無くした何かが満たされるような感覚はあった。
『私は貴方を愛している』という感情は強ち間違いではなかったのだろう。
――良かったと胸を撫で下ろしたい気持ちになったが、それが彼にとって良かったのか――それを考えるとどうにも素直に受け入れられなくなりそうだった。
「愛している」と「好き」には決定的な違いがあるようだが、終焉にはそれが何なのか分からない。どちらも男にとって同じ意味合いなのだ。
事実、終焉は確かにノーチェを愛していて、彼の為ならば命をも差し出せるほどだ。ただし、それに人間の言う性に関するものが含まれているのかと訊かれれば、頷くことはできないだろう。
人間の成長は遅いようで早いもの。終焉の隣で漸くクレープを食べ終えて一息吐くこの少年も、いつかは大人になって汚れた世界を目の当たりにするのだろう。
――いや、それよりも早く終焉が世界を終わらせるのが早いだろうか――。
「おにーちゃんは、髪がくろいんだね」
はじめて見た、そう言って少年は金の毛髪を微かに揺らしながら自分よりも遥かに背の高い終焉を見上げる。澄んだ翡翠の瞳には無表情で見下ろす終焉の顔がはっきりと映っていた。それは、驚いているようで全く興味がないと言いたげな表情だった。
深い闇を溶かしたような終焉の髪は黒く、艶やかだった。所々に見映えするような赤黒いメッシュが混じっているのがひとつの特徴だろうか。「初めて見た」と言われた終焉は何気なく毛先を摘まむと、「だろうな」と素っ気なく呟く。
「ここに黒髪は私しか居ないからな」とどこか遠くを見る目は、寂しげにも見える。
「ふーん。じゃあそっちのきれーな目は? いたくないの?」
終焉の素っ気ない態度にも少年は挫けることもなく、互い違いの色を得た終焉の瞳をじっと見つめている。それは、この世のものとは思えないほど美しく、覗けば覗くほど、惚れ惚れとするような宝石にも似た煌めきをしていた。
しかし、その目には縫いつけるように切り付けられたであろう縦の傷痕が、痛々しくくっきりと残っている。何気なく終焉がそれを指でなぞったが、傷痕特有の引っ掛かりなど感じられなかった。
「……痛くはない。ただ、視力が落ちているだけに過ぎない」
「……ふーん…………?」
くっ、と目を動かせば、微かにぼやける空が眩しかった。少年は男の言葉が理解しきれなかったようで、首を傾げて目を丸くさせる。そして、クレープだけでは物足りないと言わんばかりに「ごはん食べたい」と呟いて寂しげな表情を浮かべていた。
「――……私にも時間がないのだ。行くぞ」
「わあっ」
傍らに置いていた紙袋を片手に、そして自分よりも遥かに小さい少年を片腕に抱えた終焉は、咄嗟に立ち上がるや否や賑やかな公園を後に市場の方へと向かう。
やはり市場は騒ぎ立てるような賑わいが大きく、圧倒されるものであったが、この市場を抜けた先に少年の言う母親が待てと言った噴水広場があるのだ。その波に身を晒すことは、世界を終わらせるよりも手の掛かるもののように思えたのだろう。
終焉は微かに――しかしあからさまに――大きな溜め息を吐くと、同時に足を踏み出した。
あちらこちら、四方八方で値引きを交渉する声や、子供の天真爛漫な声が耳に届いていた。終焉の片腕の中で少年は周りを見渡して、「お空がちかーい」と目を輝かせている。
時折弾き出されるように流れる人間が終焉の腕にぶつかりそうになっては、男は紙袋を携えた腕ごと引っ張るように身を引いて避けていた。
来るべきその日まで波風は立てたくない。極力目立たないように生きていたい。
――そんな感情が窺えるほど、人の波を避けていくことに長けている終焉の足は止まることを知らなかった。足早に、然れど縺れることもなく確実に。石畳を踏み締める感覚だけに集中を研ぎ澄ませて、終焉は腕の中で高い景色を見下ろす立場に居る少年に意識を向けてはいなかった。
あれは何かなぁ、と少年が指を差しているが、終焉は答えることもない。高いねー、と呟くが男は何も答える気がないようで、耳を傾ける様子も見られない。
やがて、少年は返答を求めることを諦めたのだろう――歩く度に靡く終焉の黒い髪を小さな手で触れて、物珍しそうな顔で呟いた。
「おにーちゃんの髪、くろくてきれーだね」
――不意にぴたりと終焉の足が止まる。それに驚いて目を丸くした少年は終焉の顔を見上げるが、男は前を見据えたままで唇を閉ざしていた。何か触れてはいけないものに触れてしまったような少年は、あの、と呟く。すると、終焉は徐に横目で少年を見つめた。
まるで獣が獲物を見付けたときのような感覚に、少年は小さく身を捩ると「着いたぞ」と男は言葉を洩らす。石畳の地面に片膝を着いて少年を降ろしながら「あれは母親か?」と問えば、少年は噴水の方へと目を向けた。
金の美しい髪が悲しげに揺れていて、遠くで誰かの名前を不安そうに呼んでいる。通りすがりの人間に声を掛けては落胆して、顔を覆って肩を震わせる。その姿は紛れもない我が子を思う母親で、「ママ」と僅かに口許を綻ばせる。
「……待て」
思わず母親の元へ駆け出そうとした少年の手を終焉は咄嗟に掴み掛かった。小さな手を大きな大人の手が包むように。本来ならばこのまま走るのを見れば良かったのだが、――男はそうはさせなかった。
「あっ、ありがとうございました! えと、お膝も!」
思い出したように少年が頭を下げて男に礼を述べる。図々しく子供宛らのあどけなさを持っているというのに、妙に礼儀正しいのは両親の躾の賜物だろう。
子供にしては礼儀の良さに終焉は微かに口許を緩め、「ああ」と呟いて手を緩めた。
踵を返し、少年が母親の元へと駆け出す。
――その直前、男が形のいい唇を開いた――。
「――お前は、今日一日『私に出会った事全てを忘れろ』」
はぐれた小さな子供が母親の元に辿り着くのを見届けた終焉は、呆れるような視線を配らせ、市場の方へと踵を返した。
「お腹空いた」と辺りから声が立っては、外食に出掛ける親子が目に映る。空を見上げて眩しい太陽を忌々しげに見つめる終焉は、屋敷で待っているであろう愛しい人間に想いを馳せる。
ノーチェは腹を空かせているだろうか。屋敷を出る前に呟いた言葉を素直に受け取っているならば、彼は屋敷の中を彷徨いただろう。目を離していれば死ぬことを考えてしまいそうな彼を屋敷で一人残すのに抵抗があった終焉は、眉間に皺を寄せながら今度こそ足早に屋敷を目指している。
昼は何を作ろう。――そう考えなくとも、紙袋の中には転がっている赤く熟した林檎が一際存在を放っている。
昼はとうに過ぎている。生活習慣に支障が出ることを嫌に思う終焉の視界に、昨日倒壊した筈の建物がひとつ。目を引く人間がちらほらと出入りを繰り返しているのを見て、終焉は微かに目を細める。
世の中には知らない事があった方が良いのだ。
ばたばたと音を立てながら開く扉から出てくるのは、薄暗く深い緑のローブをまとった人間達。それを見るや否や住人は道を開くように避け始める。見付かってはいけない――そう言いたげに終焉は紙袋を抱えながら流れに乗り、人混みに紛れながら確実に市場を抜ける。
――ふと、後方から聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
「本当に分からないの? 誰が噴水まで送ってくれたのか」
「ほんとに分かんないの! 気づいたら、近くにママがいたんだもん! それよりご飯たべたーい」
何気なく終焉が自分の服を見下ろすと、薄く煌めく金色の髪が一本。器用に手袋越しの手で摘まみ上げると、忌々しげに光を反射してきらりと輝く。
「……ノーチェは空腹を訴えてくれそうにないだろうな……」
男は摘まみ上げていた毛髪を置き去りにするように、指を離して小さく独り言を洩らした。金髪は嫌いだ――賑わう街に言葉が小さく響いて、溶けるようにするりと消える。
――世の中には覚えていない方がいいこともあるのだ。