終焉を抱えながら寄り道をして、袋を肩に提げながら屋敷に着いたのは、既に三時を回ろうとしていたところだった。流石に参った、と言わんばかりに溜め息を吐いて、ノーチェは終焉の顔色を窺う。相も変わらず蒼白い顔をしているが、ふうふうと浅い呼吸が何度も繰り返されていた。
普段から汗をかくような様子を見せない男が、苦しそうな息遣いを繰り返しながら唸る。「もうちょっとで着くから」なんて声を掛けてやるものの、聞こえているかは定かではない。早く寝かせて体を冷やしてやるのが最善だと、ノーチェはぐっと前を見据えた。
屋敷の扉を開けたリーリエが小走りで駆け寄ってくる。「抱えながら袋も持つなんて、本当器用ね」なんて言いながら、彼を屋敷の中へと押し込んだ。
屋敷は涼しく、やっと着いたと安堵の息を吐いてしまう。その気持ちを抑え込んで、終焉を担ぐように抱え直しながらノーチェは靴を脱いだ。ついで、と言わんばかりに荷物をエントランスで置き去りにして、足早に終焉の部屋へと向かう。
赤黒い絨毯を踏み締めて、部屋の扉を開けて、ゆっくりと男を寝具の上へと下ろした。
「…………」
その慌て具合が終焉の意識を揺さぶったのだろう。下ろす頃には終焉が徐に目を開けていて、不意にノーチェと視線が混ざり合う。「……起こした……?」と訊くが、男は依然ぼんやりとノーチェの顔を見つめるだけだった。
「……? まあいいや……服、脱げる? 汗ばんで気持ち悪いだろ」
何かしらの言葉を交わすことはなかったが、終焉はぼんやりとしたままもそもそと服を脱ぎ始めた。言葉は通じているようだが、言葉を発する気持ちにはなれないのだろう。彼は男がゆっくりと服を脱いでいくのを横目にみながら、机の上に置き去りの桶とタオルに手を伸ばした。
冷えている水が暖まった手を冷やしてくれる。冷たくて気持ちいいな、と思いながらタオルを絞ると、ばさりと小さな音がした。服を脱ぎ終わったのだろう――乱雑に脱ぎ捨てられた服をしり目に、終焉は髪を鬱陶しそうに束ねていた。
「ん、背中」
「…………」
一言だけ呟けば、男は素直に応じて背中を見せる。何度見ても色の白い背中は綺麗で、多少丸められている。汗が湿っている背に濡らしたタオルを押し当てて、屋敷を出る前と同じように拭いてやった。火照る体に濡れタオルは心地がいいのか、深く息を吸い込んで、ふぅ、と吐いているのが背中からでもよく分かる。終焉でさえも汗の気持ち悪さには勝てないようだ。
自身を化け物と揶揄する割には、行動のひとつひとつがどれも人間味を帯びている。自分達とは何ら変わりのない生き物なのだと、彼は思った。
ある程度背中を拭いてやって、ノーチェはタオルを洗い、再び終焉へと向き直る。「こっち向いて」と言って終焉の顔を見ると、携えているタオルを頬にあてがった。
「う、」
頬に当てられるのは予想もしていなかったのか、終焉は驚くように声を上げて、ノーチェにされるがままに顔を拭われる。「顔も拭いたらスッキリする……」と彼は語りかけ、終えた後に終焉へ訊ねれば、男は小さく頷いた。
一度は自分で拭こうとする意思を見せていた終焉だが、体が思うように動かないのだろう。何気なくノーチェがそのまま胴体を拭いてやれば、軽く目を閉じてノーチェに身を委ねる。極力触れられることを避ける終焉が、敢えて彼に身を委ねているのだ。それほどまでに体調が悪いのだろう。
かくいうノーチェもまた意識を失ったという話をされたのだ。事を終えて終焉と共に休息を取るべきなのだろう。
終焉の体を拭いていくと、嫌でも体にある傷痕がノーチェの視界に映る。真新しそうで、古そうな、生々しい傷痕だ。鋭利な刃物で裂かれたような体は、一部が変色していて見るに耐えない。
どれほどの痛みを感じたのだろうか――そう思いながら何気なく傷痕をなぞると、彼の胸の奥が騒ぐような感覚に陥った。
――何か。何かを思い出しそうな気がする。
――不意にそう思ったのか、本能が警報を鳴らすように誰かが囁いたのか、分からない。ただ、終焉の体に刻まれた傷痕が、自分の知らない記憶を呼び起こさせるものなのは薄々勘づいていた。その正体を知れば、彼は妙な違和感に苛まれることはなくなるだろう。
同時に、その確信が酷く恐ろしいことのように思えるのだ。
思い出してしまったら何かを失ってしまいそうで、――平たく言えば怖かった。
そんなノーチェの様子が可笑しいことに気が付いたのか、はたまた別の理由かは分からない。終焉はぼうっとどこかへ向けていた視線を彼の顔に移すと、すぐさまノーチェの手を押し退けて、布団へ潜り込む。上は着ていない。本当ならば彼としては下の方も洗ってやりたいのだが、潜り込んだ男に何と言えばよかったのだろうか。
彼は小さく溜め息を吐くと、再び終焉の箪笥を漁って服を一式用意してやる。寝具の枕元に置いて、「後で着替えれそうだったら着替えておいて」と言葉を置き去りにして、部屋を出ようと扉へ歩いた。
すると、くぐもった小さな声がノーチェの背から聞こえてくる。
「……リーリエは料理が下手だぞ」
――なんて場違いなことを言うものだから、ノーチェは小さく首を傾げて部屋を出た。
何の意図があってあの言葉を呟いたのだろうか――。
ノーチェは軽く眉間にシワを寄せていると、すぐにその理由が分かってしまった。
エントランスには置き去りにした荷物はない。それが、リーリエがわざわざ運んでくれていたことを示唆していて、後で礼を言おうと思った矢先に訪れたものである。
「――何でこう上手くいかないの!?」
怒りにも似た声が聞こえてきたのはキッチンの方だった。
――後に彼は、キッチンへリーリエを入れたことを後悔することになる。