悪意なき助言

「……夏祭り」
「そう! 夏祭り~!」

 ポツリと呟いた言葉に魔女が上機嫌に笑った。彼の手元にあるのは一枚の紙切れで、以前街の中で見たものと同じものだった。
 花が夜空に咲き誇るようなデザインが目を惹くポスターだ。街の風景に開催日や模擬店の種類などの情報が書かれていて、一風変わった景色が堪能できるようだ。行事に無縁だったノーチェには何がどう変わるのか少しの予想もつかないのだが、ポスターを持ち寄った魔女――リーリエはいやに楽しげに表情を綻ばせている。

 女は相変わらず片手に酒を携えていた。ノックをされて扉を開けたノーチェや、掃除をしていた終焉はその様子に呆れさえも覚えるよう、渋い顔をする。「ちょっとお話しなーい?」なんて返事も聞かず、躊躇なく屋敷に足を踏み入れた瞬間、終焉がやたらと表情を歪めたような気がしたのは気のせいだろう。
 靴を脱いで客間のソファーに座るリーリエはノーチェにポスターを手渡し、現在に至る。終焉はキッチンで何かをしているのか、掃除をやめた後奥へ向かったままなかなか姿を現さない。その間にノーチェはリーリエの相手をしながら、ポスターを持ち出した理由を何気なく聞き出した。

「私ねえ、あまり街には行かないんだけど、祭りは基本的に行きたいのよ~! 何て言ったってご飯が美味しいからね!」

 片目は前髪で隠れて見えてはいないが、ウインクをしたような素振りにノーチェは瞬きをひとつ。ふぅん、と彼は生返事をしながらポスターをテーブルに置くと、リーリエが「その興味なさそうな声は何かしら」なんて言う。「だって興味ないから」――なんて言えるわけもなく、ノーチェはぼんやりと押し黙っていると、ふわりと漂う紅茶の香りが鼻を擽る。

 夏日には暑さを覚えるほど長い黒髪がノーチェの視界の端に映った。これで会話から逃れられる――しめたと言わんばかりに彼はリーリエから目を逸らすと、相変わらず冬の寒さを感じさせるような冷たい目が合う。「言ってくれれば手伝ったのに」そうノーチェが呟くと、「苦ではないからな」と終焉は小さく口を溢した。
 男は慣れたように携えていたトレイを、ポスターを避けながらテーブルに置く。トレイの上に並ぶのはティーセットに加え、小さなバスケットに納められたビスケットだ。プレーンばかり並んだその横にはジャムの類いが添えられていて、初めて見る茶菓子にノーチェは茫然とそれを眺める。

 リーリエは喜んでいの一番にビスケットへと手を伸ばした。女曰く「程好い塩味が利いたビスケットにジャムの甘さが堪らない」のだそう。試しにノーチェもリーリエと同じようビスケットにジャムを載せて口へと運べば、普段とはまた違った味覚にぼんやりと思考を奪われる。
 程好い塩気が甘さを引き立たせるには十分だった。柔らかな歯応えがありながらジャムとの相性は抜群と来たものだ。普段の茶菓子と比べたら一風変わったように思えるが――終焉が手掛けるものはやけに美味しいと感じるものが多かった。

 ノーチェは満足げに――とはいえ相変わらず何を考えているかも分からない無表情だが――ほう、と一息吐くと、リーリエとの会話を避けるように次へと手を伸ばした。やはりソファーの上が気に入っているのか、リーリエが居るとしてもソファーを先取るように足早に座って、終焉は普段と変わらず目の前の椅子へと腰掛ける。ジャムを載せては口へと運ぶ光景を見て、ふ、と柔らかく口許が上がるのが分かった終焉は、口許に手を当ててそれを隠した。
 暑くなってきたとはいえ、然程の変化も見せない彼の食欲に男は満足したのだろう。持ってきた菓子へと手も着けず、ゆっくりと椅子に深く座り直す。まるで疲れ果てたかのようなその様子にノーチェはビスケットを食べる手を止めて、小首を傾げる。

「…………なあ、アンタ、どうかしたの…………」

 普段なら率先して菓子類に飛び付きそうな男が一度も手をつけないことが気になったのだろう。ノーチェは思わず疑問を口にすると、終焉は「ああ、」と気が付いたと言わんばかりに微かに顔を上げて、彼の目を見る。

 「別に何もないよ」――そう言って腕を組んで終焉は力を抜いた。背凭れに体を委ね、静かに目を閉じる。ゆっくりと呼吸を繰り返し気を抜く様を見るに、終焉は仮眠を取っているようだった。
 夏の日差しが苦手そうな終焉のことだ。夏は日が昇るのが早く、終焉の眠りを妨げてしまうのかもしれない。かくいうノーチェも空が白み始める時間帯が早くなっていると気が付くと、どうしても眠気を胸に抱えたまま起きるしかなくなるのだ。
 二度寝をしようものなら遮光カーテン越しに明るくなる外が瞼を刺激する。――なら、先手を打って起きるのが得策だろう。

 疲れた様子の終焉に仕方ないよな、と小さく頷いて手の中に残る食べかけのビスケットを頬張る。屋敷には空調の類いは設備されていないが、やはり外よりも断然過ごしやすい空気が漂っているのだ。これもまた終焉の影響だとするのなら、疲れるのも無理はないだろう。
 薄いタオルケットでも掛けてやるのが得策だ。
 ノーチェは思い立ったように立ち上がってリーリエに席を外す旨を伝えると、女は親指と人差し指で丸を描き、中指から小指までを立たせて了承の意を示す。ノーチェが立ち上がったとしても終焉は瞼を動かすこともなく、ゆっくりと呼吸を繰り返して寝息を立てる。
 先日に気配がどうのと言っていた割には一度も目を覚まさない終焉を横目に見て、「相当眠いんだな」と思いながらもノーチェは階段を上った。

 本来ならば終焉の部屋にでも入って使い込んでいるであろう布団を掛けるのがよかったのだろうが――、何せ他人の部屋だ。了承もなくずけずけと足を踏み入れるような真似をしたくないノーチェは、わざわざ階段を上って与えられた部屋の、与えられたタオルケットを持ち出す。終焉を見習って畳んでいたタオルケットを両手で抱え、足を踏み外さないように階段を下りて、眠る終焉へとそれを掛けてやる。
 日の光が苦手だという素振りを何度も見せ付けられているからか――、ノーチェは終焉の顔までを覆い隠すようにタオルケットをかぶせてしまって、リーリエが大きく笑った。

「流石にそれは起きたとき吃驚すると思うわよ!」

 腹を抱え、目尻に涙を浮かべる様子を見て彼は内心「煩いな」なんて思いながらもずるずるとタオルケットを下ろして顔を出してやる。リーリエの笑いは止まることがないが、これだけ騒がしいというのに終焉は目を閉じたまま微動だにせず寝息を立てたままだった。
 これだけ煩いのによく眠れるものだと安堵の息を吐きながら、「…………うるさい」と一言。地を這うようなじとっとした目付きを配らせてみれば、悪びれる様子もなくリーリエは「だって面白いんだもん」と唇を尖らせた。

「……………………その酒瓶がどうなってもいいんだな」
「あらやだごめんなさい。私が悪かったわ」

 ちらりと敵意を剥き出してみれば、リーリエは両手で酒を抱き抱え、咄嗟に真顔で謝罪の言葉を口にする。命よりも大事だと思われているらしいそれは、かなりの度数を誇る強い酒だ。酒豪だろうか――そんな考えを他所にノーチェは終焉の顔をじっと見つめた。
 肌の白さは最早見慣れたものだ。その白さに映える黒い睫毛は長く、整った顔立ちは美形そのもの。顔付きが凛々しい所為か、今回は「美人」という言葉はあまり当てはまらないような気がするのは気のせいだろうか――。
 本当綺麗な顔立ちしているわよねぇ、と拗ねるような声色がひとつ。リーリエは、男だというのに女のような顔立ちをしている終焉に納得がいかないのだろう。ソファーの背凭れに寄り掛かり、体を仰け反らせて唇を尖らせている様子が安易に想像つくものだから、ノーチェは振り返ることもせず「…………そうだな」と一言。ノーチェもまた整った顔立ちではあるが、それよりも遥かに綺麗だと思わせるのだ。
 この顔立ちで苦労はしたことがあるのだろうか――ぼんやりと終焉の顔を眺めていると、リーリエはポツリと言葉を洩らす。

「そんな顔だから襲われんのよ」

 すらりとした手袋に覆われた指が取り出したのは一本の煙草だった。
 静まり返った屋敷の中で女の声はやけに大きく響いた気がした。ノーチェはリーリエの言葉にゆっくりと、耳を疑うように振り返ってみれば、女は火を点けた煙草を吸い、ふぅ、と白い煙を吐き出す。ドレス姿でふんぞり返るように足を組み、ソファーに座る様は誰よりも似合っているような気がしてならなかった。
 知らなかったでしょう、とリーリエは呟く。それに素直に頷いてみれば、女は確信を得るように「やっぱりね」と呆れがちに微笑んだ。

 当然のごとくノーチェは終焉の物事を多く知らない。平たく言えば語られることがないのだ。彼はあくまで「奴隷」であり、終焉は買い主のようなもの。実際は買われたわけではないが――、ノーチェは必要以上に踏み込むことも、詮索することもする気はなかった。
 たとえ何度奇妙な違和感を覚えさせられたとしても、深いところまで足を踏み入れる気はなかったのだ。
 終焉もそんな彼に甘えていたのだろう。――いや、ノーチェが奴隷であるからこそ、可笑しなものを吹き込まないようにしていたのかもしれない。対等を望みながら隠し事をし続けるのも、終焉にとって知られたくないものを知られるわけにはいかないのだ。
 ――リーリエ曰く、終焉はルフランに来た当初に名も知らぬ男に体を求められたのだ。

 その頃の男は今とは打ってかわって大人しく、密やかで――まるでユリの花の如くおしとやかな――それこそ淑女のような男だった。物憂いたような静かな瞳も、女のように艶やかな唇も、長く伸びた髪も魅力的な存在だった。威圧的な態度も見受けられないほどに物静かで、何を言おうとも反論することもなかった。
 そんな男がある夜、やけに遅く帰ってきたことがある。服は僅かに乱れ、自慢の黒髪は微かに艶を失っていた。どこか俯きがちの表情は相変わらず読めなかったが――まとう雰囲気が一変したことはよく分かった。
 鉄の香りが鼻を突くのだ。つん、として思わず顔を顰めたくなるような酸っぱい香り。それが男の体から仄かに漂っているのは明白だった。
 その頃に終焉は人が変わったように人を寄せ付けなくなったという――。

 ふう、と白い煙を口から吐いて「興味ないでしょ」と小さく笑った。足を組みながら苦笑する様は呆れた母親のような表情をしているのだが、話を聞いたノーチェはただ茫然とリーリエを眺めた後、ちらりと終焉の方へと視線を流す。
 男の表情は静かだった。眠っているのだから当然だとは思えるのだが、湛える静けさがまるで違うのだ。謂うならば雪が降り積もる冬の静けさのような、波ひとつ立たない泉の水のような――脆い静寂がぼんやりとそこにある。
 ゆっくりと呼吸を繰り返して眠る姿を見て、ノーチェはあくまで自分が奴隷ではなく一人の男として、終焉と出会っていたら何を思うのかをぼんやりとする頭で考える。
 男は酷く静かな存在だった。それでいて威圧的な雰囲気も瞳も、その容姿によく見合うほどの鋭さを兼ね備えている。その実力は計り知れないもので、一風変わった存在に彼は目を惹かれていたのかもしれない。
 ――何せノーチェの一族には黒髪など居ないからだ。

 白髪に反転した瞳、目元に逆三角の模様と、胸元と右手の甲にある模様が〝ニュクスの遣い〟の特徴だ。そんな存在を見慣れていれば嫌でも他の存在に目を奪われることも多くなるだろう。特に相反する色合いを持つ黒ならば、珍しいと思わざるを得ないほどだ。
 奴隷でなければ彼は興味本位で近付き、愛されていることもなかったのだろう――。

「…………別に……」
「うん?」
「興味……ないわけじゃない……」

 ポツリと小さく呟いたノーチェの言葉にリーリエは瞬きをひとつ。あら本当、なんて返事して予想外とも言えるような振る舞いを取る。恐らくリーリエは彼が終焉に興味を持つこと自体が予想外のものだったのだろう。「何」とノーチェが訝しげな目を向けてみれば、女は「いいえ~」と気分良さげにタバコを掻き消した。
 流石魔女と呼ばれるだけあって女も魔法の類いは扱えるようだ。一度燃えていたタバコを火傷も気にせずぐっと握り締めると、瞬く間に煙と共にそれが手のひらから消え去った。種も仕掛けもまるで分からないその芸に、ノーチェは「変なやつ」とだけ喉の奥に言葉を押し留めると、再び終焉の顔を何気なく見つめる。
 綺麗な顔立ちと威圧的な態度を持っていても男は嫌な目に遭ったのだ。それが十分に理解できるノーチェは「アンタも苦労してんのな」なんてリーリエに聞こえるか聞こえないかの声で呟いて、ぼんやりと顔を眺める。綺麗に整った顔立ちに疲労の色は見えなかった。
 奴隷と主人である以上、男に付き添っていなければならない。
 終焉は認めることこそはないが、彼は未だ奴隷としての意識は失っていないつもりだった。同情するような感情や分かち合うような感覚を持つのは二の次だろう。

「…………じゃ、私からもひとつ訊くわ」

 ――不意にノーチェの耳に女の声が届いた。振り返ればリーリエは人差し指をノーチェに向けて、「終焉は寝てるようだしねぇ」と軽く笑う。マニキュアが塗られた爪が星屑のようにキラキラと瞬いているような気がした。鋭くなる女の瞳が、ノーチェの体を射抜く。

「あんた、自分の意志で終焉の傍に居るの?」
「…………?」

 胸中を探るような言葉遣いが酷く不快になる中、外では煩い虫の鳴き声が強く強く響いているような気がした。