悪意なき助言

「……気を抜きすぎてろくな話もできず悪かったな」
「あっはっは! いーのよー!」

 すっかり日が傾いて燃えるような色が空を焼き付くす中、リーリエは大きく笑いながら終焉の肩を叩く。その顔は赤く、混じる息には酒独特の香りが強く匂っていて、終焉は思わず眉を顰めた。くしゃりと歪みかける表情を見て、この程度なら死なないんだな、とノーチェはそれを眺める。
 リーリエが携えていた一升瓶は空になり、代わりにリーリエは機嫌がよくなった。女の頭から胸元まである、それ相応の量を女は一人で全て飲み干してしまったのだ。度数はそれなりに高かった筈だが、リーリエの態度は多少大きくなった程度で随分と酒に強い印象を抱く。
 ノーチェは終焉がリーリエに肩を叩かれている光景を見ながらぼんやりと思考を巡らせる。

 自分の意志で終焉の傍に居るのかと問われたノーチェは僅かに首を傾げて「どういう意味だ」と小さく問い掛けた。終焉が眠る間に言われている以上、聞かれたくもない話なのだと思い、最低限の配慮を踏まえた上でだ。案の定終焉は起きる様子もなくすぅすぅと寝息を立ててままだった。
 リーリエは「別に深い意味もないわよ」とカラカラと笑うが、その表情は至って真面目で笑っているようには到底思えない。ノーチェはゆっくりと体を女の方へと向き直すと、「……嘘だろ」と口を溢す。

「…………何か意味、あるんだろ……そういう顔付きしてんだよ…………」

 伊達に顔色を窺って生きてきたわけではない。――そう言いたげにノーチェはソファーに座るリーリエの目を見ていて、女は「そうねぇ」と口許を緩める。
 確かに深い意味はない。しかし、意味がない話でもない。そう言うような表情で微かに首を傾げて、リーリエはノーチェの顔をじっくりと眺めるように見つめていた。金色の髪が僅かに揺れる。
 「そのまんまの意味よ」――と、女が静かに唇を開いた。

「自分の意志で終焉と居るわけじゃないならとっとと身を引きなさい。あんたもそれとなく分かっているんでしょう? ただでさえ奴隷なのに、終焉と居れば何かの厄介事に巻き込まれそうなことくらい」

 例えば誰かが死んだり、例えば自分が痛め付けられたり――女が例に挙げる事は悉くノーチェがその身を以て体験したことだ。元々殴られることが当然だった彼にとって最早暴力は終焉の影響ですらないと思っていたのだが、そうということだけではないようだ。
 特に意志がなければ終焉に近付くなと女は言った。明確な理由は明言されず、ただ近付くなと言うのだ。
 ノーチェは僅かに眉を顰め、リーリエの表情を読もうとする。――しかし、女の表情はまるで霧がかった森の中のように意図も汲めず、いくら顔色を窺っても真意も読めない。何かを企んでいるのかと思えば、そうではないと言うように「警戒しないの」と笑い、ひらひらと手を振る。

「私、あんたの為に言ってんのよ。ねえ、痛い目見たくないでしょう?」

 今更何を言っているのだと彼は言いたかった。だが、喉の奥底に詰まるような違和感が胸に募り、「ああ、またか」と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
 女は何かを知っている。それは、どこかノーチェにも関係があると言わんばかりの言葉遣いだった。何かを教えてくれそうにないくせに、遠回しに「気が付け」と言わんばかりの胸を抉るような口振りに、彼は不快感を覚え始める。腹の中に納めた筈の違和感が沸々と沸き立ち、妙な焦りさえも覚えてくるのだ。
 リーリエはノーチェの返事を待たずして、ソファーに体を沈めながら言葉を紡ぐ。「自分の意志でないなら離れなさい」「これ以上可笑しな目に遭いたくないなら別の人間に匿ってもらいなさい」――そういったノーチェの身を案ずるような言葉ばかりを述べていくのだ。

 彼はそれに、これ以上に安全な場所があるのかを問いたくなった。

 勿論この街には〝教会〟という街を支配する組織がある。彼らの元に居るならば〝商人〟もノーチェ自身には手を出せないだろう。――だが、〝教会〟も一風変わった――終焉を嫌う人間たちばかりが居るのだ。ノーチェが終焉と関わっていたと知れば、彼も無事ではいられないだろう。
 終焉はいやに不思議な存在だった。何ものにも染められない黒に身を包み、街から離れた屋敷にひっそりと隠れて暮らしている。――にも拘らず、男はノーチェを白昼堂々奪い去った。自分が人に注目されようとも、彼を「奴隷」という枷から解き放とうとしたのだ。
 リーリエの言葉にノーチェは返す言葉を決めた。一度呼吸を繰り返し、胸の奥に溜まった淀んだ酸素を肺から押し出す。酸素の入れ換えをすると頭が冴えるような気がして、焦る気持ちが落ち着くような気分に陥った。その様子を見て、女は現実を噛み締めるよう、数回瞬きをすると微笑む。

 終焉に恩義を感じていないわけではない。しかし、大それた恩を返してほしいと思っていない存在であることは明白だ。終焉が望むのはノーチェから与えられる死だけ。それを叶えてやれるかと訊かれれば口ごもることは目に見えているが、ノーチェは自分が何かしらの恩を返せない程度にまで落ちぶれた人間ではない、と思っているつもりであった。

「…………アンタが何を知ってんのか分からない…………分からないけど……この人と一緒に居る居ないを決めんのはアンタじゃない……俺だ」

 俺はまだここの居心地がいいから居るだけ。ノーチェははっきりとした口調でリーリエに告げると、女は満足げに頷いて「そう」とだけ言った。「そう、よかった」そう言って肩に提げていた酒瓶の蓋に手を掛ける。
 相変わらず確信に触れらるような理由は語られることはなかった。彼はそれが気に食わず咄嗟に「なあ」と声をかける。「なあ、アンタ何知ってんの」――そう言おうとして、ポン、と心地のいい開封の音が鳴る。

「さ~! 酒盛りするわよ~!!」

 ――そこまで思い出してノーチェは酷く頭が痛んだ。
 酒を飲み始めたリーリエのテンションは異様に高く、何かを言えば食って掛かるような――平たく言えば面倒臭い女へと変貌した。笑うところではないところで酷く大笑いして、膝を叩いては肩を震わせてただ笑うのだ。

 笑い上戸なのだろう。耳障りだと言わんばかりにノーチェは耳を塞ぐと、不意に頭に何かがのし掛かる。彼はびくりと肩を震わせると、頭に載せられたのが終焉の手のひらなのだとすぐに分かった。
 髪に埋めるように、毛髪の柔さを堪能するようにくしゃりと撫でて「全く、騒がしくて寝られやしない」と低い声を洩らしながら男がゆっくりと立ち上がる。すると、ノーチェがかけたタオルケットがぱさりと音を立てて終焉の足元へと落ちた。赤黒い絨毯の上に落ちていったタオルケットを拾い上げ、男が不思議そうにしげしげと見つめると、彼は咄嗟に口を出す。

 「かけた方がいいと思って」――そう言えば終焉は口許だけで微笑むと、有り難うと言ってするりとノーチェから手を離した。
 終焉は酔った風のリーリエの相手に勤しむようノーチェを置き去りにしたが、彼は文句のひとつも出てきやしない。何せノーチェ一人では女の相手をするには手に負えない。大きく笑うリーリエに鬱陶しげに顔を顰める終焉を見て、ほう、と吐息を吐く。
 起きてくれてよかったという感覚と、起きていなければ話を聞き出せたのではないかという感覚が頭の中を駆け巡り、酷く倦怠感を覚えたのだった。
 ――そうして気が付いた頃には日が傾き、虫の鳴き声も落ち着いてきて過ごしやすくなりつつある時間にまで経っていた。女の酒盛りは夕暮れになるまで落ち着くことがなく、終焉やノーチェは確かに嫌気を覚えていたのだ。重い腰を上げるように席を立つリーリエの姿を見て二人が安堵の息を吐いたのは言うまでもない。

 終焉は謝罪の言葉を紡いだが、その表情は早く帰れと言わんばかりの無表情だ。案の定リーリエもそれに気が付いているのだろう――「あんたちょっとムカつくわね」なんて呟いて、終焉の額を人差し指でつつく。長い爪が鬱陶しかったのだろうか、酷く嫌そうに男は身を仰け反らせて、同時に手を払った。
 彼らは仲がよく昔ながらの知り合いだと言われても違和感はないだろう。寧ろ男女の仲だと言われても彼はそれに納得してしまいそうになるのだが――、終焉はそうではないようだ。
 からかわれている男はポツリポツリと何かを呟いているが、ノーチェの耳はそれを聞き届けられなかった。ただ、目が合ったリーリエが上機嫌に手を振り、「またね」と言っていることはよく分かる。結局何をしに来たのかも理解できないままノーチェは「ん」と返事すると、女はにっこりと笑った。

「じゃああんた達、ちゃんとお祭り行くわよ! 忘れないでよね」
「一人で行けばいい話だろう」
「私が迷わないとでも思ってるの!?」

 自信ありげに両手を腰に当て、胸を張る女に終焉が遂に溜め息を大きく吐いた。森で暮らしているから仕方がないな、と目を背けながら額に手を宛がう仕草はまさに呆れた様子そのものだ。あまりにも人間らしい素振りにノーチェは「この人も人間らしいところがあるのか」と思うと、途端に今までの感覚が馬鹿らしく思えてくる。

 男は生きている。ノーチェと同じよう、食事を摂り、息を繰り返し、感情を表すことができる。傍に居るだけで何かの影響を受けるような厄介な存在ではないことは確かだ、と彼は考えを投げ捨てた。

 リーリエは扉に手を掛けて手を振りながら外へ出る。ノーチェは控えめながらも手を振り返したが、終焉は腕を組んだまま微動だにしなかった。扉の閉まる音は暑苦しい外との繋がりを断ち切るようなものに聞こえ、慣れない関わりに詰まっていた息をほう、と吐き出す。
 傍らで終焉が「疲れたろう」と一人呟くように言葉を洩らした。

「………………まあ……あの人の相手はちょっと……」

 ――そうノーチェが遠慮がちに呟くと、終焉が微かに笑って「そうだろうな」と言った。

 夕食は相変わらずまともな手料理と甘い洋菓子が並ぶ。最早変えようもない事実に彼は口を出さないまま「美味しい」と言って平らげると、男はやはり満足そうに頷いた。
 ノーチェは与えられた部屋に足を踏み入れ、倒れ込むように寝具へと体を叩き付ける。ぼすん、と柔らかな生地に体が包まれる感覚はいつまで経っても新鮮で、不意に「あとどれくらい堪能できるのだろう」と考え込む。

 頭の中で繰り返し木霊するリーリエの言葉が酷く耳障りだった。

 もそもそと薄い布団へ潜り込むノーチェの思考を、「用がないなら離れなさい」と繰り返し呟くリーリエの言葉が邪魔をする。

 ――確かに傍に居る理由はないのだ。ノーチェはただ拉致されただけであって、無理に体の自由を縛られているわけではない。寧ろその逆――奴隷だと言い聞かせられていた頃に比べれば遥かに自由を得ているのだ。
 そんな彼が何故終焉と共に居るのかと言えば理由は簡単だ。この街にノーチェが知る人間も、ノーチェを欲しがる人間も――〝商人〟を除いて――誰一人として居ないからだ。
 あくまで奴隷としての生き方が体に染み付いた彼にあるのは「自分で行動する意志」ではなく、「ただ相手に付き従う」ことのみ。今更足掻いたところで何の意味も持たないという先入観がノーチェの行動を邪魔するのだ。
 ――そんな状況下で終焉の元を離れたところで〝商人〟に見付かり、再び奴隷としての生活を強いられることは目に見えている。ならば多少の鎖が取れた今、できることの最小限を、まだしていたいと思えることをやろうと思えるのだ。

 ゆっくりと枕に顔を埋め、ノーチェは落ちてくる瞼をゆっくりと下ろし、目を閉じる。身の回りのことを手伝うようになってそれなりの眠気がノーチェの意識を心地よく微睡ませる。目を閉じて呼吸をしたらすぐに眩しい朝が来るのは十分すぎるほど理解していて、肩の荷を下ろすようにふぅ、と小さく息を吐いた。
 肺の中に残る酸素がなくなる感覚は荒れかけた気持ちを落ち着かせてくれる。
 ――明日も早い。早く寝よう。
 ゆっくりと意識を手放すノーチェの耳に梟の鳴き声と、扉が閉まる微かな音が届いていた。