懐柔される青年

 二切れのサンドイッチを無くすことは造作もないことであるが、ノーチェにとってはそこそこの体力を奪うものになったのだろう。リビングの椅子に凭れ掛かりながら溜め息を吐く様は疲労を表しているように思え、終焉は疲労しきったノーチェを見ながら「無理をさせたか……?」と首を傾げる。
 良かれと思ってやったことが実は裏目に出ていた、ということは少なくはない。終焉は一般的な成人男性よりも微かに痩せた雰囲気のノーチェに体力をつけてほしくて無理にでも与えていたが、あまり良いとは言えなかった行動に再び思考を巡らせる。
 あのまま放置していて彼は「絶対に口にしなかった」と言い切れるのであれば、終焉の行動は――正解とは言い難いが――強ち間違いではなかったのだろう。
 しかし、後半になるとノーチェは自ら食事しているようにも見えてしまって、自分の行動は余計だったのかと考えざるを得ない。
 もしかすると人前では口にしたがらないのかもしれない――彼の様子が気になって目の前に座るという行動は、彼にとって大きなストレスにでもなっていたのではないか。
 そんな考えが終焉を責めるように腹の中から語り掛ける。やはりどこまでも気の回らない男だと――。

「あ……あの」
「ん?」

 茫然としながら思考に意識を飛ばしていると、不意にノーチェが終焉に話し掛ける。背筋を比較的伸ばして顔を終焉に向けて、一度言い淀んでしまう。
 男はいやに綺麗な顔立ちをしている。男であるノーチェから見てもやはり「美人だ」と思うほどだ。
 透き通る赤と金の瞳、黒く艶のある長い髪が特徴的で、更に料理もお手の物だときたものだ。終焉のような人物と将来を約束された人物はさぞ羨まれることだろう。
 ――けれど、その分目を縦に切りつけた傷痕が目立ってしまって、人知れず勿体ないと思ってしまう。自分がいくら傷付けられても勿体ないなどと思われたことはなかったが、終焉のキメ細かい肌に傷痕は似合わなくて――何故だか酷く申し訳ない気持ちになってしまったのだ。
 茫然と終焉を見上げるノーチェは何かに意識を奪われているようで、終焉は軽く目を閉じると「どうした」と呟く。「何か良くないことがあったのか」と。
 すると、ノーチェはハッとした様子で瞬きをする。「別に、何でもない、けど」と口を洩らして、顔を直視していると言葉が失われると悟ったのか、終焉から目を逸らして言葉を紡ぐ。

「……ご馳走さまでした」

 ――なんて、然程気にしない言葉を。
 小さくもはっきりと告げられた言葉。それに終焉は「お粗末様」と呟いたが、同時に「気にしなくていいんだが」とも告げる。

「悪いと思ったのなら『悪い』、美味いと思ったのなら『美味い』……その程度の言葉遣いで十分だ。妙な距離感など求めてはいない」

 そう言って終焉は一度ノーチェの頭を撫でると、ほんの少し寂しげに目を伏せ、片付けてくると言って空になった皿を持ちながら再び厨房の方へと足を進める。扉の向こうはいくつもの道具が揃っているのだろう。
 何をするわけでもなく、取り残されたノーチェはふとテーブルに残された芳ばしい香りを漂わせる皿へと目を移す。先程のサンドイッチには耳が無かったのだから、皿の上に盛られているのはパンの耳を使った終焉お手製のラスクだろう。
 ノーチェはそれを見つめて微かに首を傾げる。油で揚げていたような音はなかった。ならば、焼いて作られたラスクなのだろう。狐色に彩られた芳ばしい色のそれに振り掛けられた白い砂糖が更に美味しそうに見た目を引き立てる。
 ――いや、恐らく美味しいのだ。先程のサンドイッチも、先日の料理も男が作ったとは思えない出来だった。忘れていた味覚を思い出させるような優しい味だった。きっと、自作のラスクもそれはそれはいい出来なのだろう。
 実際食べようと思わない所為で味など分からないのだが――。
 ノーチェはそれが勿体ないとは思わなかったが、特別食べたくはないとも思わなかった。だが――、いつかまた食欲が湧いた頃にでももらおうかと思うほどには味が気になってしまう。
 満腹になった腹を微かに擦ってノーチェは茫然とそれを見つめていた。
 今日は何をしよう、きっと何かしらの命令をもらうかもしれない――そう思いながら扉の向こうへと消えた終焉を今か今かと待っていると、きぃ、と小さな音が鳴り響いた。
 見れば終焉がエプロンを軽く畳みながらノーチェの元へ歩み寄ってくる。ここに洗濯機のような類いは一切ないことから、男はエプロンをどこかにある洗濯機へと洗いに出そうと思っているのだろう。
 それを裏付けるように終焉は「少々はしゃいでしまった」とどこか遠くを見つめながら眉を顰める。らしくない、などと呟いて呆れ気味に溜め息を吐く。一体何があったのかと問いたくなったが、――ふと終焉と目が合うとノーチェはぴくりと手指を微かに動かして、「あの」と呟く。

「今日は何を……?」

 顔色を窺うようにノーチェは小さく声を掛けると、終焉は意図が理解できなかったかのようにゆっくりと首を傾げる。それに釣られるようにノーチェもまた微かに首を傾げれば、終焉は「何故私に問い掛ける?」と意図を探るように訊き直す。
 だって、今まで何を言わずとも命令されたから。
 そう言おうとして――ノーチェは咄嗟に口を閉ざした。何せ昨夜からノーチェは終焉にしつこいほど「奴隷として買ったのではない」と告げてくるのだ。先程の口調の指摘も、恐らく対等に接して欲しいという願いからなのだろう。
 ――かと言って今まで奴隷としての扱いを受けてきたノーチェが、今更全てを元通りにしようなどあまりにも無理がある。体に染み付いた虚無感、主人から振るわれる暴力、他方から飛んでくる軽蔑的な目線、酷い罵倒の数々――どれもこれも普通の暮らしをしていれば到底味わえない出来事だ。
 攫われた今、それらを味わっていないというのはあまりにも新鮮で、異端に最も近い。その出来事に慣れないノーチェはほんの少し伏し目がちになった終焉のオッドアイを見つめて、どういうわけだか「怒らせてしまった」という先入観に苛まれる。

「――あ…………いや……アンタは今日、何すんのかな、と……」

 咄嗟に思い付いた誤魔化しが口を突いて出た時に、見苦しいと自分で思ったのは同時だった。
 見苦しい、目も当てられない。終焉やノーチェ以外がこの場に居たら誰もがそう思っただろう。勿論、誤魔化すために呟いたノーチェ自身もまた――表情には表れないが――焦るような気持ちが募ったことを自覚する。
 違和感。そこに広がったのは確かな違和感そのもの。不自然な取り繕いだ。寧ろそのまま最後まで言ってしまって、再び終焉を不機嫌にさせてしまう方が良かったのではないかと思うほど。
 ――しかし、終焉は意に介することもなく「ああ」と思い至ったような声を上げ、真っ直ぐにノーチェを見つめ直す頃には伏し目がちだった瞳に探るような色は見られなかった。

「私は少し留守にしようと思っている。貴方の服は古いものだし、大きさが合わないだろう? 街へ赴いて服を見繕ってこようと思っているよ」

 弁明が功を奏したのか、終焉は不機嫌になる様子はなかった。しかし、終焉がノーチェの服を見繕う――その言葉にハッとしたノーチェは考えるよりも早く「いや」と口を洩らす。

「そんな、俺別に服は」
「ああいい、代金は気にするな」
「ち、違う。そうじゃない……俺はただ、俺にそういうことしなくてもいいって思って……」

 不意に終焉が微かに口角を上げ、ふと笑った。突然の表情の変化にノーチェはどこか笑う要素があったのかと訝しげな眼差しを投げると、終焉はノーチェに手を伸ばし、軽く頭を撫でる。

「何もしなくていい、何も気にしなくていい。私が留守にしている間は頼んだぞ」

 そうだな、どうせならこの屋敷を見て回ってもいいかもな――まるで我が子を愛でる父親のような眼差しがノーチェをじっと捉えていて、男は本当に彼を愛しているのだと思わざるを得ないほどだった。
 初めて会う筈なのに、相手は初めてではなさそうな振る舞い――「何で…………」思わずノーチェがそう呟くと、終焉は「愛しているから」と何食わぬ顔でそう答える。
 ――テーブルに取り残された手作りのラスク。終焉はノーチェから手を離し、それをひとつ摘まむと、「ああ、いい出来だ」と納得したように呟きを洩らした。