己の意思とは反して蠢くそれを見た後は決まって息が苦しかった。
負け犬のように逃げてきたロレンツは、呼吸を整えるために路地裏へと隠れ込んだ。そこは街灯も少なく、人通りもない。辺りにはいくつもの建物が聳え立っているが、街灯の少なさから、夜になれば人の気配など感じさせないほど静かになる場所だ。
家を出たロレンツの引っ越し先があるが、まだ距離があり、息が苦しい彼にとっては酷く長い距離だ。目眩も覚えてしまった今、彼は路地裏に身を隠し、体を休めることを率先した。
壁に凭れ掛かり、ロレンツはほう、と息を吐く。ゆっくりと、丁寧に。当たり前にできる筈が、どうにも難しく感じられるのは気の所為だろうか――苦戦する呼吸に、彼の頭が回らなくなっていく。
昼もとうに過ぎた空は青く、日が高く昇っているのが辛うじて見てとれた。今日もいい天気だなぁ、なんて暢気に頭の片隅で考える。当たり前の呼吸を取り戻すには、誰よりも冷静に、落ち着かなければならなかった。
このときばかりはロレンツも不良ではいられない。
すぅ、と息を吸って、白い雲の流れを目で追っていく。
これだけ天気が良ければ洗濯物も乾きやすいだろう。頬を撫でる爽やかな風は、汗ばんだ彼の体を冷まして、頭の中にある霧を晴らしていくよう。
繰り返す深呼吸の中で何となく平和だった日常を思い返して、彼は小さく笑った。
どれだけ性格が悪くなろうが、ロレンツは根は優しい男だ。
壁に身を預けて体を休める彼の元に、一匹の野良猫が歩いてくる。それは、ロレンツが気紛れに見付けては餌をやって、可愛がる三毛猫だ。
腹を空かせたのか、それとも単純にロレンツを見付けたのかは分からない。
三毛猫は黄色の瞳を瞬かせると、彼の手元にまで歩いてきて頭を擦り付ける。くるくると喉を鳴らし、手のひらに頭を載せるのだ。
ただの気紛れだとしても、今の彼には十分すぎるほどの癒やしだった。
呼吸が整ってきて自由が利くようになった体を動かし、ロレンツは三毛猫の喉を掻いてやる。指先で掻いて、ころころと位置を変える頭を撫でてやって、上手く取れなかったであろう目やにを取ってやる。
あとで飯やるから。そう呟けば三毛猫はひと鳴きして、満足げにその場を去っていった。
夜になれば彼女はやって来るだろう。
いくらか体が楽になった彼は体を起こし、深く息を吐いた。
息が苦しくなったあとは決まって酷い疲労感に苛まれてしまう。体は鉛のように重く、背中には重りが乗せられているのではないかと思うほどに気怠い。時折胸には違和感が残り、思わず胸元を握り締める仕草が最近は特に増えた気がする。
歳だろうか。――なんて思うほど、彼は頭が悪くはない。
思い当たる節があって、彼は海のように深い青色の瞳を僅かに細める。
信じたくはない。だが、そうでなければ説明はつかない。
欲しくもなかったそれが体を蝕んでいるなど、ロレンツは信じたくなかった。
「――……誰だ」
――不意に彼の目の前がいっそう暗くなる。
建物の壁と壁の間。影の差す路地裏に身を潜めていた分、日の下よりは明らかに暗かった。それが、よりいっそう暗くなって、足音が聞こえるものだから、ロレンツの警戒心が揺さぶられる。
体が重い以上、喧嘩を売られたら買える自信はない。かと言って、逃げ切れる自信もない。
――それでも、ロレンツは精一杯の睨みを利かせて、やって来たそれを見上げてやった。
ロレンツの目の前に現れたのは黒い男。髪から服に至るまで、頭から足の先まで黒に身を包んだ男だ。
目付きの悪いそれは、つい先程まで見守っていた魔法使いの一人で、彼は僅かに体を強張らせてしまう。
後をつけていたのが気付かれたのだろうか。
顔には出さない不安が、路地裏の向こうから押し寄せてくるように、彼の背筋が凍った。
「…………」
男は一言も話さなかった。――唇を開こうとはしなかった。
ただ、ロレンツの前に屈み込んで、彼の目を見る。仄暗い三白眼が、ロレンツの頭の中を覗き込むように一心に見つめてくる。
特別責め立てるわけではない。しかし、何らかの意図を孕んでいるのは確かだ。
「…………何だ……」
堪らず静寂を破ったのはロレンツの方。思わず唇を開き、小さく退きながらその目を睨む。ずる、と下半身を引き摺る所為か、石畳の感触が布を伝った。
家に帰ったら即洗濯だな――なんて思いながらも、彼は一定の距離を保つ。
すると、――男の首からぶら下がった紫の宝石が煌めいた。
『――お前、宝石を持っていないのか?』
頭の中に直接響くような声。それに驚いて彼は咄嗟に耳を塞ぐが、頭が悪いわけではない。耳を塞ぐという行為が無駄であることに気が付き、徐に手を下げる。
声の主は確かに目の前の男だろう。声が出ないのか、喋りたくないのか――魔法で言葉を紡いでくる所為で、言葉が頭の中で反芻する。
気分の悪い今のロレンツにとって、それはあまりにも気味の悪い声だった。
「……だから何だ……俺は、好きでこんなものを持ったんじゃない……」
まるで鐘の音の響きが頭の中で広がるような感覚に、ロレンツは小さく目を細める。三半規管が狂わされるように、再び目眩を覚えたような気がした。
ロレンツが大人しく男の問いに答えると、男の視線が小さく下を向く。気分の悪そうなロレンツに気を使うように、「そうか」と言わんばかりの仕草に、彼は眉を顰めた。
何か思うところがあるのだろうか。
彼ら魔法使いが宝石を持てと言ったのは、あくまで魔法を扱いたい人間に対してのみだ。魔法を扱おうとしなければ、魔力を消費することもない。
ロレンツは初めからそんなものに頼ろうとは思っていないのだ。だからこそ、宝石を持つなんていう選択肢はなかった。
それが気に食わないのだろうか――。
黒髪の男は暫くの間、俯くように地面を見つめていた。
対するロレンツはじっと目の前の男を見つめていて、胸の内に警戒心を忍ばせる。何をされても多少の対処はできるよう、指先にまで神経を張り巡らせていた。
ふと、男が小さく溜め息を吐く。服の隙間から、僅かに開いた唇が見えた。
首から提げているアメジストは煌めきを失い、男が魔法を使わないことを示唆している。ロレンツの状態を見抜いたのか――男は服に隠れた喉元に手を添えて、息苦しそうに呼吸をする。
喉元を掠めるような呼気。顔を顰めながら懸命に何かをしようとする素振りに、彼は瞬きをする。
――声が出せないのか……?
ふと脳裏を掠める可能性に、ロレンツの警戒心が僅かに緩む。
頭の中を響くような声が、彼の体調を悪くしていると気が付いて、わざわざ声を出そうとしているのだ。
だが、男は何らかの原因により声を出せないでいる。多少の無理をすれば何とか紡げるのか、懸命に絞り出そうとする様子は、あまりにも辛そうだった。
「……そうなるなら、別に気を遣わないで――」
以前同様、彼の中に残っている僅かな良心が刺激された。
頬に汗が伝い、息苦しそうな男に彼は手を伸ばす。こちらの体調が悪くなっていた筈なのに、今では相手の方が酷く辛そうで見ていられなかった。
背中を擦ろうとしたのか、肩を掴んで止めようとしたのか、彼には分からない。
何故なら、ロレンツの言動は男が漸く溢した「ぁ、」という呟きに掻き消されたからだ。
目付きの悪さを際立たせるように低い声だった。長年使っていなかった喉を無理矢理働かせたような、あまりにも小さな声だった。
聞き耳を立てていなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さなそれにロレンツはほんの少し安堵の息を吐く。
そして――
「…………お、前……この、ままだと……死ぬぞ……」
――ロレンツは紡ぐ言葉を失った。