「ああ、待ちなさい。お前にはまだ話すことがある」
不意に届く低い声にヴェルダリアはふと足を止める。何かと振り返って見れば、男は「こちらへ」と言って誰かを手招いたようだ。漸く暗さにも慣れてきた瞳に映る一つの面影。恐れるように妙に不安そうな足取りに彼は小さな苛立ちを覚えると、それの顔が視認出来るところでピタリと足音が止まった。
若草よりも鈍く、暗いローブを纏っているであろうそれに、ヴェルダリアは「ああ、お前か」と呟く。出入り口から差し込む小さな光が、馬の形をした留め具を主張するかのように反射した。
そこに居たのは――〝商人〟の人間だった。
手に包帯を巻いて大袈裟な見た目をするその男は、昨日ヴェルダリアが手を踏み躙った例の男だ。それはヴェルダリアを見るや否やぐっと身を縮めて、微かにモーゼの背に隠れるよう、数歩後ろへと下がる。どうやら恐怖心を植え付けられた所為でヴェルダリアに対して良い印象を抱いていないようだ。
彼はそれに虫を見るような目を向けながら、「話すことって?」と唇を尖らせる。「内容によっては許さない」――そんな口振りであった。なぁに、そう重い話ではないよ、とモーゼは徐に顔を上げて笑う。
「この度、我々〝教会〟は〝商人〟と手を組むことになった。どうやら彼らにとって攫われた奴隷は、それはそれは価値があるようでね。我々の目的――〝終焉の者〟を殺すことと、利害が一致してしまったのだよ」
何食わぬ顔で言葉を紡ぐモーゼに、へえ、とヴェルダリアが後ろに顔を向ける。本当はお前とは手を取り合いたくない――そんな感情が〝商人〟から見て取れる。「そんなものこちらから願い下げだ」と思わず言葉が出そうになったが――それをヴェルダリアは呑み込むと、「せいぜい邪魔にならなきゃ良いけどなぁ」と嗤う。
あくまで終焉を殺せるのはヴェルダリアだけ。
気が付けば「終焉殺し」の異名さえ与えられていた彼は、何故周りが終焉を殺せるに至らないのか考えていた。恐らく基本的な戦闘技術が周りより遥かに上だからだ、と気が付くのに然程時間は掛からなかった。〝教会〟の人間達は剣などの道具や、体を使った物理的攻撃ではなく、魔法を使った攻撃が中心だからだろう。
終焉はその異質な存在から勿論物理的にも人を上回っていたが、魔力の貯蓄は他の何にも負けることはなく、その威力は絶大なものだという。その方が世界を終わらせるのにうってつけで、いくらか手間が省けるからだ。
そんな化け物にただの人間の魔法が通用するのか。
――結論から言えば、手のひらの上で転がされるだけで、足元にも及ばない。所詮あの男にとって人間など取るに足らない存在なのだ。
そこで抜擢されたのが外でもない彼、ヴェルダリアだった。彼は確かに魔力を持っているが、誰よりも接近戦に長けていて、遠距離派である終焉の懐に入れば傷をつけることも容易いほど。そうさせないよう、相手もまた気を遣い、自分へと近付かせないようにする様子が見て取れる。
その隙を突いて懐に入ってしまえば、ヴェルダリアは異名の通り、終焉を殺すことが出来るのだ。
唯一終焉の懐に入れるからだろう――その足手まといにならなけりゃ良いけどな、そう笑ったヴェルダリアの表情は相手を見下しているようで。まるで、いつの日にか邪魔をされることが分かっているような口振りだった。
その言葉に〝商人〟がぐっと歯を食い縛る。「どうしてこんな奴に従わなければいけないんだ」と言いたげにじろりと睨んでいて、恰も数十年に亘ってヴェルダリアを憎んでいるようにも見える。
因縁の再会を果たしたかのような光景にモーゼがくつくつと笑い、その間に水を差すように「話は以上だから、貴方は先に行っても良いよ」と〝商人〟に呟く。すると、〝商人〟は意表を突かれたように肩を震わせて、「こんな場所に居たくない」と言わんばかりにそそくさとヴェルダリアの傍らにある出入り口へ駆けていった。
「…………モーゼさんよぉ……もう良いだろ?」
俺も早く戻りたいんだけど。薄暗い地下室の寒さが少しずつ和らいでいく、早朝を過ぎた時間。鬱陶しいと言いたげな様子でヴェルダリアが眉を寄せながらモーゼに語り掛ける。こんなことをしている暇はないのだ、と。
それにモーゼは答えることなく――ぽつりと小さく呟く。
「ヴェルダリア、君は……一体どこまで何を知っているんだい?」
核心を突いてくるであろうそのはっきりとした口調に、ヴェルダリアはふと呆れていた表情を戻し、いくらか背の低いその顔を見る。
青年よりもいくらか大人で、しかし初老と言うにもどこか幼さを帯びた、まるで時が止まっているかのような謎めいた男。――その表情は相変わらず薄っぺらい笑みだけを浮かべていて、それ以外の表情は知らないのかと訊きたくなるほどだ。
その男が、じっと怪しい瞳でヴェルダリアの顔を覗いている。まるで、真実を見定めようとする目付きだった。
あまりにも鬱陶しい視線にヴェルダリアは「何が言いたい?」と訊けば、モーゼはゆっくりと人差し指をヴェルダリアの胸元に突き付ける。
「簡単さ。君はあまりにも〝終焉の者〟についてよく知っているものだから、一体『何』で、どこから来たのか気になるっていうものが人間の性だろう?――思えば、君だけがあれに匹敵する、というのが面白い話だ」
ぱきぱきと小さな音がヴェルダリアの耳に届く。その音の正体はモーゼの指先――モーゼが最も得意とする氷の魔法がヴェルダリアを脅す。胸元が微かに冷気を帯びていく感覚が襲うが、ヴェルダリアは依然モーゼを見つめたまま微動だにしなかった。
それに毒気を抜かれたのだろう。モーゼは「少しくらい慌ててくれても良いじゃないか」と不貞腐れるように手を下ろす。これっぽっちの恐怖などまるで感じていない様子のヴェルダリアは一度瞬きをすると、「俺は炎専門だからな」と手のひらで胸元を撫でる。――すると、微かに凍っていた衣服がじわりと溶け、そのまま乾燥するほど熱せられた。
ああ、そうだった。モーゼは軽い足取りで身を翻す。「それで、実際のところはどうなんだい」と呟きながら。
「……まあ、他よりも当然知ってることは多いだろうなあ。……で? あんたが訊きたいことはそれだけか?」
挑発的な口調がモーゼの耳を撫でる。
「――いいや。実際のところまだある。ヴェルダリア、君は本当に彼の者を殺せているのかい?」
どうにもそんな単純に思えないんだ、とモーゼは腕を組んだ。薄暗い地下室で悩む男と、今にも帰りたいと呟く男が二人揃っている。ヴェルダリアは微かに疑問を抱いたように片眉を上げると、「何だ、まだ読みきれてないのか」と口を洩らす。
「ああ……何故か多数の言語が混ざっていてね。読むのに少し苦労してるんだよ」
ふぅ、とわざとらしくモーゼは溜め息を吐いた。すると、ヴェルダリアは宥めるように男に一言。
「しっかり読み進めてみろよ。そこに、あんたの欲しいもんがあるんだから」
――と、まるでモーゼのことを知っているという口振りで言った。
すると、モーゼは薄っぺらい笑みを一瞬固めたと思えば、直後に宛ら玩具を見付けたときの子供のような笑みを浮かべ、「それは良いことを聞いた!」と両手を合わせる。
ぱん、と心地の良い音が鳴った。ヴェルダリアは奇妙なものを見るような目付きでモーゼを横目に見たと思えば、するりと踵を返し背を向いて、「俺は戻るぜ」と軽く手を振る。――と思えば、ふと振り返ってモーゼの顔を見て、「そう言えば」と唇を開いた。
「あんた、その花やる相手居んの?」
それに、モーゼは両の腕を開き、声高らかにこう言った。
「勿論! 〝教会〟の創設者、偉大なる聖母にさ!」