早朝の地下集会

 早朝も過ぎた心地の良い日差しが降り注ぐ朝の八時半。ノーチェは重い瞼を開けて、目を擦りながら徐に体を起こす。閉め切った窓の向こう、小鳥が枝葉に止まり小さく鳴き声を上げている。ノーチェは体を起こしたまま、うつらうつらと船を漕ぐ。いくら起きようと思っても体は春の陽気に負けてしまいそうで、彼はそのまま体を前へと倒してしまう。
 ぼふん、と柔らかな感触。温かく、寝心地が良い。――夢ではなかった、と常々思いながら落ちていく瞼にひたすら逆らった。布団から出て立ち上がってしまえば目は覚めるのだろう。――しかし、体は重く、未だ眠気を訴えてくる。何も考えられず、ぼうっと頭に霞がかかる感覚をじわりと味わいながら、ノーチェはゆっくりと目を閉じ――。
 ――コンコン。
 不意に軽快に鳴るノックの音が耳に届き、ノーチェは意識を取り戻すようにハッと目を覚ます。――いけない、眠気に負けていた。そう言いたげに重い体を起こしながら目を擦り、音が鳴った方へと視線を投げる。
 重苦しい黒よりの茶色い扉が、呼び掛けるように再び一度だけ鳴らされた。コン、とまるで「入るぞ」と言いたげなノック音だ。それにノーチェは一度だけ船を漕ぐと、「ぁい……」と生返事をした。

「……起きたばかりだったか?」
「…………へいき……」

 扉の奥から姿を現したのは紛れもない黒衣の男、終焉だ。暖かな陽気だと言うにも拘わらず、黒いコートまでしっかりと着込んでいて、見ているこちらが暑いと言いたくなるほどだ。
 それを気に留めることなく、ノーチェは未だ船を漕いだまま体を前後左右に揺らしていて、茫然としている。――そんなノーチェに終焉は「よく眠れているようで何よりだ」と口を溢しながら部屋に足を踏み入れる。男が向かう先に、カーテンが締め切られた窓があった。
 室内に居るとしても滅多に外すことのない黒い手袋をはめた両手が徐にカーテンを掴む。そして、勢いよくそれを開くと、閉じていた窓を開ける。

「………………眩しい…………」

 運悪くノーチェの目に光が差したのだろう。驚くように顔を俯かせ、キンと響く微かな痛みを誤魔化そうと両目を擦る。目尻には涙が溜まり、一気に目が覚めた感覚に陥った。――最も、痛みと引き換えに眠気を覚ますくらいなら、眠い方が良かったと思うのだが。
 ノーチェの呟きを聞いたのだろう。終焉は微かに振り返ると「悪いな」と薄手のカーテンを閉めながら謝罪を口にする。昼夜問わずの相変わらずの無表情では謝罪の意など伝わりはしないのだが、ノーチェは軽く左右に首を振ると「起きた」と唇を開いた。

「Guten Morgen」

 不意に紡がれた聞き慣れない言語に、ノーチェが首を傾ける。

「ぐーて……?」
「おはよう、だ」

 終焉がやけに流暢に話すその言語が慣れ親しんだフランス語ではないことは十分に分かっていた。「おはよう」と意訳をもらったノーチェは朝であることを思い出し、小さく頷きながら「ん……」と口を洩らす。

「朝食は軽めにしておいた。食えるか?」
「……ん」
「ああ、それと、貴方が着ていたものは繕っておいたから」
「……ん」
「…………寝惚けているのか……?」

 突然ぐっと終焉がノーチェの顔を覗き込んだ。端正な顔が目の前に映し出される。光に当てればガラス玉のように透き通るのではないかと思わせる赤と金のオッドアイ、いやに焼けていない女のような白い肌。覗き込みながら首を傾げる所為で頬から垂れる赤の混じる黒い髪は、一本一本が糸のように柔らかく、滑らかで酷く見入るものだった。
 ノーチェはその顔を見て、漸く目が覚めた。自分は男の問いに、一体どう答えていたのかを必死に思い出そうとする。顔を覗き込まれるまでまるで記憶にないのは、恐らくかなり寝惚けていたからだろう。
 咄嗟にノーチェは「あの、」と口をどもらせる。「あの、寝惚けてたみたいで」と、目を泳がせながら冷や汗のようなものを浮かべて。
 ――いくら死にたいとはいえ、殴られることに体は恐怖を覚えてしまっているようで、まともに思考が働かなかった。
 ふと、終焉がノーチェの頬に手を伸ばしたのに気が付いたのは、ノーチェが力強く布団を握り締めていると気が付いたときだった。ざらりとした布の感触が頬に伝い、布越しからでも伝わる冷気のようなものが冷静を呼び起こしてくるような気がする。
 奴隷になってから妙なものが染み付いたと嫌に思うノーチェに、男は形の良い唇をゆっくりと開いて言った。

「私が貴方に命令すれば、貴方は対等に、気さくに接してくれるようになるのか……?」

 ――なんて、どこか悲しげな表情で。
 それに思わずノーチェはどうにかして宥める言葉を探そうと頭を捻った。理由はない。あるとするならば、何故かそうしなければならないような気がしたからだ。
 だからノーチェはそれらしい言葉をいくつも探したが、どれも単調で、まるで終焉に響いてはくれないだろう。男が自分に対等に接してくれるように願うのが分からないのと同じように、慰める言葉を探す意味など、まるで分からなかった。

「――冗談だ。命令など下してしまえば、そこから対等ではなくなるからな」

 そう言って終焉はノーチェの頬から手を離し、何気なく頭を撫でる。ふわりとした髪の感触がノーチェにも伝わって、随分と髪の質が変わりかけているな、と不思議にも思った。
 全くもって掴み所のない男だ。先程の言葉が冗談だと言われなければ、ノーチェは終焉が本当に命令をすると思っただろう。表情が変わらないというのは酷く厄介で、日常的に持ち込まれてしまえば暮らしにくくなるだろう。
 表情が出なくなった、とどこか理解しているノーチェはふと自分の頬をつねる。冗談を言おうとは思わないが、置いてもらえている以上、終焉と居て暮らしにくい状況を作らないようにしなければならない。

「そうだ、ノーチェ。朝食を済ませたら外に出よう」
「――え?」

 不意に呟かれた終焉の言葉にノーチェは驚いたように声を上げる。奴隷を買わず攫ったからこそ、彼は終焉が外に出ようと提案してくるとは思わなかったのだ。ノーチェは時間こそは把握していなかったが、攫われたときの人の騒ぎは昼のそれのものだろう。
 撫でるために置いていた終焉の手を目で追いながら、ノーチェは「外に出ても平気なのか……?」と言葉を洩らした。人の目を懸念して発せられた言葉だ。――それに終焉は「問題ない」と言葉を置いて、扉の方へと歩みを進める。

「新しい衣服はしまってあるから好きなものを着て、それで下に降りてきてくれ」

 ああ、靴も新調しなければな。
 ――茫然とするノーチェに、終焉は惜しげもなく扉の向こうへと消えていった。