昼下がりの強奪

 夕陽が沈み、夜に差し掛かる時間帯。街から離れるように歩く男は一体何時間外で過ごしただろう、と首を傾げる。
 小脇に抱えた荷物は相変わらず抵抗する意志がないようで、男は難なくそれを担いだままとある屋敷へと辿り着いた。暗闇で辺りは見えないが、中庭と思われる場所には小さな花が咲いている。屋敷の扉は暗い闇に溶け込んで視認することは困難のように思えたが、男は慣れた手付きで扉を押し開けると、小さく軋んで男を屋敷の中へと招いた。
 屋敷の中は暗く音もない。まるで生活感のない暗闇に沈んだその場所は、「屋敷」と言うよりもどちらかと言えば「廃墟」という言葉がよく似合っていて――月明かりが差し込む様は街にはない美しさを醸し出している。

「……すまない。長い間連れ回してしまった」

 男はそう言って小脇に抱えたそれをゆっくりと床に降ろすと、それは微かに覚束ない足取りで、ろくに食事も与えられなかったであろう体を慎重に支えている。
 男はそれに、頭までかぶせた黒い布――長いコート――を肩に羽織らせるように捲ると、漸くそれの顔がよく見えるようになった。
 白く手入れのない毛髪は月の光によって輝いていて、反転した黒い目と月の満ち欠けに倣うような紫と金の色を持った瞳が酷く特徴的だった。伏せられている瞳は男を微かに一瞥すると、小さな警戒を覗かせるように体を縮こまらせる。手足に施された古びた鈍い色の鎖が小さく音を立てた。

「………………」

 男の謝罪に漸く姿を現した青年は何を言うわけでもなく、ただ顔を逸らして片腕を擦る。
 どこか怯えているような印象を受けた男はそれを追及することもなく黙って青年に手を伸ばすと、青年の肩が微かに震えた気がした。まるで暴力に怯える子供のようで、男は首にあしらわれた異色を放つそれを一瞥すると、微かに目を細める。
 何気ない憤りを覚えてしまった。それは、男に対する青年の態度ではない。彼の首に施された首の輪が、男の感情を揺さぶったようだった。
 ――男は羽織らせた黒衣に伸ばしていた手を咄嗟に首輪に移して――。

「――っ!」
「…………っ……?」

 ――ばちん、と唐突に弾かれたその手に青年が微かに驚きを見せた気がした。
 咄嗟に押さえた男の左手は微かに震えていて、鋭い激痛を感じたのか、いやに痛がる素振りを見せてしまっている。
 「根本的な干渉は禁じられているのか……」そう呟かれた言葉に青年は思い当たる節はないが、何かをしてしまったのかと自分の手で小さく首輪に触れてみせた。それに青年は衝撃を覚えることはなく、ただの勘違いだったのかと言いたげに眉を顰める。
 鎖が擦れる音が静寂に包まれた屋敷に響いてしまった。「ああ……忌々しい」――そう言って男が徐に顔を上げる。鋭い眼光が獲物を捉えた獣のように光り輝いていた。
 蛇に睨まれた蛙のように青年が身を強張らせると同時、パキンと何かが割れるような音が鳴り響く。その音の正体は、青年の手足に施されていた手錠や鎖が砕ける音だった。

「…………ぁ……」

 暗闇に慣れた目はその手首の色が微かに認識できるほどだ。抵抗する気がなかった所為か、赤みがあるようには見えず、一般的な成人男性よりも細い手首に触れると頼りなさげに思える。
 ごろごろと音を立てて転がった足元にある拘束具は先程まで青年に付けられていたと思うと、どこか嫌な気持ちになった。
 ――それで男は何をするつもりだろうか。屋敷の中には青年と男の二人しか居ない。どういう理屈であれ、青年は拘束具を失ったのだ。それは青年にとって嫌な出来事の切っ掛けにしか思えない。どこまでも転々として、馬車馬のように扱き使われ、挙げ句には何度も酷い目に遭わされてきているのだ。
 青年は微かに後退りをしながら何を言われるのかとじっと待っていた。――どうせ逃げられやしないのだ。
 しかし、そんな青年の考えとは裏腹に、男は鋭い目付きを止めたかと思えば口元に手を押し当て、小さく「臭う」と言った。

「…………は……?」
「……ああ……だから、臭う。連れ回した直後で悪いが、早急に風呂を沸かすから入ってもらうぞ」

 男は終始真面目な表情で青年に語り掛けていて、「少しだけ待っていてくれ」と言葉を残したまま部屋を後にしてしまった。
 「……何企んでんだ」と青年の疑いの声は薄暗い屋敷の中で微かに響いた後、誰にも届くことはなく消えていった。