――――トントン
――そう形容できるような軽いノックが響いた。部屋のそれとは違い、多少くぐもって聞こえるのは扉の大きさが違うからだろう。
客など来る筈がない。そう思っていたノーチェはそのノック音に反射的に起き上がり、酷く重い腰を上げる。――まさか本当に来るとは思っていなかったのだ。ぺたぺたと素足で絨毯を踏み締め、西洋の文化とは多少異なった、靴が並ぶエントランスへ降りる。ひやりとした感覚が足の裏を伝ったが、ノーチェにはそんな感覚はどうでも良かった。
彼は奴隷という身だ。念のため警戒しながらきぃ、と扉を開ける。隙間から外を覗き見るように恐る恐るといった様子で、ゆっくりと押し開けた。
――瞬間、空いた隙間から見慣れない足が差し込まれる。
「――よお、坊っちゃん」
そう声を弾ませるように言ったのは、赤髪と顔の傷が強く印象に残る男――“教会”の人間、ヴェルダリアだった。
これはまずい。
誰かがそう言ったわけではない。だが、終焉とヴェルダリアがやけに互いを嫌い合うような素振りをしていたことを彼は知っている。更に言えばヴェルダリアは“教会”の人間だ。詳しいことは分からないが、終焉は“教会”を嫌っているような態度を持っている。
――いや、終焉ではなく、“教会”が終焉を忌み嫌っているのだろう。何せ“終焉の者”と男を称しているほどだ。理由など知りはしないが、生に希望を見出だせないノーチェでさえ、何となくそれは分かることだった。
咄嗟に扉を閉めるべきか、ヴェルダリアを突き放すべきか彼は判断に迷った。扉は閉められないよう、足を入れられ、体ごと扉との隙間に入れられている。閉めるのは困難に思えるが、ノーチェほどの力を持っていれば何とかなるのかもしれない。――しかし、万が一それで扉が壊れてしまっては元も子もないだろう。だが、ヴェルダリアは易々とノーチェに突き飛ばされるような人間には見えなかった。
ノーチェが判断に困っていると、不意にヴェルダリアがぐっと手を伸ばしてくる。首ではなく頭に。一瞬でもそれが奴隷商人の手に見えてしまって、体が殴られるのを身構えるように固まった気がした。
「何身構えてんだっつの」
「っ!」
くしゃり、音を立てながらノーチェは頭を撫でられる。反射的に目を閉じたノーチェにそれはただの驚愕でしかなくて、瞬きを二、三繰り返し目を丸くした。ヴェルダリアは「結構いい髪の毛してんなぁ」と感心するようにノーチェの頭を乱暴に撫で回す。
まるで小動物を相手にしているかのようなその撫で方に、嫌気が差したノーチェは手を払うと、髪を直しながら「……何」と呟いた。撫で方はやはり終焉の方が優しさが滲み出ているような気がする、と頭の片隅に思いながら。
ヴェルダリアはノーチェの言葉に瞬きをしてから「ああそうだ」と思い出すように口を開く。――何をしだすのかは分からない。ノーチェは目の前にいる男の行動に目を光らせながらじっと行動を見ていた。彼も彼でヴェルダリアのことが好きではない。一つでも怪しい行動を取れば終焉にそれを告げる心持ちでいたのだ。
――だが、ヴェルダリアが口にしたのは彼らへの悪意ではなかった。
「謝罪しに来たんだよ。祭りのときは“教会”の言いつけの下、誰も問題を起こせねぇ筈なんだけどなぁ……よりによってお前を連れてきたド畜生がお前に手ぇ上げたから。いくら余所者とはいえ、今ここにいる以上、お前も街の住人だぜ?」
「“教会”がずぼらなのがバレちまったなぁ」ヴェルダリアは相変わらず終焉とは真逆の、にやにやとした表情を浮かべたままノーチェに話し掛ける。それが妙に神経を逆撫でてくるような気がして、胸の奥がざわざわと騒いでいる感覚に陥ってしまう。
ああ、気分が悪い。そう心中で呟くが、ヴェルダリアはノーチェに何かをしたわけではない。むやみやたらに感情を押し付けるわけにはいかないだろう。
「別に……」ノーチェは気にしていないという意志を伝えた。殴られるのは日常的だったのだ、今更気にされても意味がないだろう。――それに、彼は早く押し開けた扉を閉めたかった。
終焉のいう来客がヴェルダリアだということはまずない筈だ。何せ、男はヴェルダリアを毛嫌いしているのだから、絶対に招くということは有り得ない。「蛆虫」や「化け物」と互いを罵り合う者同士が家に訪ねることがあってもいいのだろうか。
――いや、ない。あってはならないことだ。嫌い合う人間が家に訪ねるなど、考えられる可能性はただ一つ。弱みを握り、相手を確実に潰すための戦略に過ぎない。
その可能性がある以上、ノーチェは手早くヴェルダリアを突き放したかった。この手の問題はさっさと家主に相談した方が良いに決まっている。――だからこそ、ノーチェは目こそ合わせなかったものの、小さく「帰れよ」と呟きを洩らした。
「…………なぁんか、お前勘違いしてねぇか?」
「…………は……?」
軽く俯いていたノーチェの顔を覗き込むよう、ヴェルダリアは自身の視線を低くする。狼狽えるような目付き、どこか辿々しい口調、どれをとっても奴隷として自分を圧し殺してきた特徴のあるものだ。それを持つノーチェにヴェルダリアが徐に「俺、今日シラフで来てんだぜ。“教会”は全くもって関係ねぇよ」と口の端を上げる。
悔しいほどに似合うあくどい笑みだ。それに圧倒されるよう、ノーチェは扉の取っ手をぐっと握り締めた。人を馬鹿にするような嫌らしい目付きがじっとノーチェを見つめる。よく見ればヴェルダリアの格好は“教会”が着ていたそれらしいものではなく、以前祭りのときに見かけたものと同じだった。
もしや、本当に何もしないのではないだろうか――そう考えを改めようとしたのも束の間、ヴェルダリアがにやりと笑う。
「――自分一人じゃ何もできねぇ可哀想な坊っちゃんに会ってやろうと思ってなぁ!」
それは明らかにノーチェを馬鹿にしている発言だった。
当たりだ。今のノーチェは自分一人では何もできない、ただの使い捨ての道具となっている。生きるのも誰かに縋って、死ぬのにも誰かに縋らなくてはならない。ただの木偶の坊と化したノーチェに、ヴェルダリアの言葉が突き刺さる――。
しかし、彼は傷付くよりも先に、何故だか苛立ちを覚えた。
「……帰れ」
アンタのこと、大嫌いだ。――考えるよりも先に出てきた言葉は最早憎悪に等しかった。忘れていた筈の懐かしい怒りの感情に、取っ手を握る手に更に力がこもる。目付きはどこか鋭く、今にも喉元に食らい付きそうなほどだった。
ヴェルダリアはそれに意表を突かれたかのように瞬きを繰り返していたが、一度満足げに笑うと「そうだなぁ」と呟く。そして、そのまま徐に踵を返し、長い赤髪を揺らしながらノーチェに向かって手を振る。
「冗談はこれくらいにしといてやるよ。またなぁ」
ひらひらと手を振る様は好青年のものに等しいというのに、垣間見る性格の悪さがそれを良しとしなかった。ノーチェは独り言のように「二度と来んな」と呟いて扉をそっと閉める。ぎぃ、と微かに軋んで閉まる扉の向こうでノーチェはほう、と息を吐いた。