来客の訪問、煽る言葉

 酷い疲労感を覚えたような気がする。眉間にシワを寄せていたのか、違和感が残っていて、何気なくノーチェは額に触れようと取っ手を掴んでいた手を離した。
 ――パラッ
 そう音を立てて床に落ちたそれを見かねて、彼は血の気が引くような感覚を覚えてしまった。
 いくら首輪があったとしても、忘れていた感情を思い出せば不思議と枷が外れるようだった。ひび割れ、欠片を落とした取っ手にノーチェは何も言わずそれを拾い、客間へと戻る。アンティーク調の深い茶色のテーブルに欠片を置いて、彼は赤いソファーへと座り込んだ。

「…………あー……」

 どうしたものか。そう言いたげな声を、彼は天を仰ぎ両手で顔を覆いながら洩らした。ノーチェ自身こんなことで力がこもるなど思ってもいなかったのだ。もう一度同じ程度の力を込めてしまえば壊れてしまいそうなあの取っ手を、終焉にどう説明しようか。――そう必死に考える。

 男はこの屋敷を自分の家だと思ってもいいと言った。しかし、この屋敷はあくまで終焉のものではなく、借りているものだという。その持ち主がいつ帰ってきてもいいように、終焉は手入れを欠かさないのだろう。
 だが、ノーチェはそれを無下にするように傷を入れてしまった。重苦しい、黒だか茶色だかの区別がつかない扉についている金の取っ手。よく見れば小さな皹がしっかりと刻まれている。接着でどうこうできる問題ではない――これこそまさに起こってほしくなかった出来事だ。
 ――しかし、ノーチェはハッとした。これで終焉が激昂してくれれば死ねるのではないか、と。
 この屋敷の持ち主は終焉ではない。だからこそ、男は手入れを欠かさず綺麗なものを保ったままにしている。被害が及ばないよう、何らかしらの手を使って寂れた廃館のように見せることもあるが、結果的に中身は綺麗なままだ。
 それを傷付けたのだ。殴られる覚悟以上のことはしてもいいのではないだろうか――。
 そう思ったところで彼は漸く気が付く。自分は終焉に「死にたい」と意思表示したことがあるのかどうかを。恐らく男は見た目で判断して、ノーチェが死にたがっていることくらいは知っているだろう。だからこそ、出会った頃に「死ぬようなことはするなよ」と言ったに違いない。
 生憎ノーチェには自殺するような気は一切起きない。――しかし、死にたいという気持ちは誰にも負けないつもりだ。たとえそれが終焉相手でも、負けていない心持ちだった。
 死んでしまえば、こんな腐った世界から解放されるのだから――。

「…………?」

 ――不意にノーチェの耳に何かが聞こえた。
 ノーチェはちらりと音の鳴った方を見やる。木の板が手で鳴らされる音――つまるところ、ノック音が再び聞こえた気がしたのだ。小さく、それも控えめで、先程ヴェルダリアが鳴らしたものとは大違いの落ち着いたものだった。
 だからだろう。彼は微かにしか鳴らなかったその音が気のせいだと思い、首を傾げる。待っている間にもう一度鳴らされるかと思っていたのだ。だが、それはノーチェが身構えている間に鳴らされることもなく、ただ静かな時間が流れていった。
 紛れもなく気のせいなのだろう。――ノーチェは周りに撒き散らした意識をかき集め、再び天を仰ぐよう、ソファーへと反り返った。
 すると――コンコン、と確かなノック音が再び鳴った。その音はしっかりとノーチェの耳に届き、彼は咄嗟に体を起き上がらせる。立ち上がり、終焉の言った来客が来たのかと扉の取っ手に手を伸ばした。

 ――本当に終焉の言う「来客」が来たのだろうか。

 そんな疑問が頭を掠め、彼は伸ばしていた手をピタリと止める。何せ先程は終焉が嫌っているであろうヴェルダリアがやって来たのだ。招かれざる客というものが、突拍子もなくこの屋敷を訪ねてくる可能性だってある。それこそヴェルダリアのように敵視すべき人間か、全くもって検討違いの、例えば鳥――啄木鳥のようなものがノックをしたと思ってもいい。多少、現実的すぎても、非現実的すぎても構わない。それほどの警戒をすべきだとノーチェは思う。
 今この屋敷に終焉は居ない。たとえ死にたがっているノーチェだとしても、留守を任されている以上、優先すべきことは屋敷を守ること。先刻のように気兼ねなく開けてしまえば後悔するだろう――。
 無視をしようかと思った。終焉は相手にしろと言っていたが、扉を開けた先に居るのが善人だとは限らない。開ける前に判断しようにも、覗き穴の類いは何故か見当たらない。相手を確認する術がない以上、招くわけにはいかないだろう。
 例えば、向こうに居るのがノーチェを探している奴隷商人ならば、元も子もないのだから。

 ――しかし、そんな彼の意志を叩き潰すように扉の向こうに居るであろう来客は大きな声を上げた。

「ちょっとぉ! 私がわざわざ来てあげたのにノック一回で出ないなんて、あんたどこまで非常識になったの!?」

 紛れもない、相手は終焉の言った来客だろう。
 扉を力任せに殴るよう大きく鳴ったノック音にノーチェは反射的に肩を震わせた。向こうから聞こえてくる声は低いものではない。女特有の高い声だ。終焉に女の知り合いがいるとは思えなかったが、その口振りからして、終焉とは仲が良いのだろう。
 ノーチェは向こうの相手に圧倒されながらも恐る恐る扉を開いた。取っ手が取れないよう、最小限の力で、だ。――すると、扉の向こうの女は目映い金の髪を揺らし、「……あらら?」と間抜けな声を上げた。