来客の訪問、煽る言葉

 屋敷の中に招いていいものなのか、ノーチェはとっさの判断ができずにいると、女がじっとノーチェを見つめてくる。物珍しいのか、真っ直ぐな瞳――と言っても片目は髪で隠れているが――で彼を見つめ、にっこりと笑った。

「少年も来てたのね」

 ――ああ、まただ。
 彼は人知れずそう思った。それは数回味わったことのある違和感だったからだ。
 こちらは相手のことを全く知らないのに、相手はこちらを知っているような口振り。懐かしさを含んだ妙な接し方。その表情は馴れ馴れしく、まるで以前よく関わっていた、と思わせるようなものだ。
 彼は例によって例の如く女のことは知らなかった。長く靡く金の髪も、露わになっている赤い瞳も、体のラインを強調させるような黒いドレスも、見た目にそぐわないにんまりとした笑い方も、何一つ憶えていない。だからこそ、彼は訝しげな目で、睨み付けるような気持ちで女を見た。
 女は特別何かを企んでいるようではなかった。どこか偉そうな態度はその見た目によく似合っていて、ほんの少し圧倒されるような感覚を体が覚える。ぐっと一歩、女が近付いたのに、彼はそっと一歩だけ足を引いた。

「……誰だ」

 このまま何も言わないのもどうかと思い、ノーチェは徐に口を開く。――すると、女は瞬きを数回繰り返した後、何かを納得するように「そうね」と頷いて、勢いよく胸元に手を当てる。

「私の名前はリーリエ、リーリエ・ヴィレッダよ。気軽に『おばさん』か名前、『魔女』でも文句は言わないわ! さっきはごめんねー、少年があんまりに私の知ってる人とよく似てて!」

 リーリエと名乗った女は自分よりも少し高いノーチェの頭を豪快に撫でた。わしゃわしゃ、とまるで先刻のヴェルダリアのようにだ。――だが、相手は女だからだろうか。先刻よりの不快感など微塵も感じず、ノーチェは呆れにも似た気持ちでそれを受け入れる。
 この街の人間は人の頭を撫で回すのが好きなのだろうか。終焉に始まり、ヴェルダリア、出会ったばかりのリーリエまでノーチェの頭を撫でてきた。それはまるで恒例だと言わんばかりのもので、ノーチェは多少、鬱陶しいと思いながらも何も言わずにいる。
 その目付きがどこか嫌そうに見えたのか――リーリエはノーチェの頭を一頻り撫で回したと思えば、崩れた髪を手櫛で整え始めた。「あんまりに気持ち良さそうな髪の毛だったから、つい……」そう呟く声色は、女のそれというには少し大人すぎていた。
 例えるなら、「母親」が一番相応しいだろうか。

「――……」

 どこか寂しげなその声色に、ノーチェは何かを言おうと唇を開いた。――が、それよりも早くリーリエが口を挟む。

「そういや彼は居ないの? ちゃんと待ってなさいよって言ったんだけど」

 リーリエはノーチェの髪型を整え終わると、両手を腰に当てて頬を膨らませた。どうやら女は終焉と会う約束を交わしていたようで、終焉ではなくノーチェが出てきたことに軽く腹を立てているようだ。
 ノーチェはそんなリーリエを軽く宥めながら「すぐ戻るって言ってたけど」と呟く。行き先は分からないが、行ける場所といえば彼は街中しか分からない。「多分、街……?」そう呟けば、リーリエは口許に手を宛がって、ふぅん、と洩らす。

「熱心ねぇ、随分と」

 まるで、何かを知っているような口振りに、ノーチェは首を傾げながら「何か知ってんの」と言った。

「そうねぇー……まぁ、少なくとも今は少年よりは仲が良いからねぇ」
「………………」

 悪気はない筈だ。更に言えば、何の意図もなく紡いだ言葉である筈だ。――しかし、胸に刺さるようなその言葉に妙な不快感が誘われてしまう。

 「今は」と女は言った。「少なくとも今は」と。――では、以前はどうだったのだろうか。
 今でなくとも、頭に引っ掛かるような点はいくつもあった。終焉のノーチェを知っているかのような言動も、ヴェルダリアの「覚えていないのか」という言葉も、以前から胸に突っ掛かって離れてくれなかったのだ。
 それに触れなかったのは、あくまで今では理解したところで何もできないからだ。仮に会っていたとすれば、それは奴隷に至る前の、遠い昔のことだろう。今のノーチェには以前の自分の性格など全く思い出せないものだが、今のように後ろ向きではなかったような気がするのだ。
 恐らく、前を向いていて、何にでも興味を示すような人間だったに違いない。喜怒哀楽もはっきりとしていて、嫌なものは嫌だと、はっきり口にできていたのかもしれない。
 奴隷になんてなるような人間ではなかったと――そうであってほしいと、思ってしまう。

「勘違いしないでねん。今よく話す相手が私ってだけで、その比較対象を少年にしただけだから」

 彼の頭の中を覗き見たのか、リーリエはにこりと笑いながらノーチェに話し掛けた。「そんな顔すると、格好いい顔が台無しよ~」と頬に人差し指を刺され、ノーチェは微かに目を丸くする。
 「格好いい」などという言葉を誰かに投げ掛けられたことはあっただろうか。――いや、奴隷になって以来初めて言われたに等しい。
 彼は自分がどんな表情をしていたのかを気にする前に、刺された頬にゆっくりと手を当てる。男が使っている入浴剤のお陰だろうか――、肌は滑らかで滞りなく指が滑っていった。「女の私が羨む肌のきめ細かさ……」リーリエは軽く目を細めて、じっくりと彼を見つめる。
 実際ノーチェが浮かべていたのは、何の変哲もない無表情そのもの。ただ、思考に陥っているのだけはよく分かったのだ。一点を見つめ、話し掛けるリーリエの言葉ひとつにも反応を示さない。そこで女は徐に頬をつついたのだ。
 褒められることに慣れていないノーチェは、頬に手を当てたまま徐に目を逸らす。不快な気分にはならなかった。どこか母親を彷彿とさせてくる女に、どう対処すればいいのか分からなかったのだ。
 もどかしく、名前のつけようのない感情に、ノーチェは茫然としていると、ある独特な香りが鼻を突いた。

「あーあ、やぁだ。降ってきちゃったじゃないの~、んもぅ!」

 ポツポツと音を立てて降り注ぎ始めた雨は屋根を叩き、こつこつと音を立てて弾む。それにリーリエは機嫌を損ねたようで、艶やかな唇を尖らせながら何やら唸り声を上げている。地面に目を配らせると、若草や花に雨粒が当たり、弾んでは土に染みている様子が見て取れた。

「…………帰っちゃおうかしらね」

 ぽつり、呟かれたその言葉にノーチェは耳を傾ける。
 来客の相手をしてほしい――終焉がそう言ったのだから、男はリーリエに何かしらの用があるのは間違いないだろう。口振りからしてかなり親しげな様子だ。このまま帰らせてしまっては、男の頼み事を聞き入れたことにはならないだろう。
 ――ふと思い出したのは、男の怠そうな背中だった。
 ここはひとつ、終焉の頼み事を聞くのがいいのかもしれない。――たとえそうでなくとも、彼はいやに世話になっているのだ。聞き入れないわけにもいかないだろう。
 そして、今のノーチェの性格上、頼み事を聞くのに多少の抵抗があった。――今一度、それを「命令」と認識するのが適切なのかもしれない。

「……なあ」
「んー?」
「……多分、帰られると困る、と思う。だから……入っていいんじゃないの……」

 ノーチェはゆっくりと扉を大きく開けた。雨と共に多少冷たくなった風が扉を越えて中に入ってくる。素足には少し冷たい――未だに足を守るものを履き慣れないノーチェは、温かかった筈の足先を小さく擦る。
 そんなノーチェの様子にリーリエは驚いたように目を丸くしていた。ノーチェはその類いの表情を見るのは久し振りで、彼も同様驚くように動きを止める。自分の行動が正解か不正解かを考えるより先に過るのは、久し振りに表情が動くところを見た、という小さな感想だった。

「あら、あらあらあら、いいの~!?」

 リーリエは口許に右手を当てて、空いている左手を上下に動かしてノーチェを見上げた。若い見た目にそぐわない淑女のような行動に彼が呆気に取られていると、「お邪魔しようかしらね~」と頭を下げる。置き去りだった反応を彼は咄嗟に拾い上げ、「ん」と招き入れると、今まで気にならなかったそれが気になった。

「……荷物、持つけど」

 肩に提げている袋を女は持参していて、見た限りでは軽いものではないと分かった。伸びきった持ち手は今にも千切れてしまいそうなほどに見える。それほどの重量を持つものを、重そうに肩から提げる女の体を彼は気遣ってやった。何せリーリエは終焉の客人なのだ。何かあってはいけないだろう。
 ――しかし、そんな思いとは裏腹にリーリエは「大丈夫大丈夫!」と笑って、その中身を見せてきた。

「私の為の、私のお酒なのよ~!!」

 その中にはどこから調達したのかも分からない立派な一升瓶と、ワインがごろりと転がっている。一升瓶には力強く「大吟醸」と書かれていて、――ああ、こういうひとなんだな、と彼はどこか虚しい気持ちになった。
 リーリエを招いたノーチェは念のため「ここで飲むなよ……」と独り言のように洩らしてみせると、女は驚いたように彼に向かって振り返りながら「えっ」と言った。袋に詰めた酒の類いを両手でぎゅうっと抱き締めて、目を泳がせながら「そ、そんなことしないわよ~」と呟く。
 靴を脱ぐときも片時も手を離さなかった辺り、女は酒をこよなく愛しているのだろう。――ノーチェは無表情のまま、気持ちだけ呆れるような目を向けてやった。本当にこれが終焉の客でいいのかどうか、迷ってしまったのだ。その合間にもリーリエは居場所が無さげにうろうろと目の届く辺りを歩いていて、あっと彼は口を開く。

「多分……そこで待ってればいい……と、思う…………」
「あらそう? じゃあお邪魔するわ~!」

 おしとやか、とは無縁そうな女の振る舞いが、どこか彼の懐かしさを刺激していた。
 リーリエはノーチェに指し示された客間へと向かった。赤黒い絨毯を踏み、赤色に染まる座り心地のいいソファーに体を沈める。その心地好さに思わず声が洩れたのだろう――「おお……」と感嘆の息を吐くように呟かれたそれに、ノーチェは人知れず頷く。
 何せ、そのソファーが持つ魅力は計り知れないのだ。体全体を包み込み、眠気を誘うようなその心地好さは、座った者にしか分からない。それを何気なく気に入ってしまっているノーチェは、その気持ちが分かると言わんばかりに頷いたのだ。
 ――思えばまともな客人の対応をするのは、これが初めてだった。命じられた以上、彼にはそれを全うする義務があるが、その方法が分からない。ソファーに身を委ね、体を伸ばす女の相手など、決まっているようなものなのだが――、何度も言うとおり相手は終焉の客だ。そんなものを望むようには見えなかった。

「――ねえ、あんた、お茶とか淹れられる?」

 不意に口を開いたのは訪ねてきた側のリーリエだ。女は気を遣うように話し掛けてきたのだろう。広がる気まずい空気には耐えられないと言いたげに、リーリエはノーチェを見る。
 淹れたことはないけれど見たことある。彼は大人しくそう言うと、リーリエは「淹れたことないのね」と多少肩を落とすように微笑んだ。期待はしていなかったが、いざそう言われると困る、と言いたげな表情だ。その顔に、ノーチェは何故だか無性に腹が立った。
 ――いや、理由は明確だった。女が来る前に来た、ヴェルダリアが大きな原因だろう。「自分一人じゃ何もできねぇ可哀想な坊っちゃん」――そんな嘲笑うような声が頭の中に木霊する。まるで何人ものヴェルダリアがいるかのように、ただずっと同じ言葉だけが繰り返され続けていた。

「仕方ないし、危ないから私と一緒に……」
「できる」

 妥協案を提示するようにリーリエが席を立とうと腰を上げたと同時、ノーチェが咄嗟に口を開く。え、と女が彼を見上げると、彼は無表情の中にどこか苛立ちを湛えていて、「一人でもできるから」とだけ言った。

「ちょっと淹れてくる」
「ちょちょちょ……!」

 半ばやけくそになっているであろうノーチェはムッとした顔をして、背を翻した。リーリエの焦る表情を後目に、あと男の顔を少しでも捻り上げるよう、多少のことなら自分一人でできることを示してやりたかった。その上、終焉はノーチェに好きにしてもいいと言っているのだ。危ないことはないだろう。
 そんな思いを胸に、彼は焦る女を置き去りにしてキッチンへと消えていった。「……あんたに何かあったら私が怒られんのよ……」そう悲しげな言葉が無情にも客間に響いただけだった。