染まる紫陽花、気紛れな御茶会議

 春の季節があっという間に過ぎた頃、ぽつりぽつりと色付いてくるある植物をノーチェはじぃ、と見つめていた。それは限りなく花の形によく似ていて、「春も終わった後にこんな色の花も咲くんだな」と彼は関心を胸に抱く。その色は春には似つかわしくない色合いだったが、妙な儚さは春のそれに似ているような気がした。
 それを窓越しに眺めるノーチェはぼうっと一点だけを見つめていて、その呼び掛けに気が付かない――。

「ノーチェ」
「っ!」

 唐突に掛けられた声にノーチェは勢いよく振り返ると、相も変わらず黒い服を纏った終焉が何の感情もこもらない瞳で彼を見下ろしている。ノーチェは赤いソファーに膝を立てて窓の向こう――広い庭を見ていたのだ。庭には春とはまた違った花や植物が顔を覗かせていて、奴隷であったノーチェには珍しいことこの上ない。
 ――勿論、庭自体がかなり目を惹くものだった。手入れが大変そうなその庭はやはり金持ちを彷彿とさせるもの。更に言えば、その中心部にはテーブルや椅子などがよく見える。終焉がそこを利用しているところは見たことはないが、利用できないことはないのだろう。
 それを終焉はどう理解したのか、ノーチェの顔と庭を交互に見やった後、考え込むような仕草を見せる。「ふむ」そう口を洩らして両目でノーチェを見つめている。その視線がやけに鋭く、ノーチェは徐に目を逸らせば、終焉は思い至ったように彼を手招いた。
 その手に従うようノーチェは席を立ち、何も考えず終焉の元へ歩く。男は彼が近くへと来たことを確認すると、徐に背を向けて「おいで」と言った。明らかに命令ではないそれに逆らってやろうかと思ったが、終焉は振り返って立ち止まるノーチェに再び「おいで」と言う。その口調は明らかに迷子の仔猫にでも語りかけるようなもので、微かな反抗心が芽生える。
 まるでペットのような扱いに思えた。勿論、首輪も鎖もあるのだからペット同然とも言えるが、人間である自覚はある。「……嫌」――男の招く言葉に妙な反抗心が芽生えたノーチェは、無意識のままその言葉を洩らした。

「…………あっ」

 咄嗟に口許を手で隠したが、時既に遅しとはこのことをいうのだろう。復唱するように「嫌?」と呟く終焉のその言葉が何かしらの意味を含んでいるようで、ノーチェはきゅっと唇を結ぶ。
 言葉に対する反抗心によって紡ぎ出されたその一言が終焉にどう印象を与えたかは分からないが、恐らく男はいい気持ちではないだろう。それどころか逆鱗に触れかねない。感情のこもらない瞳を怒りに染め上げ、何らかしらの方法で処分しにくるか――死なない程度にいたぶられるか。
 どうせ怒られるなら前者がいい。ノーチェは意を決したかのように服を握り締め、ちらりと終焉を見やる。男は依然ノーチェを見つめていて、その目の色を変えることはなかった。寧ろ、終焉は何かを考える素振りを見せた後、「言い方を変えよう」なんて言って、ノーチェの目を見る。

「一緒に来てくれないか」

 ――それはやはり「命令」ではなく、彼に頼み込むような言葉だった。表情はともかく、奴隷という身分であるノーチェにでさえも「頼む」と言わんばかりの口調だ。終焉は何を言おうにもただ対等に扱い続けるつもりなのだろう。
 それに未だ慣れないノーチェは一度だけ迷うと、大人しく終焉の後へ続いた。礼を言われる筋合いなどない筈なのに、終焉はノーチェに「有り難う」と言って足を進める。ノーチェは言葉を受け取ると、何かしらむず痒さでも覚えたのか――妙な顔付きをしてしまった。「礼を言われることはしてない……」そう呟くノーチェに男は言う。

「私はあくまで『来てくれないか』と聞いただけだ。命令でもないのに来てくれたのだから、嬉しいと思っただけ」

 終焉の言葉はノーチェには理解しがたいものだった。彼は赴くままに「意味が分からない」と呟いてみたが、終焉から不機嫌になるような声色はまるで聞こえてこない。ただ、疑問を抱くように「そうか?」と呟いた後、目の前の扉を押し開ける。
 男が向かっていたのはキッチンだった。大きな部屋を抜けた先にある、機能も道具も充実した場所だ。思えばそこは、終焉自らノーチェを連れてくるような場所ではない。――理由は簡単、ノーチェが自殺などという考えを持たないと言い切れないからだ。

 ノーチェは誰がよく分かるよう、首には鉄製の首輪が施されており、それには特殊な仕掛けが組まれている。それは、無理に外そうとすれば爆発する――などという危険なものではなく、首輪をつけられた本人の欲や意志を奪うという制欲魔法というものだ。その首輪の解除法は辺りに知られているわけではないのが特徴的で、いくら終焉とあろう者でもそれの外し方はまるで知らない。
 ――そもそも制欲魔法が組まれた首輪というものは、特殊な種族だけに使用される特別なものだ。特にノーチェのような存在は、ただの首輪ではすぐに反抗し、力付くで相手を捩じ伏せることが可能である。それを無力化するために用意されたものが、彼が身に付けている首輪なのだ。
 終焉がそれを外す方法を知らないのは、終焉自身がそれを施されたことがないという理由が大きいだろう。首輪を外すことができるのは商人自身か――ノーチェの一族が挙げられる。それまではただ彼は「生きている先にあるのは絶望しかない」というような感覚しか持ち合わせられないのだ。

 そんな彼を懸念して終焉はキッチンへと近寄らせなかったのだが、男は気が付いていないのだろう――そもそも、彼に自殺するような勇気がないことに。
 しかし、それを懸念していながらもキッチンへ招いた終焉は何を考えているのか、ノーチェを手招いては戸棚に手を伸ばす。アンティーク調のやけに高そうな棚だ。その中には白地に金のラインが施された、汚れ一つないティーカップやソーサー、ティーポットの他にいくつもの皿が収納されていて、ノーチェは茫然とそれを見つめる。
 高そう、ではなく、恐らく高い。彼の直感がそう囁く。終焉は慣れた手付きでティーセット一式を棚から出しているが、それを見るノーチェは何故こんな場所へと連れてこられたのか、不思議でならなかった。
 終焉は取り出した一式をテーブルへ置くと、徐にヤカンを取り出して水を入れる。水を入れたヤカンを火にかけ、ある程度沸騰したそれを少量ティーポットへ注ぐ。冷たい筈のティーポットが少量のお湯で温まり、ほうほうと湯気が立ち上る。ヤカンを最後まで沸騰させるために再び火にかけた終焉は、戸棚から四角い缶を取り出した。

「アールグレイ、ディンブラ、ルフナ、ダージリン、アッサム、アプリコットティー……まあ、種類は適当でいい」
「…………?」

 唐突に紅茶の種類を語られ、ノーチェは首を傾げる。よく見れば棚の中にはまだ茶葉があるようで、それを語られているのだと悟ったノーチェは「それは」と訊いた。終焉の手の中にある四角いそれは、終焉曰くアッサムなのだそうだ。「ミルクティーによく合う」そう言って男は茶葉をティースプーンで二杯、温まったポットへと入れる。そして、完全に沸騰したであろうヤカンのお湯をティーポットへと注ぎ、素早く蓋を閉じた。
 ノーチェは終焉の行動をじっと見つめていて、時折溢れる終焉の話を耳に入れる。「注ぐときは勢いよくでいい」や「蒸らす作業が大事らしいぞ」なんて、美味しい紅茶の作り方をだ。
 何が理由で彼は紅茶の作り方を教わっているのか定かではないが、何かしらの理由を終焉は持っているのだろう。ノーチェは軽く首を上下に動かして頷いてみせると、終焉がやはり彼の頭を撫でる。

「う」

 大事に扱われている気はするが、どうも「可愛がられている」ようで、ノーチェは多少睨む気持ちで終焉を見上げた。相変わらずの整った顔立ちではあるが、どうしても目元にある傷痕が痛々しく思え、目を逸らす。何故だかは分からない――ただ、得体の知れない妙な罪悪感だけが胸に募るのだ。
 三分ほど経つ頃だろうか。徐に取り出したトレイの上に一式を載せた終焉は、それをノーチェに手渡す。驚いた彼は一瞬だけ肩を揺らし、差し出されたそれを咄嗟に受け取った。紅茶が入っている分、多少の重みが腕にのし掛かる。一式を託した終焉は再び戸棚に向かい合うと、小さな包みを取り出した。
 終焉の意図が分からずノーチェは茫然としていると、終焉が手招きしながら扉へと向かう。「落とすなよ」の一言に無駄な力が腕に入り、動きがぎこちなくなるのが分かった。躓いて落としてしまわないよう、細心の注意を払いながら終焉の後に続くと、履きやすい靴を履かされる。そうして数回くぐったそのエントランスの扉の向こう――覗き見ていた庭へと足を踏み入れた。
 足を踏み入れて迎えたのは爽やかな風で、髪を舞い上げてくるそれに思わず目を閉じた後、ノーチェはゆっくりと目を開く。庭自体がどこまで広いのかは分からない。辺り一面に広がったのは垣根のように大きく育ったバラだ。開花の時期を迎えるのか、所々蕾が花開き、バラ特有の朗らかな香りが風に乗って漂う。窓の近くに群集するのは梅雨を知らせる紫陽花で、花のように色を染め上げているのは可愛らしい葉っぱだった。
 足元には見慣れない小さな花がある。それとは別に花壇が用意されているのだから、雑草の一つなのだろう。蕾のような白い花に、周りには三つ葉がぽつぽつと窺えた。しかし、探したとしても四つ葉は見つかりそうにはないだろう。
 ノーチェはその光景に意識を奪われているかのように足を立ち止まらせる。今まで窓越しに見ていた景色が眼前に広がっているのだ。バラの向こう、白い建物の下で終焉がノーチェを呼ぶ。「こちらへ」そう言って小包を白いテーブルに置いて、彼に向かって手招きをする。
 彼は今自分が落としてはいけないものを持っていることに再びハッとして、微かに力む体でそれを運ぶ。恐らくそれは、終焉なりのノーチェへの気遣いなのだろう。何もしないことが違和感となっているノーチェにとって、使われることは確かに安堵のようなものを覚える――が、そういうことではないのだ。
 彼が強いられたのは完全なる肉体的労働。人よりも遥かに桁違いの力をもって、誰よりも苦しい労働を強いられていた筈なのだ。それが今となっては随分とかけ離れたものとなってしまい、使われることに安堵は覚えたが、違和感が拭われない。
 しかし、やけに高価にも見える物だ。もういっそのこと落としてしまえば一思いに殺されるのではないだろうか――。

「……そう力まなくても、落とすなというのは軽い冗談だ。怪我さえしなければいいよ」

 ノーチェの心中を察したかのような終焉の言葉に、彼は瞬きを数回繰り返した。「少し味は落ちるかも知れないがな」なんて終焉が白い家具の傍で軽く苦笑を洩らしたように見える。その表情から見るに、やはり男はノーチェを殺すという手段は選ばないようだった。
 もしや、――いや、もしかしなくとも期待外れなのかも知れない。
 ノーチェはガゼボへ足を踏み入れる。カチ、とカップの取っ手が触れ合う危なげな音がした。手に持っていたトレイをテーブルの上に置いてやると、終焉がティーポットの取っ手を掴む。その手は珍しく普段つけている手袋をつけていない状態で、白い素肌が顔を出していた。
 深く透き通る液体がティーカップへと注がれる。赤いような、茶色いようなそれは芳ばしい香りを漂わせながら、大人しくティーカップへと収まった。ノーチェは促されるがままに白い椅子へと腰掛けると、目の前に紅茶が置かれる。茶葉のカスもまるで見当たらない、底が見えるほどに透き通った綺麗なものだった。
 ちらり、彼は終焉をそっと見やる。終焉はノーチェ同様に椅子へ腰掛けたと思うと、同時に用意していた角砂糖とミルクを手にしている。本当に溶けきるのかと疑いたくなる四つの角砂糖を入れた後、素知らぬ顔をしながらミルクを一周させるようにくるりと回しながら注いでいる。
 甘ったるい――その一言だけが頭に過る。終焉は何食わぬ顔をしたままスプーンで底を混ぜ続けるが、四つの角砂糖を加えてしまったそれにミルクを加えるなど、味の想像もつかなかった。
 終焉はノーチェに砂糖もミルクも差し出したが、ノーチェは角砂糖を一つ、紅茶の中へ入れる。とぽん、と弾けるような音が鳴る。差し出されたスプーンを受け取り、くるくると回すとあっという間に砂糖は消えてしまった。終焉を見れば甘ったるい紅茶だったものに口をつけていて、堪らずノーチェも同じように紅茶を口にしてみる。あっさりとしていて、しかし苦味のある口当たりのいい液体が、喉の奥へと押し込まれていった。

「……よく飲めるな……」

 そう口を開いたのは他でもない終焉だった。男はノーチェの紅茶を見て訝しげな目を向けている。薄々――ではなく、はっきりと確信したのはどう見ても終焉が甘党だということ。角砂糖一つを入れただけの紅茶に対して嫌そうな顔をするほどなのだから、相当甘いものが好きなのだろう。
 ノーチェからすれば終焉が口にしているものの方が飲めるということに驚きを覚えてしまう。ざらりとした溶けきらない砂糖、苦味を湛えたままの甘い紅茶だったもの。――それらを踏まえた上で、平然と飲むものだから、ノーチェは意識を逸らそうと口を開く。

「俺、外に出てもよかったの……」

 ポツリと呟いた懸念すべき点。奴隷及び拉致された身として、外に出ることは許されないものだと思っていた。数回外に赴いたことはあるが、全て目的を持った行動だ。今回のような何の意味もなく、ただ何となくで外に赴くようなことは有り得ないと言っても過言ではないだろう。
 彼はあくまで「自分が奴隷だから」とは言わなかった。何せたとえ奴隷でなかったとしても、拉致された身としては外部の人間に見付かるのはいいとは言えないだろう。それは終焉にとっても有り得ない話ではない筈で、ノーチェは男の顔をじっと見つめた。
 終焉は小さな包みに手を伸ばし、口を締めていたリボンの端を摘まむ。それを引いてリボンをほどけば、中から出てきたのは一口サイズの小さなクッキーで、何も言わずに終焉はそれを口にする。見た限りではその出来映えも最高のもので、小さな花型のそれを、終焉がそっと進めてくる。

「……見て分かると思うが、外部の人間が来ることは殆どない」

 「だから安心するといい」――差し出されたクッキーをひとつ、口の中に放り込んだと同時に終焉がそう呟いた。仄かな甘味が広がる芳ばしさが身に染みる。二種類の味があるのは終焉の気分だろうか――色の薄いプレーンのクッキーと、茶色のココアが丁度いい味を出している。
 そういうもんなんだな、とノーチェが口を洩らす。終焉は相変わらず甘ったるそうなミルクティーらしいものを平然と口にしていて、ノーチェはほんの少し胸焼けを覚える。――すると、草の影から小さな鳴き声が聞こえてきた。
 みゃあ、と愛くるしい猫の鳴き声が足元から聞こえてくる。その声の主はノーチェ――ではなく、終焉の足元にぴったりと寄り添っていて、くるくると体を擦り付けている。随分と懐いているその様子にノーチェは視線を送っていると、終焉が首を傾げながら「珍しいか」と訊いた。

「……と言うよりは、アンタも懐かれるんだな、と……」
「…………貴方がそれを言える立場か?」

 不思議と驚きよりも意外性を感じた。どんな生き物も近寄らせないと言いたげな雰囲気がそこにあるというのに、猫は機嫌良さげに終焉の元で座り込んでいる。まるで何度か感じていた獣のような威圧感を覚えることもなく、だ。
 それにノーチェはどこか意外だと思ってしまい、呆気に取られる。その後、終焉が呟いた立場が妙に気になり、ふと首を傾げてみせた。すると突然耳元で小さな鳴き声が上がる。――小鳥だ。
 ぼうっとしていたノーチェはそれを認識するのにいくらかの時間を使い、胸焼けを忘れた頃に漸くそれが何なのかが分かった。小鳥は数羽ノーチェの肩や頭に留まっていて、警戒というものをしていないようだ。
 「……んだよ」ノーチェは徐に紅茶を覗き込む小鳥を手で払い、口をつけさせないようにする。いくら小鳥でも口にして良いものと悪いものがあるのだ。屋敷の敷地内で死んでしまっては終焉に迷惑がかかるだろう。
 ――そう手で払うのだが、小鳥は飛び去るというよりは、彼の手元にちょっかいを出して、いやに楽しそうに囀ずるのだ。

「…………」
「そう変な表情をするな。ここに来る子らは無駄に警戒してこないからな、馴れ馴れしいのも大目に見てやってくれ」

 こいつらの人生は楽しそうだな――そうジト目をくれてやると、終焉は長い髪を垂らしながら足元の猫の喉を撫でる。くるくると喉を鳴らし、気分良さげに目を閉じている猫を見ると、どうにも羨ましく思えるほどだった。いっそのこと人生そのものを代わってくれ、と言いたくなるほどだ。
 その光景をノーチェは横目で見ていると、不意に終焉と目が合う。澄まし顔によく似合う澄んだ瞳――、それがノーチェを見つめて、緩く弧を描く。

「――撫でてやろうか?」

 ふとそんな言葉が聞こえた。
 ノーチェはハッとするとすぐに無表情を取り戻し、「何言ってんだよ……」と目を逸らす。小鳥達は相変わらず小さく鳴き喚いてはノーチェに何かを語りかけているようだ。時折自分の体ほどもある翼を広げ、何かを言っているがノーチェには意図は通じない。