「……分かんねぇよ」そう言ってノーチェは小鳥の相手を止めると、ほんの少し温くなった紅茶を口にする。口当たりの良いアッサムが舌にころころと転がっていった。随分と贅沢な飲み物を口にしているのは自覚済みで、奴隷である自分がこんなものを口にしていいのか、と彼は酷く慎重になる。もしかすると目の前の男は何かしらの恩を着せようとしているのかも知れない――そんな思いが胸に募る。
別に何をされようとも主導権は終焉にある。ノーチェ自身はあくまで男に従い、忠実であればいいのだ。そこに何の意味があろうとも、抵抗を見せるのは極力控えたい。何せ、面倒事が酷く億劫に思えるからだ。
そんなノーチェの様子を察したのか、終焉は甘ったるいミルクティーを一口。小さく啜った後、ノーチェを見ながら「外に出した理由だが」と呟く。
「強いて言うなら、少し恋しかったのだ。前はよく二人でこうして雑談を交えながら、小さな御茶会を開いていてな。その上、貴方も外をよく眺めていただろう? もしかしたら外に出たいのかと思ってな……」
余計な世話だったか?――軽く首を傾げながら終焉は寂しげに微笑んで言った。
「二人でこうして雑談を交えながら」そんな言葉がノーチェには何故か自分を指されているような気がしてならない。まるで懐かしむようにノーチェを見やる終焉は、彼のためというよりは、自分のためにノーチェを外に連れ出したと言っているようなものだった。
生憎男はノーチェに恩を着せようなどと思ってはいないのだ。ただ、同じように同じ時間を過ごしてほしいだけ。終焉は自分で作ったであろうクッキーを頬張り、ほう、と吐息を吐く。「食べてもいいんだよ」と勧められたクッキーを食べる気にはならなかったが、紅茶をちまちまと口にしていた。
終焉は「もう梅雨の時期か」と思いを馳せるように独り言を呟いた。視線の先にあるものを辿れば、ノーチェが先程まで見ていた花とも葉っぱともつかないそれが密集している。地面に近付けば近付くほど赤紫に近付いているその色に、どこか寒気さえも覚えた。それは、土が酸性かアルカリ性かで葉の色を変える紫陽花という植物だ。
「綺麗な桜の木の下には死体が埋まっている」――などという話を聞いたことがある。それと同様、赤い紫陽花の下には死体が埋まっているという話さえも耳に入れるほどだ。青から赤へ、土に近付いていくほどに色を変えているあの紫陽花の下には、死体が埋まっているのだろうか。――まさか、終焉は本当に人を殺しているのだろうか――そんな考えがふと頭を過る。
いくら死にたいと頭で思っていても、時折体がそれを否定するように竦んでしまう。目の前に人殺しを腹に抱えているであろう人物が居るというのに、「殺してほしい」と言うどころか、何も言えずに紅茶を啜っているだけだ。もしや、死にたいなどという考えは一時的な気の迷いでしかないのだろうか――。
「……あの紫陽花、色が移り変わっているだろう」
「あっ、ああ……」
不意に話し掛けてきた終焉に、ノーチェは肩を微かに震わせながら答える。紡がれた言葉に続けられるのは何か、いくつかの予測を立ててみたが、男が口にしたのは何の変哲もないただの感想だった。
「色が変わっている理由は分からないんだが、私はあの色の変化が好きでな……随分と綺麗だと思わないか」
ぐっと腕を組み、終焉は懐かしいものを眺めるような目で紫陽花を見つめた。男曰く、自分が屋敷に来た頃には既に紫陽花の色が移り変わっていたというのだ。
そこでノーチェは終焉が屋敷の持ち主ではないことに気が付かされる。我が物顔で屋敷内を把握しているというのに、終焉が来た頃にはもぬけの殻だったようだ。身寄りがないという男はその屋敷に身を寄せて、持ち主が帰ってくるその日まで預かっておくのだという。
「……帰ってこなかったら?」
どうすんの、とは言い切れなかった。終焉が言い切る前に口を開いたのだ。
「今まで通り過ごすよ」
終焉はミルクティーを飲み干してそう呟いた。甘く、ざらりとした砂糖が舌に乗るのを、終焉は随分と堪能しているようだった。それに、ノーチェは「じゃあ帰ってきたら?」と訊いた。持ち主が帰ってきたら、アンタはどうすんだ、と。
それに終焉は一度だけ目を閉じると、ノーチェを見据えてこう言った。
「――その頃にはもう、私は居ないんじゃないか?」
確信を得るような言葉ではない。しかし、曖昧にするような形のない言葉でもない。だが、ノーチェには終焉がそう自分を居ないものとして扱う理由が分からなかった。
いくら自分に「殺してくれ」と言ったところで、ノーチェに終焉を殺す理由はない。だからこそ、男の存命は約束されている筈だというのに、終焉はあくまで自分は屋敷に居ないものとして扱ったのだ。
もしかすると別の場所に移動しているのかもしれない。
ノーチェは確証も得ずに「そこに居ないの?」などという言葉を吐く気にはならなかった。あくまで彼は奴隷だ。そして、この隠れるような生活も、遅かれ早かれいつしか終止符が打たれる筈なのだ。そんなときに長々と終焉と馴れ合う気はなく、浅い付き合いをするものだと思っているからこそ、男に踏み込むようなことはしなかった。
代わりに用意されているクッキーを一つ。「ふぅん」と呟きながらノーチェは程好い甘さの、軽い食感を持つそれを噛み砕く。サクサクとして、程好い甘味の中に混じる芳ばしさが終焉の手作りだと裏付けているようだった。いくら口にしても感じるそれは、「美味い」の一言で表せるそれだ。
そして、恒例であるかのように終焉が「美味いか」と彼に訊いた。ノーチェは相変わらず頷いてみせると、終焉は嬉しそうに「そうか」と呟きながら足元に目を配らせる。――すると、気が付いたかのように瞬きをした。
「怪我をしたのか」
珍しい。そう言わんばかりに終焉は足元に座る猫を見やる。よく見ればその足には赤い血が滴っている。屋敷に来る際に木の根にでも足を引っ掻かれたのだろうか――猫は痛む様子も見せず「にゃあ」と一鳴きする。くるくると終焉の周りを回って、頭を擦り付けた後、長い尻尾を揺らしながらガゼボから出ていってしまう。
終焉はまるで会話をするかのように「手当ては要らないのか」と猫に言った。すると、猫は一度終焉に振り返った後、そのまま走り去っていく。その軽快な足取りは傷があるなどと思わせるものではなく、「無事みたいだな」と男は安堵するように呟きを洩らした。
ふう、と息を吐くと先程までの騒がしさが嘘のように静まり返る。気が付けばノーチェの傍らにいた小鳥までも姿を消していて、漸く落ち着きを取り戻すようにノーチェが椅子の背凭れに寄り掛かる。
少し騒がしかった――終焉と居るだけでは味わえない状況に慣れないノーチェは、呆然と終焉を見つめた。
独り身でいるにはあまりにも勿体ない。奴隷の相手をするなどもっての他だ。料理の腕は抜群、紅茶の淹れ方も文句の付け所もない。更に言えば見目も麗しく、表情の変化さえあれば周りから好かれること間違いなかっただろう。
そんな男が何故独りで奴隷の相手をしたがるのか、彼は気になった。――何故出会って間もない人間のことを「愛している」と言えるのか、気になったのだ。
「……あまり、そう見つめないでくれるか。恥ずかしいだろう」
「…………どこが恥ずかしがってんだよ……」
終始無表情のまま終焉がポツリと呟きを洩らした。その冷めた瞳で「恥ずかしい」と言われてもにわかには信じられない。思わずノーチェは睨んでしまっていたようで、終焉が「変な顔をするな」と言った。「別にしてない」そう呟くが、実際眉間にシワが寄るような違和感がそこにあって、ノーチェは額を手で擦る。ほんの少し力んだそれが、疲労感を誘った。
「……紅茶の淹れ方は分かったか? もし暇を持て余しているのなら、好きに出ていいぞ」
ノーチェが額を指先で擦っていると、終焉がそっと口を開いた。不意の発言にノーチェは終焉が何を言ったか理解できず、呆然とする。そして、ぼうっとする頭で男が何を言ったのか理解した瞬間、首を傾げる。終焉が物は好きに使っていい、と言っているような言葉に対し、何故そう言われるのかが理解できていないような様子だ。
終焉はそんなノーチェの様子を一瞥した後、はあ、と大きな溜め息を吐く。どうしても拭えない彼の奴隷意識にどう話をするべきか、腕を組んで頭を悩ませていた。
「まあ……その、なんだ…………私の家、というわけではないが、この屋敷は自分の家だと思ってくれて構わない。私は貴方に無理強いはしないし、貴方は無理に何かをしようと思わなくていい。やりたいことがあるならそれを優先してくれ。私は貴方の主人ではない」
これで伝わっただろうか。終焉がどこか不安げにノーチェの顔色を窺うように覗き込んだ。光の灯らない奇妙な瞳だ。ノーチェは終焉の言葉を咀嚼し、自分の中でよく噛み砕く。簡潔に言えば「今は奴隷であることは忘れろ」ということなのだろう。
長年染み付いた奴隷としての意識がそれを許してくれるかどうかと聞かれれば、それは許してはくれないだろう。人間に対する不信感が浮き彫りになる他、ろくな生活を与えられなかったのだから、終焉のいうものを信用するのもまた難しいと思ってしまう。
――しかし、折角与えてくれる珍しいものだ。ノーチェは「できる限り……」と呟いて、否定をすることをやめた。すると、終焉は安心したように胸をほっと撫で下ろし、手作りと思われるクッキーを一口。自分の作ったものの出来映えに誇りを持っているのか、「やはり私が作るものは美味い」と言った。
「…………もし、許してくれるなら、暇があるときにこうして付き合ってくれるか?」
クッキーをもらおうとノーチェは伸ばしていた手を止め、終焉の顔を見やる。何を不安がる要素があるのか、終焉はノーチェの意志を問うように、恐る恐るといった様子だった。
許すも何もない筈だろう。それとも、終焉にはノーチェに対する罪悪感でもあるのだろうか。――「別にいいけど」そう言ってやるつもりで口を開いたノーチェが呟いたのは、もっと肯定的なものだった。
「……アンタがしたいなら付き合うけど」
そう言ってやると、終焉はやけに嬉しそうに――そして、安心するように「そうか」と目を閉じて言った。