洗濯と看病と甘い洋菓子

 客間を出てエントランスを通り過ぎ、突き当たりの部屋へノーチェは足を踏み入れる。作り置きされていた洋菓子を食べてしまったことを謝らなければ、と頭の片隅に思考を追いやる。甘いものが好きな終焉を差し置いて完食してしまったのを知られれば、怒られるのだろうか、とぼんやりと考えながら。
 部屋の中は変わらずに薄暗いままで、足元が一時的に止まってしまう。――それでも、すぐに目が慣れて足を進めることに恐れは抱かなかった。男の小さな呻き声が耳を掠めてしまうことで、暗さへの興味など微塵もなかったのだ。
 赤黒い筈の暗い絨毯を素足で掠めて、終焉が寝ている寝具へと歩み寄る。本が散らばっていた机に置いてある桶を横目に、魘されている男を見つめて頬に手を添えた。
 薄暗い部屋でも分かるほどに悪い顔色に、じっとりと滲むような汗が頬を伝う。息も荒く、寝顔には眉間にシワが寄っていて、普段の余裕そうな表情など、見る影もない。頬に当てた手のひらがじわりと熱くなる。額に乗せた濡れたタオルが温く、取り替えてやろうとそれを手に取った。
 氷水に浸してやるのがいいのだろうか。――思案を繰り返しながら、ノーチェは桶に入った水にタオルを浸してやる。ぴちゃんと水音が暗い部屋に鳴っては呻く声がするというのに、話に出てくるようなやらしい雰囲気だけは決して起こらなかった。
 気が付けば「寒い」から一変、「熱い」と宣うようになっている。体がしっかりとした対処を試みているのだと思っては、額に濡れたタオルを載せてやる。すると――閉じていた終焉の瞼がゆっくりと開かれた。赤い瞳と金の瞳が、微かに潤んでいるような気がするが、ノーチェは「辛そうだな」とじっと見つめるだけだった。

「…………何か、食べたのか……?」

 自分を差し置いて他人の心配をする男を見て、ノーチェは小さく眉を顰めた。
 「自分の方が重傷だろ」と呟いて、べたつく終焉の頬を人差し指と親指で突っぱねる。力は加えていないが、終焉は僅かに痛そうな素振りを見せた。――男はノーチェの食生活が不安で仕方ないのだろう。
 食った、と彼は呟いた後、自分が何を口にしたのかを思い出して、終焉から目を逸らす。

「んと……冷蔵庫にあった菓子、食っちまった……」

 軽く唇を尖らせて、ノーチェは頭を掻いた。冷蔵庫にあった菓子というのは勿論シュークリームのことで、彼はそれが悪いことだと思ったようだ。もし、シュークリームが終焉が食べるものだとしたら、不機嫌になるだろうか。
 ノーチェはバツが悪そうに目を逸らしていたが、ちらりと男の顔を見れば、終焉はゆっくりと瞬きをしていた。
 「……構わない」――そう呟いて味の善し悪しを訊ねる終焉を見て、彼はそれが自分のためだったのだと理解する。何せ男はノーチェの為に用意した料理の類いは、必ずと言っていいほど味を訊いてくるのだ。今に始まったことではないその言動に、彼は呆れながら「美味かった」と終焉に告げてやった。
 終焉は多少満足そうに「良かった、」と口を溢した後、小さく咳を繰り返す。移るから、という理由でノーチェを部屋から追いやろうとしたが、彼は首を横に振ってそれを拒否する。
 ――どころか、口をへの字に曲げて、「駄目」と言い放った。

「……アンタのことだ。どうせ、俺がいなくなったら起きるんだろ。そうなったら元も子もない」
「そんなことは……」
「ある。俺の誕生日だからって動くんだろ」

 そうだよな。
 そう言ってノーチェは終焉の様子を窺うと、次に目を逸らしたのは男の方だった。
 ああ、言わんこっちゃない。――そう言いたげにノーチェは溜め息を吐いて、終焉を咎めるようにじっと目を見つめてやる。いつか見つめられた仕返しだ、という気持ちを込めているのは、彼の胸の中だけでの秘密だ。
 終焉は彼の視線に押し負けたように、おずおずと布団を目深にかぶる。そして「……うごかない……」と弱々しく言った。あまりの弱々しさに疑念すら覚えたノーチェだが、体調が悪いのも相まってのことだと思うと、強く咎める気持ちにもならなかったようだ。ふう、と小さく息を吐いて肩を落とす様子は、誰がどう見ても呆れている人間の態度だ。

「まあいいや……過労だって。早く寝て」

 ノーチェは終焉の様子に「これ以上言うこともないだろう」と思ってか、終焉の体をぽんぽんと軽く叩く。何か都合が悪いことがあればすぐに呼んで、と言えば、布団にくるまった大きな塊は「ああ」と返事をした。
 どうせ呼ばないだろうな、なんて思っていることは伏せて、ノーチェは椅子に掛けられている黒いコートへ手を伸ばす。普段から終焉と街へ買い出しに出ているお陰で、目当てのものがどこにあるのかが分かるのだ。
 薄い皮の質感に気が付いて、彼はそれを手に取る。手中に収まったのは、黒い財布だ。どの程度の金額が中に入っているのかは知らないが、目当てのものは買えるだろう――。
 ふと気が付くと、傍らにいる終焉――がくるまっている布団から、規則正しい寝息が聞こえてきた。寝苦しくなるだろう、と思って布団を引き剥がしてやって、寝顔を見る。睫毛の長さは最早女に匹敵するほどだろう。整った顔は、ノーチェから見ても確かに綺麗だと思うしかなかった。
 ずれ落ちたタオルを額に戻してやって、彼は終焉の部屋を出る。極力物音を立てないよう、細心の注意を払って、扉を閉めた。手に持った財布はそのまま彼の手元にある。外は暑いのだと思うと憂鬱でしかなかったが――仕方ないことだ。

「何しにいくの?」

 ――不意に声を掛けてきたリーリエに、ノーチェは丁度いいと言わんばかりに近寄る。

「これ」
「財布じゃない、どうしたの?」
「……何か、買ってこようと思って。これ、どれくらい入ってんの。俺、よく分かんねぇ……」

 あくまで余所から来たノーチェには、この街の通貨などまるで知らず。手に持った財布の中身をリーリエに見せて反応を窺う。財布の中には金銀銅の硬化がいくつか散らばっている他、札のようなものがちらりと顔を覗かせている。
 女はそれを見て「余所とあまり変わらないわよ」と言った。
 金は五百、銀は百、銅は十単位であり、札は四桁の金額を提示しているようだ。
 本や小説にあったように、どこかで見聞きしたような情報に、ノーチェはほっと安堵の息を吐く。自分の認識と、この街の常識が相違ないのが酷く安心できたのだろう。「……ありがと」と呟いて、彼はリーリエの隣を抜けてエントランスへと向かった。
 どこかに行くの、と背に掛けられた声に、彼は靴を履きながら答える。

「何か、買ってこようかと」

 トン、と踵を鳴らして履いた靴は、初めに比べれば随分と履き慣れたものだった。
 リーリエはノーチェが財布の中身を見せてきた理由に納得がいったようで、「成る程ね」と言いながらエントランスへと近付いてくる。すらりと伸びた足にはほんのり薄手のタイツを穿いているのか、多少の違和感を覚えて顔を見た。終焉とは違った赤い瞳が、じっとノーチェを見つめている。あまりに凝視を続けていれば、胸の内を見透かされそうな感覚へ陥った。

「ついて行こうか?」

 そう言ってリーリエは自らを指差し、小首を傾げる。赤色に染められた爪が存在を主張していたが、ノーチェは首を横に振って「いい」と女に告げた。

「街、よく分かんねぇって言ってたろ」
「あら、覚えてたの」

 案外記憶力いいのね、とリーリエは呟いたが、祭りの出来事は僅か数日前のことだ。忘れる筈もないだろう。

「アンタはあの人のこと見てて。すぐ帰ってくるから、平気」

 そう吐き捨てて、ノーチェはエントランスの扉を開けた。扉の先は眩しいほどの光に包まれていて、思わず顔を顰めるが、僅かに眉が寄るだけ。何か言いたげのリーリエを扉の向こうに押しやって、白石の段差を軽く降りる。
 夏の景色は目を焼いた。木々の他に、足元の草たちが酷く煌めいていて、目が痛む。目の奥がじりじりと焼かれるような違和感に、彼は堪らず舌打ちをして、何かかぶるものを持ってくればよかった、と独りごちる。辺りからはじわじわと蝉の鳴く声が響き、出てくる汗は不快でしかない。
 それでも歩みを進める彼の手には、たったひとつの財布が握られていた。
 屋敷から街への道は一直線だ。時折虫がちらりとノーチェの眼前に現れては、彼はそれを追い払う。道中春に見かけた桜の木を見上げて、深緑に色づいているそれを見て息を吐く。額から流れる汗を拭って、日焼け止めを塗ればよかったと後悔。焼けたらリーリエが口うるさいだろうな、と思っては、面倒だという気持ちが胸に押し寄せる。
 陽炎が漂う地面を踏み締めて、見えた街の入り口を見て「はあ」とノーチェは肩を下ろす。初めの道のりは何とかできたが、未だに彼は街の構成を理解していない。目当てのものが売っている店に辿り着けるかどうか、不安でしかないのだ。

「……あの人にいるか分かんねぇけど、冷たいもんとかないよりはマシだよな……」

 そう呟いて、見えた街の出入り口から一歩、街へと踏み込んだ。
 地面から石畳へ。熱気は増して、人のざわめきが目立つ街中へ。「暑すぎ、」と言って何気なく触れた首輪は、ひやりとして冷たかった。こんなものに多少救われたような気持ちになるなんて、と不愉快になったのはノーチェ自身も気が付かない。
 人の波を終焉の背を見て学んだように、見様見真似で避けながら街中を流し見る。食品の取り扱いが目に付くものだが、生憎欲しいものは食品ではない。タオルだけでは限界があるだろう、と思って冷たいものを探しているのだ。
 いうなら雑貨の類いだろうか。いや、生活用品でもあるかもしれない。
 彼は何気なく人集りがする店へと体を捻じ込んで、辺りをきょろきょろと見渡した。――その間、何やら人の視線が自分へ注いでいるような気がして、ちらりと辺りを横目に見る。原因は首輪だろうか。
 酷く嫌な気持ちに苛まれていると――

「――おい」

 ――と、低い声がノーチェの背中から聞こえてきた。