深傷の男

 それは珍しく雨が強く降り頻る日の事。あまりの雨に当然の如く人々は家に閉じこもり、雨水が家に入り込まないよう窓も扉も閉め切っている。当然、外の景色も見ない訳だ。石畳を打ち付ける雨の匂いは誰もが嫌っていたが、中にはその匂いが好きだと笑う物好きも居る。

 ――だが予想以上の雨だ。その彼らも外に出ようとは思わなかった。――だからこそ誰も知らないのだ。外の存在に。

 雨の匂い――磯の香りとも言おうか。その中に紛れる赤い匂いが雨によって掻き消される。石造りの壁に体を預けて足を引き摺る男が一人、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら徐に歩き進めて行く。見慣れない街並みに戸惑いはするものの立ち止まってはいられないのだ。腕から、足から、体中から溢れ出る血の勢いが止まらない。更には雨ときたものだ。開いた傷口から止めどなく溢れる血液は止まる兆しを一切見せやしない。
 男は傷付いた腕を押さえ付け、ろくに動きもしない片足を引き摺って歩いているが、もうじき終わりが来るのではないかと考えている。最初にあった痛みなど感覚が麻痺したかのようにすっかり消え去っているのだ。いつ死ぬかも定かではない。それでも男が歩くのには訳がある。――男は追われているのだ。
 一歩一歩微かに、確かに歩く度に傷が開いていくのが分かるような気がした。男の眼前には人は居ない。小綺麗な街並みがただ広がっているだけだ。――都合は良い。しかし、治療出来るような人物は全く見当たらない。

 いつしか男の視界は歪むようになった。天地が引っ繰り返るような、足元から崩れ落ちるような歪みだ。必死に壁に寄り掛かりながら呼吸を落ち着かせるが、次第にそれも効果がなくなっている。少しずつ確実に手足の力が抜けて前へ前へと進むのが難しいのだ。歩いたと思うのだが実際はろくに歩けてもいない。男は限界が近いのだと理解すると、小さく舌打ちをする。

「……!」

 不意に男の体が石畳へと打ち付けられた。体が限界を迎えたのだ。倒れた、と理解するや否や男は徐に体を起こし、石造りの壁へと寄り掛かった。大きく息を吸って吐いてみる。どうやらまだ生き延びているようだ、身を捩りたくなる痛みが男の体に迸る。

 小さく咳き込むと赤い色が手に零れ落ちた。どうやら口の中を切ってしまったらしい。汚れた手を黒い服に擦り付け汚れを拭い取る。立ち上がろうかと一瞬だけ試みたが、思うように体に力が入らなかった。ここまで来る間にも沢山の血を流してきたのだ、力が入らないのも頷けてしまう。
 雨は依然男の体を強く打ち付けている。男は鬱陶しそうに空を見上げるが、酷く薄暗い鈍色の空には太陽の欠片ひとつも見えない。男の暗い瞳は空を憎たらしげに睨み付けていたが、それもまた無意味なものと片付けて終わる。辛うじて動く手で体に触れると所々がやけに痛む。知らない所で知らない傷を負ったのだろう。小さな舌打ちは雨音に掻き消されてしまった。

 ほう、と息を吐くと不意に酷い眠気が男を襲ってきた。あれだけ憎たらしげな暗い瞳が少しずつ瞼に覆われようとしている。――恐らく時間が無いのだろう。そう理解するや否や男は右手で懐を探った。硬く歪で物騒な物を触れる感覚がまだある。しかし、求めているのものはそれではない。その少し上――胸ポケットの中の物を取り出して男は小さく顔を顰めた。

 煙草は男にとって気を許せるものだ。いつからだか記憶は定かではないが、自暴自棄になって吸い始めたのが切っ掛けだろう。依存性の高いそれは気が付けば男の生活になくてはならない物に成った。色恋沙汰に興味が無いと言えば嘘になっただろうが、今は煙草さえあれば満足なのだ。――その煙草が、ケースの中にひとつも見当たらない。
 最後に一服。そう思ったのにいつの間にか切れていたそれに苛立ちを隠し切れない。――こんな騒ぎさえ無ければ。こんな厄介事に巻き込まれてさえいなければ、そう思うのだ。ケースの中に一本が入っていたとしても雨で火は点けられなかっただろう。それでも良かったのだ。

 男は軽くなったケースを握り締めて投げ捨てようとした。だが、微かに残る良心が男の行為を押し留める。こんな時でも「良い人」でいられる自分に対し、男は嫌気が差したが、仕方なくその手を下ろす。雨は無情にも男の手を、傷を抉るように降り続けた。

 最期の最後に一服すら出来ない人生に対して文句のひとつやふたつも溢してやろう。――しかし、酷い眠気に男は襲われているのだ。あれだけ抗っていたが次第に抵抗する気力も無くしていく。元々出血の所為で何に対してもやる気など無かったのだ。死んだ所で誰も悲しみやしない。
 男は手を腹に乗せ、眠るように目を閉じた。どこまで歩いたか定かではないが、沢山の道を歩いていたような気がする。少しくらい休んでも誰も咎めないだろう――。

「…………あら……」

 ふと、雨が止んだ気がしたのだ。