深傷の男

 貧困でも特別裕福でもない――かと言って極々普通の家庭でもない家に男は生まれた。そこそこ成功している父と優しい母、それに妹が一人。男はその家の長男として生まれてきたのだ。特別無愛想でも愛想の良い人間ではなく、極々普通の人間である。

 男は髪を切りたがったが、妹に似合うと言われ半強制的に髪を伸ばし続けた。時折内緒で髪を切った時はこっ酷く怒られ、拗ねられた事さえある。それ以来男は渋々髪を伸ばしているが、鬱陶しいとばかり思っている。男の髪は男にしてはいやに艶やかで繊細なのだ。男の妹が髪を伸ばさせたくなるのも頷けるものがある。それでも男として嫌なものがあった。
 それも気が付けばどうでも良くなっていた。男は何をしなくても生きていける良い暮らしではあったが、何かをしていなければ気が済まない性分であった。手に職をつけた男は仕事にやり甲斐を感じていた。表情こそ豊かではないがやる気は人一倍あったのだ。誰が今見ていなくても、目に見えない場所ではよく見ている人物が居ただろう。

 ――そんなある日の事。男はそれを「人生の厄災」と呼ぶ事にした。普段のように仕事へ赴けば見知らぬ男達が男を取り囲む。見た目からして明らかに「善い人」ではない。懐に手を入れたと思えば、黒光りする物騒な物が取り出された。それを初めて見た時の男と言えば酷く滑稽で、驚いていたのだろう。男達は面白可笑しそうに嗤っている。――中には訝しげな表情を浮かべている男が居たが、本人には気が付く余地もない。
 不意に信頼している男の仕事の上司が現れた。何食わぬ顔で平然としたままふらりと男の目の前に現れ、瞬きをひとつ――男を指差して言った。

「ああ、そうだ。こいつがやったんだ」

 そこからどう逃げていたのか男は最早記憶すら出来ていない。ただ必死に家族の待つ家へと戻ったのはよく覚えているだろう。そこで見たものに男は己の耳を、目を疑ってしまった。家を出る前に見た家族の優しい目が一変、男を見る目が穢いものを見るような目になっていた。男に一番懐いていた妹でさえ男を軽蔑している。
 誰が元凶だろうか。男は自分が嵌められた事に気が付く。仕事も人望も家族も一気に失ったようだ。男はみっともなく背を向けて走り出した。それが最善だと思ったからだ。――逃げる事で大事にしていたものに手を上げずに済むと、思ったからだ。

 慣れなかった拳銃もいつしか握る事が当たり前であった。しかし、相手は拳銃の扱いに慣れている奴らだ。男一人を仕留めるにはそう時間が掛からない筈だ。だが、男は頭が良かった。運が味方したと言うのだろうか――つい先日までは。
 やはり拳銃の腕は彼らが上なのだ。悉く身動きが取れなくなるよう、足ばかりを狙って動きを制していった。いつしか男の表情からは笑みが消え、怒りだけが現れるようになっていた。それでも感情的にならなかったのは男の性格故だろう。無理に前へと突き進まない男に彼らは苦戦していた。

 ほんの少しの油断と余裕が顔を出す。それがいけないものと知っていても、無意識に男は肩の力を抜いてしまった。カタンと小さな物音に気が付いた時、黒光りする銃口が男の眼前に現れ――。