深傷の男

 はっと息を吐いて男は勢い良く目を開けた。手や顔には汗が滲んでいて酷く不快そうである。顔にへばり付く髪を払おうと右腕を動かすと同時、男の体に鋭い痛みが迸る。息をしようにも浅い呼吸すら繰り返す事が難しい程だ。
 ――手傷を負っていたんだっけか。男は理解したように舌打ちをひとつ。徐々に痛みが消えていくのを感じながら茫然と目の前を眺めた。

 眼前に広がるのは見た事のない天井。木の香りが仄かに香る木製の作りだ。ちらりと横目で見れば所々彩りを添えるように緑を誇る観葉植物が置いてある。机も絨毯も、今の場所から見えるキッチンでさえも特別古ぼけた印象は無い。部屋と家具の数からして一人暮らしだろうか――微かに漂う見知らぬ甘い香りに、男は眉を顰めた。
 無理をしてでも体を起こして意識の覚醒を促してやる。逃亡を続けていた所為か、艶を失った黒髪が肩から流れ落ちた。艶が無い――筈だが、不思議と繊細な黒髪はサラサラとしていて、指で簡単に梳ける程だ。待ち前の性質だろうが、男にとってそんな事はどうでも良かった。窓から差し込む光がいやに眩しい。雨は止んだのだろうか。

 辛うじて動く右手で男は体をなぞっていく。堕落していない体は必要な筋肉を持っていて惚れ惚れする程体付きが良い――のだが、生憎その体は幾重にも巻かれ重ねられた包帯によって隠されている。それらを見かねて瞬きをひとつ。――果たして一体何日が経っただろうか。

「…………」

 耳を傾ければ外から幾つもの声が聞こえてくる。はしゃぎ駆け回る子供達の声、威勢の良い大人の声、子供達に制止を促す母親の声、兄を呼ぶ妹の声――。男は耳を澄ますのをぴたりと止めた。ほう、と息を吐いて懐を探ろうと痛みも気にせず手を伸ばす。しかし、その手が宙を掠めたと知ると嫌そうに顔を顰めた。

 男の言いたい事はただひとつだけに止められない。ここは一体どこなのか、自分は何日眠っていたのか、元々着ていた服は一体どこにあるのか、――奪った拳銃がどこにあるのか。男は家主を探して問い詰めるべく辺りを見渡す。だが、ここから部屋が一望出来てしまう事に苛立ちを覚えてしまう。家主は一体どこに居るのだろうか。――不意に湯煙を目に、男は重い体を持ち上げた。
 思ったよりも体は鈍っていて思うように動かない。それでも男は壁伝いに湯煙が上がるキッチンへと向かうと、銀色のやかんがしゅんしゅんと音を立てている。まな板の上には使われていたであろう包丁と、形の良い彩り豊かな野菜達が並んでいる。――何かを作る予定だったのだろうか。無用心な奴だな、男は心中で悪態を吐きながら焜炉に手を伸ばし、火を止める。カチン――軽い音と共に湯煙が止んだ。

 キッチンから部屋を見れば自分が居た所が寝具の上であった事がよく判る。その近くには窓がひとつ、棚の中には観葉植物が顔を覗かせている。あまりの居心地の良さに警戒心を解きかけたが、窓から覗く見覚えのある暗い布に男は意識を取り戻した。

「…………あんな所に……」

 洗濯されて干されているに違いない。風に揺れる布地を見る度に男は焦燥感を掻き立てられる。――傷を負ってから何日この場所に居ただろう。あまり同じ場所に長居していては面倒事に成りかねない。
 男は覚束無い足取りで窓の方へと歩いていった。思うように動かない足に憤りを覚える。――ふと部屋の隅に目を移せば良い値で売られていそうなピアノが目に入る。壊れた様子もなく、使い古された様子もない。家主は弾ける人間なのだろうか――気が付けば男の足は止まっていて、その目はただピアノだけを見つめていた。

 外では子供達が誰かに別れを告げていた。「じゃあねー!」元気で明るい声が耳を劈く。その声に意識を引き戻した男に軽い足取りがひとつ。小さく鼻歌を歌いながら手を伸ばす。

「たっだいまぁ~!」

 家主は一人暮らしだと思うが、家主と思われる人間は気分良さげに玄関を押し開け「ただいま」と言った。男は突然の出来事に肩を震わせながら咄嗟に懐に手を伸ばすが、何かを掠めた様子はない。それどころかただ痛みを伴って返ってきただけだ。男の背後では女の声がしたと思ったが、その声はすっかり止んでしまっている。気の所為だと思いたいと願いながら男は徐に振り返った。
 太陽にも似た明るい鮮やかな橙色の髪が酷く印象的であった。男とは正反対の色に、男は目を細める。身長は160はないだろう。誰が編んだのかも分からない三つ編みは何故か所々崩れていて見られたものじゃない。――漂う甘い香りと女の姿に、やはり女だったか、と男は舌打ちをした。

「起きたの……あっ、まだ歩いちゃ駄目よ!」

 女は靴を乱暴に脱ぎ捨て男の元へと駆け寄る。長いスカートのようなワンピースのような服が靡いた。肩に掛けられていたストールが咄嗟の行動に肩から落ちる。女は慌てながらも男の体に強くは触れず、「ベッドに戻って」と促してくる。女から洗髪剤の匂いが漂う――男は小煩い女の言う事を渋々聞き入れ、乱暴に寝具の端に座った。軽く俯いた体勢を取るとやはり髪が流れる。髪を纏めるものが欲しい、と流れ落ちた髪を払った。
 本当は寝ていて欲しいんだけど。女は先程とは打って変わって再び軽い足取りで落ちたストールを取りに行く。心なしか、女の顔は仄かに赤みを帯びているが、気に留める程ではない。「でも良かったわ」女はストールを肩に掛けると再び男の元に歩いていく。椅子を持って寝具の傍に置いて、服を払いながら椅子に座った。
 女はいやににこにこと笑っているが、男はただ無表情のままじっと女を見つめている。何が可笑しいのか男には分からないのだ。

「気分はどうかしら」

 様子を窺うような言葉に男がひとつ間を置いてから口を開く。

「…………別に」

 それ以上でもそれ以下でもない。男は必要最低限の言葉だけを紡ぐと女を睨む。誰も彼もを警戒しないと生きていけないような境遇に居るのだ。そうでないと思いながらも男は女を警戒し、不必要な言葉を出すのを避けた。反対に女は男と話をしたそうに顔を見つめている。男の睨みなど気にも留めていないようだ。
 男はただ睨んでいた。だが、女はいやに綺麗な橙色の瞳で男をじっと見ている。まるで仔犬にも似たその瞳に嫌気が差すと、男は観念したかのように「何だ」と言った。女は「良かったと思ってるの」と言う。

「ずっと寝てたから起きないんじゃないかと思って……」

 女が言うには男は一週間近くも眠っていたようだ。その間にも男は悪夢に魘されて女は必死に看病したと言う。男は話を聞き流しながら左腕を摩る。肩が上手く動かないのは恐らく深傷を負っているのだろう。試しに手を握り締めると何とか拳を握る事が出来た。
 ふと男は顔を上げて「服は」と軽く問う。「俺の服はどうしていたんだ」と訊く。それを聞くや否や女は顔を赤らめながら「洗濯したのよ」と慌て始めた。

「貴方の服はちゃんと他の人が着替えさせたわ! えと、汚れていたから洗ったの。あんまり落ちなかったから何回も洗ったわ」

 破れていたから繕ったりもしたけれど。女は苦笑気味に男に微笑んだ。どうやら気味の悪い事になっているであろう傷は見られずに済んだらしい――ではなく、男は小さく眉を寄せる。ある筈なのだ、所持している物が。何度も何度も繰り返し使った拳銃が。
 「どこだ」男は唸るように低い声でポツリと呟いた。当然の如く女は理解していないようで首を傾げながら「どこ?」と繰り返す。俺が持っていたものだ――男は終始女を睨んでいるつもりだが、当の本人はそれに気が付いていないかのようにパッと顔色を変え、何の事か分かったように手を合わせ、棚へと駆けていく。

「これでしょう、貴方の言ってる物」

 丁寧に布に包まれているものが目の前に差し出された男はその布を払い、黒光りする拳銃を手に取る。生憎慣れてしまったその重さに微かな安心感を抱く程、拳銃が在るのが当たり前になってしまったようだ。
 不意に女が窺うように呟いた。「貴方のそれ、エアガンでしょ?」と。
 女は布に包まれた拳銃を確かに両手で持って来た筈だ。身に染みるような重さのそれがエアガンな訳がないだろう。男はそう否定しようとして――。

「…………ああ……」

 何故だか嘘を吐いた。その心理は男自身でさえもよく分かっていない。本物だと言って脅してしまえば楽だろうに、女の不安げな表情が男に嘘を吐かせたのだ。男の嘘を聞いた女はさも嬉しそうに「良かった」と笑ったが、男は腑に落ちないままであった。貴方がそういう人で良かった、と言うのだ。

「そうだわ! 貴方の傷酷いし、良くなるまで――」
「……待て」

 男が頭を悩ませている間に女は家に居ても良いと言いかけた。その点において確かに言いたい事のひとつやふたつが浮かんできたが、男が言いたい事はそれではない。言葉を遮られた女はきょとんとした顔で「なぁに?」と言う。

「その『貴方』ってのを止めろ。虫唾が走る」

 男の文句に女は「あら」と呟いた。それは、雨の日に聞いたような呟きと酷似している。

「でも私、貴方の名前を知らないわ」

 女の的確な解答に男は咄嗟に息を呑んだ。何か嫌なものに触れてしまったかのような感覚だ。そんな事もつゆ知らず、女は「私はアイリスっていうの。貴方の名前は?」と男に返事を求める。男を見上げる瞳はあまりにも無垢で、穢れを知らない少女にも似た純粋な瞳だった。
 名前を明かせば女は――アイリスは男の知人として男同様、面倒事に巻き込まれてしまうだろう。いや、男を拾ってしまった事から既に手遅れかも知れない。
 ――男は自分の名前を明かさないとばかり口を噤んでいたが、やがてアイリスの瞳に押し負けたかのように溜め息を吐き、名を明かした。

「セリウス…………セリウス、だ」

 男は、セリウスは何かを続けるように口を開いたが、それもすぐに閉ざされてしまった。男の名を知った女はやはり嬉しそうにより一層深く微笑み、「宜しくね」と呟く。その笑みが窓から差し込む太陽の光のように眩しくて、セリウスは目を細めた。

「改めて、セリウス。傷が治るまでうちに居ると良いわ!」

 ――こうして見知らぬ罪を擦り付けられた男と、何も知らない女の同居生活が始まった。