――暗い暗い深淵の中を彷徨い歩いているような感覚だった。目的も無く、行く宛もない。ただ波に逆らわず揺られているような感覚を味わっていたのだ。試しに手を伸ばしてみたが、虚空を手が掠めるだけで何かを掴めた試しはない。時の流れとは遅くも早くもあり、暗闇の中を立ち止まってしまえば深い所まで呑み込まれてしまうのではないかと錯覚してしまう程、何も無い。
――逃げたかったような気がした。覚束無い足取りでゆらゆらと、揺られる感覚を味わいながら歩いていて。何故歩いているのか、と問われれば「ただ解き放たれたいから」と答えてしまいそうなのだ。
そして、それは突然だった。不意に足が動かなくなってしまうのだ。ああ、またか、と心中で呟きを洩らす。足元に目をやれば、何も見えない筈の闇の中にくっきりと鎖が見える。赤く、そして黒く――まるで酸化する過程の血液がそのまま鎖になってしまったかのような、いやに鈍い色の、やけに細い鎖。それが肉に食い込むように強く巻き付いている。
痛みはある。しかし、とうの昔にその感覚を失ってしまったかのように表情は一つの揺るぎも見せやしない。逃げたいと思う気持ちは闇に呑まれてしまったようで、それに抵抗する気持ちは一切湧かなかった。
憎しみと恨み、責任を求める声、存在の意味を問われたかと思えば、寂しさや孤独が押し寄せてくる。それが強くなれば強くなる程、体を強く引いて終わり無き世界へと誘おうとしてくる。気が付けば足だけでなく腕にも巻き付いている鎖――謂うなれば罪滅ぼしの鎖とでも喩えてしまおうか――それが「罪だ」と言わんばかりに、「罪滅ぼしの方法だ」と言わんばかりに、次第に巻き付く数を増していく。――やがてそれが胴体に巻き付いてきた時、その体はゆっくりと向きを変えてしまう。
あまりにも色濃く、ぎりぎりと肉に食い込む強さは今までの比にならない気がした。妙な強さに、衣服越しから巻き付かれた腕から肉が破れるような音を聞く。ぶちぶちと皮膚を引き千切られるのは心地が良くないようで、ほんの少しだけ眉が顰められた。一瞬だけ――、けれど確かに嫌悪が溢れ出す。
「……〝今回〟は、骨が折れそうだな……」
今までにない強さを持った鎖に対して抱いた嫌悪は、唇から言葉を紡ぎ出させるのに成功してしまう程に強い。嫌だと思っていた気がしたが、何もかもを置き去りにするように踵を返し、彼は鎖が伸びる暗い向こうへと歩き出していく。歩を進める度に鳴る足音、靡く長いコート。女のように伸ばされ続けた髪は暗闇に溶けてしまう程、どこまでも黒く。
幾度となく繰り返され続ける世界。彼の新しい朝が訪れる――。
「………………」
目を開けばそこは、一人で居るにはあまりにも広く思える見慣れた部屋だった。寝具の上から横目で見た日の光は新たな門出を祝うように眩しく、小鳥の囀りが春の訪れを告げている。
なんて忌々しい――そう呟いて、男は自分の手で顔を覆った。