鬱陶しい雨と、湿った空気と、暑苦しい夏が嫌いだった。
水を溜めた氷嚢に氷を落とし入れ、口の紐をきつく縛る。下手に水が漏れ出さないかを確認して、円状の蓋を閉めて水道を後にする。入り込んだ先にあるステンドグラスは、目映いばかりの光を通していて、目を見張るほど輝いていた。
今さらそんなことで感動を覚える歳でもない彼は、その情景を後目に片隅の部屋へと向かう。マリア像を素通りして、焦げた茶色の扉をノックして、「入るぞ」と声をかけた。
きぃ、と音を立てて開いた扉に、滑りの悪さを感じる。後で対処してやろうと思いながら踏み入れた部屋の隅――寝具の上で、彼女は目を回していた。
「レイン、冷たいの載せんぞ」
「……!」
長い髪を持つ彼女に一声。そのまま額に氷水を入れた氷嚢を落とし、反応を窺う。レインは一度肩を震わせてその冷たさに驚いたようだが、すぐに気持ちよさげに口角を上げた。
部屋には冷房も効いているが、彼女にとってはまだ熱がこもったままなのだろう。閉めきられた窓の向こうには草木がちらほらと生い茂って、ベンチがひとつ備わっている。そよ風が撫でるように吹いているが、冷たさなど微塵も含まれていないのだろう。
厄介な季節だ、と彼は思う。
特別熱には慣れているのだが、長期に亘ると体内を巡る熱量が増してしまい、倒れやすくなる。定期的に熱を放出すればいい話なのだが、そう上手くいかないのが現実だ。
かくいう彼――ヴェルダリアもまたその一人。炎を扱うのが得意としている所為か、人よりも遥かに熱を蓄えやすく、暑さには弱い。ヴェルダリア個人としては夏よりも冬の方が遥かに好ましいのである。冬場では人一倍暖まりやすいのだ。
当然、目の前で倒れ伏しているレインもまた彼と同じ状況だ。彼女は思うように動けず、声もまともに出してはいけない。全ては首につけられた黒い首輪が原因で、ヴェルダリアはそれを忌々しげに見つめる。黒い鉄製のそれは、触れても冷たさを維持したままだ。
これを外すには奴の協力を仰がねばならない。――その事実が彼の怒りを沸々と沸き立たせるのだ。
「……くそ」
憎たらしい、と言いたげに舌打ちをして、ヴェルダリアはその部屋を後にする。去り際にレインの様子を横目で見れば、彼女は薄ら目を開けて、気怠そうでありながらも微笑みながら小さく手を振った。礼でも述べているのか、それとも「いってらっしゃい」のつもりなのか。
――まるで区別はつかないが、ヴェルダリアもまた手を振ってやって、彼女の部屋を出た。
憎たらしげに教会内部をじっと見つめる。あちこちのステンドグラスから光が漏れて、絨毯には赤や黄色、青や緑などの色が落とされている。内部もまた冷房が効き渡っているが、彼が求める涼しさには程遠い。ぱたぱたと手を仰いで風を送ろうともまるで意味がない。
昼間の教会は人目が気になる。――しかし、人のいない今なら多少は許されるだろう。
マリア像の真後ろに隠れている壁をぐっと押し込むと、小さな音がして、近くの本棚が重そうな音を立てて横へと動く。本棚に隠されていた扉を開けて、暗い部屋を突き進んでいくと、またひとつ扉がある。以前訪れていたあの場所に、体を冷やしに行こうという魂胆だ。
ふたつめの扉を開けた先にあるものは、やはり異様な光景ばかりだ。氷の水晶がいくつも生えていて、天井や床も辺りがすっかり氷で覆われている。突き進んで行けば、やはり氷付けにされた赤い薔薇が辺り一面に広がっていて、目を疑うばかりだ。
あまりの氷の量に、ほんの少し肌寒さを覚える。汗が冷えきって――寧ろ凍り付いた気がする――堪らず腕を擦るが、それすらもまた心地がいい。
大量の赤い薔薇に、踏まないよう気を付けていてもシャリ、と音を立てて踏み締めてしまう。最早ここは天然の冷凍庫だ。
その広い地下の中央にあるのは、蓋の開いた棺桶がひとつ。赤い薔薇に囲まれたまま手を組んで、安らかに眠る女が一人。淡い空色の髪に、シスターのような服が特徴的な女の顔は、血の気など微塵もなかった。
「アンタも苦労してんなあ」
目を閉じたままの女に語るヴェルダリアの顔は、レインに向けていたものよりも遥かに悪意が込められている。だが、返事など返ってくることはないのは明白だ。いくら何を言おうと煽られることのない状況に、ヴェルダリアはほんのり優越感を抱く。
こんなものに男は執着しているのだと思うと、酷く滑稽に思えたのだ。たった一人の人間に対して抱く感情はたかが知れている筈なのに、それを悠々と越えていく。住人や建物など、この女に比べれば遥かに安いもの。他人の命など、この女に比べれば道端に落ちている石と同じような価値なのだろう。
亡骸の状態は非常によく、腐ったような臭いや部分などまるで見当たらない。本当に眠っているだけだと言われれば、信じてしまうほど綺麗な状態だ。このことがあの男の目的を裏付けているようで、厄介だと頭を掻く。
ヴェルダリアには欲しいものがあった。――正確に言えば取り返したいものだ。大切に扱っていたつもりなのに、気が付けば手元から離れていってしまったもの。それをどうにかして取り戻したいと思い、わざわざ〝教会〟に所属している。
奇しくもそれに必要なものが、一人に集まっていくのだ。この状態を打ち壊すには、ある人物の力が必要だと知ってしまった。奴にとっても、ヴェルダリアにとっても必要な存在が、たった一人にある。――そう、仕組まれたのだろう。
「あー……」
彼は鬱陶しそうに赤い髪を掻き乱し、下りていた前髪を掻き上げる。「もうちっと愚痴を聞いてくれ」と、喋らない女に向かって言葉を吐いた。