溢れる愚痴と魔女の毒料理

 残暑が厳しい夏は、夕暮れになっても日差しが眩しく、虫の声も煩わしく思えた。夜の静寂が少しばかり恋しくなって、まだか、まだかと胸を躍らせそうになる。
 しかし、そんな時間も迎えられず、ノーチェは寝具へ顔を突っ伏したまま深い溜め息を吐いた。
 漸くだ。漸くあのリーリエを屋敷から追い出すことができた。その疲労感と言えば何よりも強く、違和感は舌の上を転がり続ける。胸焼けが止まらず、顔を突っ伏したまま胸元に手を当てて、うぅ、と唸る様子は、終焉よりも具合が悪く見えた。

 初めこそは何も問題はなかった。終焉が寝に入ったのを見届け、衣服を傍に置いてやった後、ノーチェは洗濯機を再び回しに行く。その道中、自分も汗をかいてしまって気持ちの悪い衣服を変えるべく、部屋へと向かった。
 対して代わり映えのしない服に着替えて、脱衣室へ向かって、とうの昔に回り終えた洗濯機のふたを開ける。すっかり湿気ったそれをカゴに移し、汗にまみれた衣服を洗濯機へと押し込んだ。
 洗剤と柔軟剤をそれぞれ準備して、カゴに移した洗濯物を庭の物干し竿に干してやる。シワを伸ばしてから干す、という作業を見届けてきた彼にとって、それは終焉の真似事をするのと同じだ。パン、と音を立ててから、なるべく丁寧に干してやって、事を終えたら屋敷の中へ戻る。
 これだけいい天気なのだから、寝具のシーツや、枕カバーを洗うのもよかったな。――なんて思いながら脱衣室へ戻って、彼はじっと浴室を見ていた。汗をかいたのだから、体を洗うのも悪くはない。そんな思考が頭の中によぎる。
 やること終わったらシャワーでも浴びよう。そう独りごちて、何気なくキッチンの方へと顔を出した。

「……いや、可笑しいだろ……」

 ノーチェの視界に映るのは荒れたキッチン。食器類が割れているような様子は見当たらないが、何故か異臭が漂っていて、白い食器類が黒ずんでいる。つん、と鼻の奥を突くような香りに、ノーチェは今までにないほど表情を歪めてしまって、リーリエは「何、その顔」と呟く。
 終焉が囁くように言った「料理が下手」というのは、このことだろうか。――しかし、この状況は下手という一言だけで収まるようには見えない。何せ、少しでも腹を満たせるように、買ったものは誰でも作れるレトルト食品だ。それが嫌なら、と皮を剥くだけの果物も買った。リンゴが食べたい、と言ったのはリーリエで、彼自身は皮ごと食べられるものでもいいのではないか、と思っていた。
 リンゴは皮ごと食べられるものではあるが、リーリエはあまり好んでいないのだろう。果物ナイフで懸命に皮を剥こうとした形跡があるが、肝心のナイフは見当たらない。一体どこにあるのかと目線を下へ移せば、床に突き刺さったそれがキラリと光る。
 料理が下手という領域ではなく、手先が不器用なだけではないだろうか。
 こっそりキッチンへ足を踏み入れたノーチェは、机に突っ伏している女の傍へと近寄る。傍らには何とか形になったような歪なサンドイッチが置かれていて、そこから微かに焦げたような香りが漂う。一度焼いたパンを一口サイズに切り分けられたそれに、ノーチェはそうっと手を伸ばした。
 終焉の手料理を毎日食べ続けてきた彼にとって、料理とは美味くて当然のもの。加えて確かに空腹を感じるノーチェは、不格好なそれに口をつける。

「――ッ!?」

 何だろうか、この味は。焦げたような味に何故か洗剤のような味がする。懸命に買ってきた野菜やたまご達の味を見事に殺し、噛み締める度に舌を焼くような痛みが微かに走る。買ってきたものを見たノーチェですら食材が正常であることを認めていたのに、嘘であったかのように奇妙な味しかしなかった。
 やがて、噛み締めていくと謎の食感が歯を伝う。柔らかいような――いや、砂のようにざりざりと、異様な食感がしたような。その度に彼の中で何かが限界に達していくようで、足は無意識に外へと向かう。
 これはいけない――そう思った瞬間、ノーチェの足は駆け出していた。

 勿体ない――とは思えなかった――それと別れを告げて、ノーチェは何故か黒ずんだ食器類を片付ける。見た目とは裏腹に、黒ずみは水の力だけで流れていって、最後には綺麗な表面が顔を覗かせた。手入れがよく行き届いた皿だ。いつ見ても惚れ惚れしてしまう。
 その皿を割らないように立て掛けて、ふぅ、と彼は息を吐いた。後ろではリーリエが啜り泣くように突っ伏して、「何でこうなるの……」とぶつくさ呟いている。砂糖と塩を間違える、程度の領域で収まらないそれに、ノーチェは慰めの言葉も見付からなかった。
 ただ落ち込んだ背に手を添えて、「もう帰ったら」とだけ伝える。帰ってゆっくり休んだら――なんて言ったが、リーリエは顔を上げると「いいえ」と言った。

「たまご粥くらい作れるわよ! 私だってねえ!!」
「頼むからもう帰って」

 唐突に立ち上がって、どこから取り出したかも分からない鍋を持ってリーリエは叫ぶ。まるで酒を飲んだ後のような落ち着きのなさに、ノーチェは堪らず手を出して小さく肩を掴んだ。
 添えるだけでいい。意図的に強く掴んで力を込める必要はない。ほんの少し、僅かに力を乗せるだけでいい。
 たったそれだけで女の動きはぴたりと止まり、「あら?」と声を上げた。言うほど力がこもっているような手ではないのに、肩にのし掛かる重圧に気が付いたのだろう。「あんた、案外力が強いのねえ」とカラカラと笑っているが、目はどこか虚ろだった。
 本当に帰って。後が面倒くさい。――口を突いて出た言葉がリーリエに突き刺さる。後片付けが酷く面倒くさい。手順は完璧な筈なのに、どこかで何かを間違えてキッチンが荒れるのは許せないのだ。そもそも屋敷はノーチェのものではない。リーリエが帰った後に説明を求められるのは、紛れもなくノーチェだ。
 女は何度も渋って、子供のように駄々を捏ねる。「あいつができて私にできないのは可笑しい」やら「ちゃんとできるはず」やら、根拠のない言葉ばかりを述べてくる。ノーチェはそれを聞き流しながらいくつかの食材を手に取って、リーリエを引き摺り歩く。
 何を言ってもキリがないリーリエに、手土産と言わんばかりに食材を持たせてエントランスの扉を開ける。外は昼間よりも幾ばくかは涼しくなったが、頬を撫でる風は相変わらず生温かった。

「それ、あげるから帰って」
「あんたってそんなに酷い子だった!?」

 扉の目の前で子犬のように喚くリーリエを、ノーチェはどう対処しようか頭を悩ませていた。屋敷には体調を悪くした終焉が床に伏せている。これ以上喚くのなら、終焉に怒られかねない上に、治るものも治らないだろう。
 ああ、煩い。喧しい。
 耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、ノーチェはふと思い出してリーリエに問う。

「なあ、あれ。何だっけ……俺が買ったやつ」
「少年が買った……? ああ、謎に懐に入ってた剥き出しの氷嚢ね!」

 ノーチェが問い掛けると、あれまで喚いていたリーリエはパッと顔色を変えて、にこやかに答える。情緒不安定なのだろうか、と考えてしまったのを頭の隅に置いて、「そう、それ」と彼は頷く。

「どうやって使うんだっけ」

 そう訊けば、リーリエは懇切丁寧に彼に教えた。
 少量の水と氷を入れて、蓋を閉めた後は冷やしたい箇所に置けばいい。氷も水も入れすぎには注意して、溶けたら再び氷を入れてやればいい。
 そんな説明を聞いて、ノーチェは「ふぅん」と小さく頷く。「助かったから帰っていいよ」なんて言って屋敷から閉め出せば、「何かあったら来るからね」と扉越しに女は叫んでいた。その後に踵を返したのか、足音が聞こえて、どんどんと遠ざかる。「何かあるのも分かるのか……」なんて一人呟いて、ノーチェは再びキッチンを目指した。
 机に置き去りにしていた氷嚢を手に取り、冷凍庫を開けて、氷を入れる。水を加えて、円状の蓋を閉めてやって、ノーチェは終焉の部屋へと赴く。何気なく手のひらを添えてみれば、布越しに氷水の冷たさを感じる。これなら濡れたタオルよりもマシだろう、と彼は終焉の元へ再度赴いたのだ。

 ――そうしてある程度の時間が経った後、何故か強烈な味が舌の上を転がり始め、ノーチェは呻く。特別嘔吐や下痢などの症状は現れないが、ただひたすら胸焼けと謎の味が不意に姿を見せるのだ。
 リーリエが手を加えたものは一体何だったのだろうか。胸の奥に残る蟠りをなくそうと、無意識に胸元を擦りながらノーチェは顔を上げる。目の前には大人しく眠る終焉が、微かに呻き声を上げていた。席を外している間に何とか服を着替えたようで、布団から出てきている腕には黒い袖が顔を覗かせている。

 一体何が終焉を追い詰めているのだろうか。

 悪夢でも見ているかのような様子に、彼は思わず濡れたタオルを手に取って、頬に添えてやる。熱に魘される様子がやけに心配だと思うのは、男が完璧を体現していたからこそだろう。この人も人並みに体調を崩すのだ、と彼はゆっくり、宥めるように汗を拭った。

「――……」

 気を遣った筈なのだが、肌に当たるものが男の意識を揺さぶったのだろうか。徐に目を開いた終焉に、ノーチェは頬を拭っていた手を咄嗟に止める。体調の悪い男を起こしてしまった。再び眠りに就くのに、どれほどの時間が経ってしまうだろう。

「……んと、起こした?」

 ゆっくり、小さく声を掛ければ、終焉は徐にノーチェへと顔を向ける。未だ明るい筈の外を置き去りに、まるで夜のように薄暗い部屋の中で、男の顔はやはり心配になる。力の入りきらない目元はぼんやりと彼を見つめていたが――やがて、小さく歪んでいった。
 泣くのだと直感が囁く。表情を少しも変えなかった筈の男が、露骨に、泣き出しそうな目でノーチェを見る。唇が小さく開閉を繰り返していて、何かを訴えたいのだと思い、彼は「……何……?」と小さく語り掛ける。
 何か大事なことを言おうとしているような気がして、ノーチェは思わず身を乗り出した。
 ――すると、終焉の表情が固まる。ハッとしたように目を見開いて、「何でもない」と言うのだ。

「……何でもない。悪い、暇なら、本でも読むといい」

 そう言って終焉はもそもそと布団をかぶって、荒い呼吸を繰り返す。その拍子に落ちてしまった氷嚢を、彼は拾って終焉の布団の中へと差し入れる。「熱冷まさないと」と言って、終焉の反応を待った。
 男は不思議そうに布団から顔を出すと、仕方なさそうにノーチェに従う。普段は終焉がノーチェを従わせる所為か、素直に聞き入れる男が物珍しく彼はその行動を見守った。汗ばんでいる額に載せてやると、どこか心地好さげにほう、と息を吐くのが分かる。
 このまま眠れば少しは良くなるだろう。――そう思いながら、ノーチェは「今日、」と口を開いた。

「今日、誕生日なんだけど」

 ――そう言うと、終焉は悔しそうに唇を歪ませる。

「……ああ」

 あれだけはりきっていたというのに、この様だ。
 なんて言いたげな雰囲気が口許から読み取れる。終焉は本当にノーチェの誕生日を祝いたい一心だったのだと、確かに分かるような言動だ。
 だからこそ彼は寝具の端に肘を突いて、「早く治るといいな」と言う。

「そんで……美味しいもん、作って。魔女のは駄目、アンタのが食いたい……」

 「あの人のはもう食べたくない」そう告げると、終焉はノーチェを見て、「ああ」と笑った。笑って、力が入りきらない手を彼の頭へ伸ばし、軽く撫でる。男の癖のような行動がやけに心地好くて、ノーチェは口許だけ、小さく笑った。