奴隷になってから働くこと以外は考えてこなかった。だからこそ、終焉の代わりに周りの家事に着手をしたが、いかんせん上手くいかないのが現状である。一度リーリエを呼び戻そうかと思ったが、彼には女の居場所など分かる筈もない。とにかく自分ができることをひとつひとつこなしていった。
部屋の掃除から始まり、浴室の掃除をして、干していた洗濯物を畳んで片付ける。料理はできないというわけではないだろうが、どうにも作る気は起きなかった。
許可をもらって菓子を貪り、沸いた風呂に入浴剤を入れてから、終焉が入れないことに気が付く。合間に終焉の様子を見に行って、氷嚢の中身を取り替えて、具合の良し悪しを訊ねる。特別変なものがなければそのまま風呂に入ることを告げて、彼は汗を洗い流した。
ノーチェがやっていることは終焉の日常のひとつだ。それを毎日続けているわけではない彼は、家事の大変さを思い知る。普段ならやろうともしないものだが、そうも行って言っていられないのが現状だ。「今日が満月で良かった」と何度思ったことだろうか。
風呂から上がって芳ばしい香りがしないことに多少落胆して、ノーチェはその足で終焉の部屋へと向かう。すっかり夜になってしまった時間のこの部屋は、まるで闇に呑まれたかのように暗い。目が暗闇に慣れていなければ、躓いて転んでしまっていただろう。
「………………」
ゆっくりと目を開いたノーチェは、今まで自分が眠りに落ちていたことを知る。一体いつから目を閉じていたのかは記憶にない。恐らく、普段はやらないようなことを率先してやっていた所為で、体が酷く疲れていたのだろう。彼は目を擦りながら顔を上げる。
目の前には男がいた。眠りに落ちる前に見たときよりもいくらか顔色が良く、呼吸も安定している。リーリエ曰く特に食事は与えなくていいということだったが、それが本当に正しかったのかは、今では分からない。
それでも終焉の容態が安定しているのは確かで、彼はほっと胸を撫で下ろした。
これなら余計な心配はいらないだろう。
――そう思って何気なく顔を上げると、目映い光がノーチェの目を差す。星屑よりも遥かに煌めいているが、街灯よりも強い光ではない。やけに綺麗な満月が、小さな窓から顔を覗かせていた。
こんなところに窓なんてあったのかと彼は思う。夏の空は冬と比べれば澄んでいるわけではないが、それでも十分な月を見ることができる。今夜は綺麗な満月だ。あの月を眺めている一族もどこかにいるだろうか、なんて思いを馳せる。
すると、ノーチェの近くで何かが蠢いた。
「…………」
ほう、と小さく疲れたように吐息を吐いて、どこか眠たげな目を開けたのは、紛れもなく終焉だ。重そうな体を起こして、髪が垂れてくるのも気にせずに、徐に顔を上げる。
男の視線の先にあるのは煌々と輝く月だ。街灯の少ないこの屋敷の周りでは、星屑もはっきりと目に見えるほどの夜空を眺めている。声を掛けようかと思ったノーチェは、ぼんやりと空を見つめ続ける終焉にどこか引目を覚えてしまった。
邪魔をしてはいけない。――そう、本能が語り掛ける。椅子を引き、立ち上がって部屋を立ち去るのがいいだろう。体調の良し悪しは翌朝聞けばいい話なのだから。
結論を導き出したノーチェは椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。必要がなさそうな桶を軽く持ち上げ、刺激を与えないように身を翻す。あの人はこのまま寝るのだろうか。それともまだ起きているのだろうか――なんて考えながら、扉へ向かって歩き始めた。
「――お前も俺を置いて行くのか」
しん、と静寂に包まれた部屋の中で、無機質な男の声が響いた気がした。
気に留めるような素振りを見せなかった終焉が、空を眺めながらノーチェを確かに呼び止めた。その事実が彼に驚きを与えて、踏み出していた足がピタリと止まる。
ちらりと横目で終焉の様子を窺うが、やはり男は彼の姿を少しも見ていなかった。無意識で呟いた言葉なのだろう。
ノーチェは桶を抱えたまま一度考えるように小さく首を傾げ、再び近くの椅子へと戻る。机に桶を置いて、椅子に腰掛けて未だに顔を見せない終焉を見やる。風呂に入れていない所為か、普段の艶やかな髪は多少乱れていて、しっとりと湿っているようだ。
男の髪は腰の長さにまで至っている。時間を掛けてゆっくりと伸びたであろうそれが、酷く鬱陶しそうに思えてしまって、何かまとめるものがあった筈、と僅かに意識を終焉から逸らす。
すると――、男が空を見るのに飽きたように、ふと顔を動かした。
「…………何だ、居たのか……」
不意に交ざってしまった視線に、彼は瞬きをひとつ。終焉の言葉にやはり無意識だったのだと思い、気が付かれないよう吐息を吐く。月明かりに照らされている顔色は、起き上がっても悪くなるような兆しはなかった。試しに「……気分は?」と問えば、終焉は自分の手のひらを見つめる。
「……まあ、悪くないな」
――そう告げる男の顔は、普段から見るようなただの無表情だ。昼頃に見掛けた冷めた顔付きなど、面影すらも見当たらない。無表情の中に普段のような柔らかさを隠し持っている。これがノーチェの知る〝終焉の者〟であると理解すると同時、彼は「そう」と目を閉じる。
違和感のない清々しいほどの日常が戻ってきたようだった。心なしか、その事実に安堵しているようで、ノーチェはぼんやりと自分の手のひらを見つめ始める。終焉が無事であるということが日常だと思えるほど、ノーチェの中の「日常」が崩されているのだ。
もしも、もしも終焉から離れて再び奴隷に戻ったとき、自分はしっかりと仕事をこなせるのだろうか――。
「……もう少ししたら私はもう一度眠るよ。ノーチェ、貴方も戻って眠るといい」
ぼんやりと考え事をするノーチェを他所に、終焉は静かに話し掛けた。
本人曰く、かなり体の調子も戻ってきているようだ。色が白いことに変わりはないが、気分の悪そうな顔色でなくなっているのは確か。変に汗をかくこともなく、澄ましたような顔がじっとノーチェを見つめている。
彼はそれに違和感が――あるわけではないが、見つめてくる終焉を見つめ返す。綺麗な目だな、と何気なく男がノーチェを褒めた。彼は小さく頷いて、男の様子を窺い続けるが、何も変わった様子がない。寧ろ未だに動かないノーチェを見て、不思議そうに「どうした」と問い掛けてくるのだ。
気が付いてはいないのだろうか。月明かりを背にしてこちらを見てくる終焉は、澄んだ暗い瞳をノーチェに向けたまま、彼の反応を窺っているようだ。何かあったのかと、徐々に疑問を抱いてくる様は滑稽にも思える。
どちらでもいいのだ。ノーチェ自身に影響はない。――ただ、聞いてみればどちらが本当に「らしい」のか、すぐに判断がついてしまった。
「…………あのさ」
ぽつり、と小さく呟いたノーチェに、終焉は「何だ」と訊き返す。
「アンタって本当は、一人称『私』じゃないだろ……」
「――……何を」
何を言っているのだ。
――そう言いたげな終焉の瞳を、ノーチェは逸らしもせずにじっと見つめてやる。
初めこそ違和感があったのは勿論だ。普段から終焉は一人称が『私』である分、『俺』だなんて言っている間は胸の奥に何かがつっかえるような違和感を覚えていた。『私』ではなく『俺』で、『貴方』ではなく『お前』であることがノーチェの中の何かを刺激し続けていく。喉に小骨が引っ掛かったときのような感覚に似たそれに、多少なりとも思考を奪われていたのは事実だ。
しかし、つい先程聞いた終焉の言葉に、ノーチェの胸に残る蟠りがすっかりなくなったような感覚に陥る。彼はどこかであの言葉を聞いたことがある。――そんな感覚が、今までの先入観を壊したのだ。
場所は分からない。どこで聞いたのかも分からない。――そもそも、その言葉を紡いだのが目の前の男であったのかも、ノーチェには分からない。
けれど、終焉が無理やり自分を偽っているのだということは、何故か理解できたのだ。
「……違う?」
驚いたような様子のまま何も言わない終焉に、ノーチェは首を傾げながら再度問い掛ける。
すると、終焉は徐に視線を落としたかと思うと、「違わない」と言った。その声の色は確かに気分を悪くしていた頃のものとよく似ていて、理由も分からずに彼はどこか安心感を得る。トーンは低く、無機質な声色なのに、表情は少しだけ曇ったようだ。
今はもう無理をしているわけではないのだ、と男は言う。意図的に変え続けてからもう長い時間が経ったようで、意識をしなくても口を突いて出てくるのは、ノーチェが聞き慣れている口調だ。柔くしたつもりはないが、硬くしたつもりのない口調で、日常を過ごしていたのだという。
ノーチェはその言葉に「そうなんだ」とだけ呟くと、ゆっくりと息を吐いた。試しに今も以前の口調が出ることがあるのか、と問えば、終焉は首を横に振る。逆に意識しなければ全く出てこない、と男は言ったのだ。
――あんな状況で意識的に口調を変えられるのだろうか。
むぅ、と彼は唇を尖らせて、頭を捻る。
そもそも終焉が体調を崩すこと自体が不思議でならなかった。かくいうリーリエも独り言のように「こいつも風邪を引くのね」なんて言っていたのだから、尚更だ。完璧を体現しているかのような男が体調を崩したことからが、予想外の連続だったのかもしれない。
――そう思えば、自ずと彼は終焉の口調に対する違和感を失っていった。
ノーチェが理由を訊かずとも、終焉はぽつりぽつりと話し始める。口調を変えた理由は至って単純なもの――区別をつけるためだという。
人間が仕事に私情を持ち込まないよう、公私を分けるための心遣いに最も近く、特別な理由はない。人称を変えれば気を緩めることもなく、周囲を常に警戒していられる心持ちになれるのだ。
それを聞いてノーチェはふぅん、と生返事をした。興味がないというわけではなく、単純に納得がいかないような、退屈そうなものだ。じぃっと終焉を見上げながら僅かに唇を尖らせる。
その視線に気が付いた終焉は、ちらりとノーチェを見ると、「何だ」と問い掛けた。
「……いや。まあ……別に。何もないけど……」
終始歯切れの悪い言葉だった。彼は「ないんだけど」と呟くが、実際のところ、その表情は聞いていたものに対して納得がいっていないと言いたげだ。
一体何がそんなに気掛かりなのかと、終焉は小首を傾げて、何気なく彼の頭に手を載せる。もう何度目かのそれになるというのに、柔らかく癖のある白い毛髪を堪能することは毎回新しく思えた。白い指の隙間に癖毛が絡んできて、撫でると同時に指から離れていく。
そんな終焉の行動に、ノーチェはどこか満足感を得たように思えた。
撫でられる度に頭が揺れる感覚が妙に心地好く、頭を差し出すように小さく俯く。そのまま目を閉じて、数分の間は男に身を委ねる。随分と柔らかくなった髪質を終焉は「心地がいいな」と言った。
「……何でもいい。言ってごらん」
小さく紡がれた言葉は、夜に溶け込むようにやけに静かなものだった。怒るとでも思っているのか、と終焉はノーチェに問い掛けるように言うが、彼は小さく頭を横に振る。この程度で怒りを露わにするようならば、彼は既に事切れている筈だ。
しかし、彼の中にある小さな言葉は、終焉に向けて言うにはあまりにも遅すぎる。言おうか言わないか――彼は終始男の顔色を窺うようにちらちらと目線を配らせていたが、終焉は逸らさずにじっと見つめるものだから、折れる以外の選択肢がなかった。
「…………口調、気にしなくていいよってだけ……」
息を吐くように紡がれた言葉に、終焉はただぼうっとノーチェを見つめるだけ。撫でていた手は疎かになり、やがて完全に止まると終焉は数回瞬きを落とした。
無理をして口調を変えているのなら、自分の前では好きな方でいればいいと言ったのだ。彼は特別終焉に対して口調を改めたことがないのだから、立場を挙げれば口調を改めるべきはノーチェの方である。それに――何より、彼は自分のことを「貴方」と呼ばれることに、違和感を覚えて仕方がないのだ。
慣れていないと言えばそうになるのだろう。いざ終焉の口調に耳を、意識を傾けてみれば、むず痒くていたたまれない気持ちに苛まれる。「お前」だの何だのと呼ばれ続けていた彼にとって、終焉から紡がれた「お前」という言葉は、やたらと懐かしく思えた。
何故男の言葉に懐かしいなどと思うのかは分かっていないが、聞き触りのいい言葉の方がノーチェ自身も落ち着くのだろう。
――しかし、ノーチェの気遣いも虚しく、終焉は首を横に振って彼の誘いを断る。
無理をしているわけではない。違和感がそこにあり続けるわけでもない。終焉はあくまで自分から口調を変えようとして、人称を変えたのだ。初めこそは無理矢理だったものの、今ではそれが自然体となっている。今更言葉遣いを換えようなど、男の何かが許そうとはしなかった。
それに――、と終焉は静かに続ける。
「これは、区別をつけるためのものだ。今更俺であり続けようなど、思っていない」
暗い部屋の中で見上げた終焉の目には、決意の色がしっかりと宿っている。今更ノーチェ自身が何を言おうとも、それを変えることはもうないのだろう。
なら何故一時的に言葉遣いが変わったのだ、と彼は問い掛けたくなった。人称を変えていた筈なのに、違和感もなくすんなりと『俺』と称していたのは何なのかと。
だが、相手はノーチェから見ても病み上がりの男だ。暗い部屋の中で月明かりに照らされている顔色が程好くなったとしても、無理に起こし続けるのは体に悪い。彼はじぃっと終焉の顔を見つめたあと、目線を落として「そう」とだけ言った。
「じゃあ、朝。朝……調子良かったら何か作って」
「……ふ、私を誰だと思っているんだ」
終焉は微かにほくそ笑むと、再度ノーチェの頭を撫でた。くしゃり、と整えていた髪が乱れるのを見て、彼は思わず手櫛で整える。特別嫌な気持ちは湧かない。大人しく離れる終焉の手を目で追ってから、ノーチェはゆっくりと立ち上がると、ちらりと目配せをする。
終焉のために置いていた桶を片付けようか――そう思っていると、男が「気にしなくていいよ」と言った。
「悪かったな。後片付けは私がしよう。だから今夜はもう寝るといい」
有難う。そう言って終焉はノーチェの背を押して、「おやすみ」と告げる。
きっとこの言葉に嘘はない。――そう思った彼は一度頷くと、扉に向かって歩き始める。暗い部屋の扉の前で立ち止まり、一度振り返ってから「おやすみなさい」と言えば、終焉は「ああ」と答えた。
部屋から出て、扉を閉める。パタン、と小さな物音の後に、ノーチェは「よかった、」と、胸に募る安心感を言葉にした。取り敢えず安心して眠れるのだと思うと、途端にノーチェに眠気が押し寄せてきたのは言うまでもない。